小穴隆一「鯨のお詣り」始動 底本書影・「螢のひかり」
鯨のお詣り 小穴隆一 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:本書は小穴隆一の随筆集(附・詩篇及び句集)で、昭和一五(一九四〇)年十月に中央公論社より刊行された。
底本は所持する初版本を用いた。底本は総ルビに近いものであるが、五月蠅いので読みが振れる、或いは特異であると私が判断したもののみを示した。
既に本ブログ・カテゴリ「小穴隆一」で電子化注を終えた「二つの繪」の半分近くは、この「鯨のお詣り」の内容を元に訂正改稿したものであり、謂わば、その「初稿」と称してよいものが半分弱含まれる。されば、その箇所についは注はそちらで既にしているものが多いので、対応改稿に相当する「二つの繪」をリンクさせて済ました箇所もあることを述べておく。但し、こちらの記載内容が誤っていて、小穴が「二つの繪」で正しく書き直した箇所も多くあるので、「二つの繪」へのリンクのあるものは必ずそちらと対照させてお読み戴くようお願い申し上げる。初版本(小穴隆一自身の装幀)のその雰囲気はなるべく再現するように努めた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【2017年2月3日始動】]
[やぶちゃん注:以下、箱表紙・背・箱裏。裏の文句はやや字体に問題があるが、『稺子敲針作釣鈎』で、これは杜甫の七律「江村」の第七句目。
江村
淸江一曲抱村流
長夏江村事事幽
自去自來梁上燕
相親相近水中鷗
老妻畫紙爲棊局
稚子敲針作釣鉤
多病所須唯藥物
微軀此外更何求
淸江一曲 村を抱きて流れ
長夏江村 事事(じじ)幽(いう)たり
自(おのづか)ら去り自ら來たる 梁上(りやうじやう)の燕
相ひ親しみ相ひ近づく 水中の鷗
老妻は紙に畫(ゑか)きて棊局(ききよく)を爲(つく)り
稚子(ちし)は針を敲(たた)きて釣鈎(てうこう)を作る
多病 須(ま)つ所は 唯だ藥物のみ
微軀(びく) 此の外に 更に何をか求めん
「老妻は紙に畫きて棊局(ききよく)を爲(つく)り」貧しい故に老妻は子の遊ぶための碁盤を紙に線を引いて描いて作っているのである。但し、この詩は杜甫が、貧しくはあったものの、成都で安定した生活を送っていた四十九歳の折りの作とされるもので、この五年後に一族を連れて成都を離れ、苛酷な放浪の果てに没するのは、この十年後のことである。]
[やぶちゃん注:以下、本体表紙・背・裏表紙。]
[やぶちゃん注:以下、裏見返し。表見開きも全く同じ絵であり、署名部分が焼けていない裏の方を採った。左手上部に『知恩院宮 御入輿 賜号 一游亭』とあり(「一游亭」は小穴隆一の俳号と一致するが、偶然か。或いはこれをヒントに小穴は自分の俳号を作ったのか?)、他にも邸内の各所のキャプションとして『□□神靈』(判読不能)『池水』『御嶽山行水塲』などのキャプションが記されてあるが、これは本書の後書きに、『見返しには父の生家の林泉圖を複製して用ゐた。安政二卯年調であるから、亡父誕生十年前の林泉である』とある。安政二年は確かに乙卯(きのとう)で一八五五年。しかし、これでも元の絵の絵師と対象が判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]
[やぶちゃん注:以下、とびらの標題。小穴隆一直筆であろう。]
[やぶちゃん注:以下、目録に続いて、装画が著者自身とする記載(ここまで罫線頁)、内表紙(総て活字)があるが省略する。]
鯨のお詣り
螢のひかり
中華民國發行の、財政部平市官錢局(ざいせいぶへいしくわんせんきよく)の當拾銅元(たうじふどうげん)貮拾枚(まい)といふ一枚の紙幣が、中国臨時政府なる今日に於いても、依然としてなほかつ通用するや、否やといふことについては、海を越えて向うに渡ればいろいろの紙幣が畫きこんであるポスターがあるから、あれを見て貰ふよりほかにない話なのである。
[やぶちゃん注:以下、この紙幣を枕として語られるのであるが、蒐集家目当ての販売サイトで画像を捜してみたが、見当たらない。後に出るように、「紙幣の表の左は萬壽山(ばんじゆさん)」(推定)で、「右に祈念殿、裏は北海公園」とある。識者の御教授を乞う。]
面白いことには、今日の私(わたくし)共が、紙幣とか郵便切手の類(たぐひ)の物には、矢張り如何(どう)もそれぞれの偉人の肖像が畫(か)きこんでなければ、紙幣として又は郵便切手としての威光や貫目(くわんめ)を、疑ひかねないやうである。今年は民國二十八年であらう。私の「あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼(がき)はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)」といふ歌も、古きことであるが、昔、芥川龍之介が土産の筆墨と一緒に、一枚の紙幣を私に呉れや(芥川龍之介、大正十年支那に遊ぶ、)その紙幣には偉人の肖像が畫きこんでないのである。いま、民國となつて四年しか経過してゐなかつた中國のことや、大正十年頃の北京(ペキン)のことはともかくとして、近頃私は、自分が東安(とうあん)市場で買つてきた、北京寫眞帳は一向にみてゐずに芥川龍之介に貰つた紙幣の裏表に現はされてある、うつくしく可懷(なつか)しい銅版の風景を眺めては、切實の思ひを通はす日が多いやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「私(わたくし)」以下、特に読みを附さない場合の「私」はすべて「わたくし」であるので注意されたい。「可懷(なつか)しい」は二字へのルビである。
「今年は民國二十八年」一九三九年。昭和十四年。但し、以下の小穴隆一の中国旅行は、後の「あおうなばら」の雑誌記事の記載から、この前年の昭和十三年と推定される。
『私の「あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼(がき)はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)」といふ歌』小穴隆一の後の「二つの繪」の方の「一人の文學少女」の、本書のそれに追加した箇所に出、そこで小穴は、『あらぞめの合歡花(がうか)あらじか我鬼はわぶ はららにうきてさればむ合歡花(がうか)』の表記で出し、『といふのは、僕が昔、北京にゐた芥川に宛てて贈つてゐた歌の一つである』と述べている。
「芥川龍之介、大正十年支那に遊ぶ」芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は、大正一〇(一九二一)年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。
「民國となつて四年しか経過してゐなかつた中國」芥川龍之介が行った大正一〇(一九二一)年は中華民國十年であるから、それを言っているのではない。とすると、冒頭に出る不詳の「中華民國發行の、財政部平市官錢局の當拾銅元貮拾枚といふ一枚の紙幣」に印字された発行年を指すものか?
「東安市場」か北京最大の百貨集中地として知られた東風市場の旧名。現在はビルと化してしまっている。]
紙幣の表の左は萬壽山(ばんじゆさん)であらう。右に祈念殿、裏は北海公園である。
北京。私の「北京」は、王不邪(わうふじや)の測字判斷には
[やぶちゃん注:以下の占い結果は、底本では全体が四角な罫線で囲まれている。また、底本では「游」の下に左右並んで以下の前後の文字列がある。]
┌――――――――――――――――┐
│ 不必飄浮。放步得施其力。 │
│ 游 │
│ 或縱身抛此。大可開展也。 │
│ 動 │
└――――――――――――――――┘
と出たのである。
[やぶちゃん注:「萬壽山」これは後に出る「北海公園」(後注参照)内にある瓊華(けいか)島内に聳える白塔山の別名であろう。清朝始祖順治帝によって創建された永安寺というラマ仏教寺院。山頂に建てられた独特の形をした白い塔として知られる。
「祈念殿」現在の北京市東城区にある、明・清代の皇帝が天に対して祭祀を行った祭壇である「天壇」の中心建物である「祈年殿」のことであろう。天安門・紫禁城と並ぶ北京のランドマーク。
「北海公園」故宮の北西にある旧宮廷庭園(皇帝御園)。
「王不邪」後の叙述から占い師の名らしい。
「測字判斷」とは中国由来の漢字を用いた占法いの一種。依頼者に漢字一字を書かせて、それを見て占う。]
この游の字は、私が自分の俳號一游亭の游を擇んで書いたのであるが、王不邪? 莫忘傳名といてゐた。王不邪、張次溪編天橋一覽(チヤンツイピエンテイエヌチヤヲイラヌ)のなかから字句を拾へば、「酒旗戲鼓天橋市多少遊人不憶家(チネウチシクテイエヌチヤヲシトウオシアオイウレヌプイチヤ)」の天橋(テイエヌチヤヲ)、これを日本人がどろぼう市場(いちば)と呼んでゐる天僑(テイエヌチヤオ)の、その西市場西街路に軒を並べてゐる、許多(あまた)の神相測字(しんさうそくじ)の名家達の一人である。
[やぶちゃん注:読みの表記の違い(「橋」を「チヤヲ」「チヤオ」と違って表記)はママ。]
妻を持たない男が、妻を持つてゐない男に、見てきた南亞米利加(みなみアメリカ)のの話を聞かせてゐた。そのいくつかの話のなかに、一つの話があるのである。それは、移民として成功した或る一人の男が、妻に、新しいピヤノを買つて與へたところ、その妻のはうは、彼女がまだ日本にゐた頃の、女學校で彈いてゐたのオルガンの音色でなければ氣がいかず、新しいピヤノには親しまずに、依然して古い前のオルガンを彈いてゐるといふ話であるが、私も亦、――私の北京は、あの幾匹もの駱駝(らくだ)が連なつて、電車通りの步道に、坐つて休んでゐた。北京は、まこと沙漠につゞく道を持つ街ではあるが、幼稚園のこどもの一人が、(北京には市立(いちりつ)の幼稚園は四つあると聞くが、私の參觀させて貰つた東單小牌坊胡同(とうたんせいはいばうこどう)幼稚園はその一つ)あしたもまたまたここにきてしやうかやゆうぎをいたしませう、といふ、日本のあれと全然同一のリズムの歌をうたつてから、先生達に、再見(ツアイチエヌ)。再見。を言つて皆歸つた。白地に靑の緣(ふち)がとつてあり、胸に市幼(しえう)の靑い二字があるエプロンをした可愛(かはい)いこども達。そのこども達のうちの一人が、門の傍(そば)にしつらへてある砂場、日本(につぽん)の砂とはちがふ。正確に言へば土らしいのであるが、そこに、たつた一人居殘つてゐて、小さい掌の上にのつた、黃いろい土饅頭(つちまんぢう)をながめてゐたその樣を目に、耳に、オルガンのひびきを聞き、「螢のひかり」の曲を聞かずにはゐられないのである。
[やぶちゃん注:「日本のあれ」教え子から恐らくは東クメ作詞・滝廉太郎作曲になる「さよなら」であろうと教授された。「Moto Saitoh's Home Page」内に「伴奏付きの『幼稚園唱歌』」共益商社編集(共益商社楽器店・明治三四(一九〇一)年刊)が電子化されており、その「第二十」に「さよなら」が載る。附された楽譜(拡大画像)の歌詞を小節ごとに切って以下に示す。
*
さよなら
ケフノ ケイコモ スミマシ タ
ミナツレ ダッテ カヘリマ シヨー
アシタモ マタマタ ココニキ テ
ケイコヤ アソビヲ イタシマシヨー
先生 ゴキゲンヨー サヨーナラ
*
リンク先ではmidi音源もダウンロード出来る。多重録音版であるが、You
Tube のこちらでも聴ける。]
元來、「螢のひかり」の曲を聞く時に、私共に證書を貰って學校を出るとか、或はを金を拂つて喫茶店を出て、家に歸るとかするやうに馴らされた、その感情の一面あるものであるが、中國人、同樣に最早學生でもない中国人が、この曲を奏でうたふ時に、彼等、螢のひかり、彼女等(ら)に、如何(どう)いふ感情が伴つてゐるのであらうか? 勿論、現在の私には、螢のひかりが北京の
ALOHA―OE でもあらう。しかし私にあつては、私が北京で聞いた双十節(さうじふせつ)の螢のひかり、仲秋節の螢のひかりが、それが、必ずしも、日本に於いて聞く螢のひかりにはならないのである。双十節をさかひにして、北海公園もだんだんにさびれてゆくと、村上知行(ちかう)君が言つてゐたその日の、夜の北海かの眞中に浮ぶ畫舫(ぐわばう)で同席の㴬(シエ)君は、突如として立派な、日本語で壯麗な螢のひかりをうたひ出した。それは、畫舫からが小舟に乘移つて、一足さきに歸る、程硯秋(ていけんしう)を送つてうたつてゐたのであるが、私はこの螢のひかりに對して、一日も餘計に北京に滞在することを計(はか)つて、自分の財布をいま一度調べたのである。
[やぶちゃん注:「画舫」美しく飾った遊覧船。
「双十節」太陽暦十月十日の中華民国国慶日(こっけいじつ)の別称。中華民国の建国記念日に当たる(但し、中華民国開国記念日は一月一日(一九一二年)で、国慶節を「建国記念日」と訳すことには疑義を示す向きもある)。辛亥革命の導火線となった武昌蜂起が起った清宣統三年八月十九日がグレゴリオ暦で十月十日にあたり,十が二つ重なるところから双十節と呼ばれる。
「村上知行」(ともゆき 明治三二(一八九九)年~昭和五一(一九七六)年)は中国文学翻訳家・中国評論家。ウィキの「村上知行」によれば、福岡県博多生まれ。幼少時に父親と死別し、商家の店員となるが、十三歳の時に病気のために右脚を切断した。九州日報記者や旅回りの新派劇団の座付き作者などを務めながら、独学で中国語を学び、昭和三(一九二八)年、上海に渡った。昭和五(一九三〇)年からは北京に住み、中国に関する評論・ルポルタージュなどを刊行、一時期、読売新聞特派員を務めたが、昭和一二(一九三七)年の盧溝橋事件を機に辞職、『日本の戦争政策への協力を拒否し、著作を通して反戦の立場を示した』昭和二一(一九四六)年五月、『妻子とともに日本へ引き揚げ』た後は、『四大奇書を中心に翻訳、抄訳を行い、佐藤春夫名義での翻訳も行った』(下線やぶちゃん)。『自宅においてナイフで首と胸を刺し』、『自殺した』。彼について書かれた「47NEWS」の『【地球人間模様】@チャイナ「気骨の反戦作家」』も必読。
「程硯秋」(チョンイエンチウ 一九〇四年~一九五八年)京劇俳優。女方。小学館の「日本大百科全書」の中野淳子の解説によれば、北京出身で、『演劇は人生の目標を高める意義を備えるべきだという演劇観をもち』、「鎖麟嚢」(:「えにし」)「荒山涙」(「こうざんむせぶ」)「春閨夢」などで、『封建社会の圧迫にも屈せず重なる不幸に耐える女性を哀愁のなかにも淡雅に凛然(りんぜん)と表現した。伝統劇理論の研究を積み、多くの戯曲を改作・自作上演し、つねに時代と人民の要求を反映させた。メロディーの組合せで単調さを破る独自の改良は、京劇女方の歌唱芸術に影響を与えた。程派の演技は李世済(りせいさい)、趙栄(ちょうえいたん)らによって継承され』、「荒山涙」の『舞台は呉祖光(ごそこう)監督で』一九五六年に映画化されているとある。]
仲秋節、雨でを月を見られなかつ中國の仲秋節の夜(よる)、私は、私に中國語讀(よみ)で三字經(サンツチン)の素讀を授けやうともした前門外(チエヌメスワイ)の女、私も中國語(チオウンクウエホワ)が出來ず、彼女も亦日本語が話せない、その女の書庽(しよぐう)で十六塊錢(シリオウクワイチエヌ)のオルガンに鳴る、螢のひかりを聞いたのである。十大塊錢のオルガンの音階は紙ぎれの、「今日(こんいち)九月十五日神日(しんじつ)、月神(げつしん)、財神(ざいしん)」「你在這里等候(ニツアイチオオリトホオウ)、我去一小時就囘來(ウオチユイイシヤオシチオウホイライ)」の文字のまどはしさには及ばないであらう。然るに私は、――既に原稿紙に「不好(プハオ)」の文字もつらね「不好」の差畫(さしゑ)をも畫(か)いてしまつた。筆を投じなければならないのである。
[やぶちゃん注:「前門外」「人民中国」の李順然氏の「下町情緒残す老舗たち」によれば、故宮、即ち、『紫禁城の正門である天安門の南の直線上にある北京の表玄関の正陽門の別称』で、『この前門の南側には、五百年も昔からの商店街が広がる。この一帯は北京の老舗が多いところで、北京市民はここを「前門外」と呼んで親しんでいる』とある。
「三字經」ウィキの「三字経」(さんじきょう)から引く。『百家姓・千字文とならぶ、伝統的な中国の初学者用の学習書で』、三文字で一句とし、『偶数句末で韻を踏んでいる。平明な文章で、学習の重要さや儒教の基本的な徳目・経典の概要・一般常識・中国の歴史などを盛り込んでいる』。
「塊」「元」と同義の貨幣単位。現在でも普通に使い、日常的には「元」は使わなくても、「塊」は使うと、在中の教え子より連絡があった。
「書庽」「庽」は「館」であるが、中国語ではこれは「売春宿」を指す。されば、小穴隆一の挿絵とともに、以下の小穴特有の判ったような判らぬ朦朧叙述も概ね想像がつこう。]