小穴隆一「鯨のお詣り」(40)「河郎之舍」(3)「河童の宿」
河童の宿
[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河童の宿」の原型であるが、殆ど違ったものに書き変えられている。こちらではそもそもが二点の挿絵(一点は次の「游心帳」パートに挿入)自体の絵解きが実は全くなされていないのは驚きである(次の「游心帳」の芥川龍之介の描いた河童を蹴飛ばす馬の絵の下に『久米さんの河童の繪』とはあるが、それでは二枚の絵を前に、当時の読者が甚だ戸惑ったであろうことは想像に難くない)。久米三汀正雄の馬の尾に河童がぶら下がった絵に芥川龍之介が「提燈のやうな鬼灯岸に生へ」という句を添えた戯画(「三汀」の落款は芥川龍之介が筆跡を真似て書いたもの。リンク先を参照のこと)は「二つの繪」よりも大判なので新たに底本のものをスキャンし、現在、最も信頼の於ける二玄社版の「芥川龍之介の書画」(この本は総てが非常に鮮明なカラー画像なのであるが、著作権機構に申し出されてある特殊著作権出版物で無断複写が禁じられているため、お示しすることは出来ない)のそれと照合して、汚損と断じられる部分を清拭して示した。]
我鬼先生時代の芥川さんの繪といふものは、同じ妖怪を畫(ゑが)いてゐても妖怪にどことなく愛敬(あいけう)があつたものであるが、私先日佐佐木さんの新居で佐佐木さんの所藏する芥川さんの河童の繪の額を再びみて、河童も晩年には草書となるかの感を抱いたのである河童も晩年には草書となるかだけでは、おそらくは讀者の多數にその意を通ずる言葉にもならないであらうが、「捨兒」「鼠小僧次郎吉」等(とう)を書きあげてゐた着物の下に黑の毛糸のジヤケツトを着込んでゐた頃の漁樵問答(ぎよせうもんだう)に依る水虎(すゐこ)、芥川さんの河童も始めは二疋立(ひきだ)ちの繪であつて、「山鴫」の頃には、斧、釣竿を捨てて、蒲の穗を肩にした一疋立(ひきだ)ちの河郎(かはらう)となつてをりさらに「玄鶴山房」「河童」の頃に至つては、蒲の穗さへ捨ててゐる河童となつてしまつてゐるのであるが、その繪の筆意(ひつい)に、その河童の姿に、私にしてみれば、河童も晩年には草書となるかとの感があるのである。まことに、「松風に火だねたやすなひとりもの。」字でいふ楷書草書といつた意味ではなく、繪の河童も亦晩年には明らかに疲れてゐる。然るに、例へばここに挿入した一つ目の怪の繪の如き、これは私も芥川さんの死後にはじめて見たばけもの帖にあるのであるが、斯(か)ういつた最後の物に、明らかに筆も確かに堂々たるかたちを具へてゐるその間(あひだ)の差は、なかなかに物を思はする。
松風に火だねたやすなひとりもの
井戸端(ゐどばたに)に水引(みづひき)咲くや獨住(ひとりず)み
しちりんの上置(うはお)きに釜がのつてゐる。釜の蓋の上には一きれの西瓜(すゐくわ)がのつてゐる。さうして、西瓜の迂遠に一筆(ぴつ)、松風に火だねたやすなひとりもの、と書いたのがある。これが私の今日、私にとつての芥川龍之介を記念してゐるたつた一つの茶かけである。
[やぶちゃん注:「井戸端に水引咲くや獨住み」この句、「二つの繪」版ではカットされている。一見、芥川龍之介の新発見句か! と、ドキッとしたが、後段で、小澤碧堂の句であることが記されてある。もっ! 人騒がせなんだから! 小穴ちゃん!!]
芥川龍之介全集の見返しに使つた北斗七星の繪の上に
霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉
と、ある、あれを私の座蒲團の下にそうつとつつこんできたあれは鵠沼であつた。緣側の上にぢかにしちりんの上置きを置いて釜をのせ、釜の上には芥川さんのところからお裾分にあづかつた、一きれの西瓜を置いて、私はそれを半紙に寫してゐた。そこに背中合はせに住んで暮してゐた芥川さんが、そうつと這入(はい)つてきてそれを見るなり、
「僕にも一寸塗らせておくれよ、」と言つて、クレイヨンでその西瓜を塗付(ぬりつ)けてから、筆(ふで)をとつて、松風に火だねたやすなひとりもの、と書添へたこれも鵠沼である。相笑つて共になした西瓜圖にある芥川さんのこの句は、「生きてしまつた人々」のやうな今日の私にも、をりをりは颯々(さつさつ)たる松風を送つてきてくれてゐるのである。井戸端に水引咲くや獨住み、これは獨住みの鵠沼のその私の家にいく日か泊つてゐて、いく日かの獨酌の日の後(のち)に、歸つて行つた碧童さんが書捨(かきす)てておいた句の一つである。
私は芥川さんの書いた「秋山圖」の如き秋山圖を見たことは、曾つて一度も無い。又、芥川さんの畫(か)いた河童の如き河童も見たことは一向にないのである。私はまだ一度も見たことはないが、元來河童といふ物は、私共のこの地上に棲息する物であらうか。「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀(こは)れるのがあたりまへだよ。君。」あゝ後(のち)に我鬼先生が言つてゐた布佐行(ふさゆき)、そもそも書く會をやらばやの私共、私達は何故にあの時伊豆箱根の説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、當時牛久沼(うしくぬま)のほとりには小川芋錢(うせん)さんがゐた。芋錢さんは人も知る河童の繪の名題(なだい)の妙手であつた。いまにして思へば、淸兵衞(せいべゑ)賛を加へて私共は、河童に會(あは)せに芋錢さんが住む土地のはうに、あの寒空(さむぞら)のなかをああも我鬼先生を引きずつてしまつた。いまもなほ芥川さんの家(いへ)に、長い卷物となつて殘つてゐるであらう當時の物のなかに、私共が泊つたその土地、その旅籠屋(はたごや)の名が書きとどめられてでもゐるはずであらうか。繪か小説とかの場合では一般にモデルがそれ以下であつて、それをみる人達に氣の毒で情けない事であるが、芥川さんの「魚河岸(うをがし)」の連中の私共が我孫子(あびこ)で汽車を降りてから布佐の辨天を振出(ふりだ)しに、まだ靑い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ步きに步き、日暮(ひく)れて行きつくところで泊つた旅籠屋、あゝいふのが河童の宿(やど)とは思へるのである。ことによると、大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを、何(なに)なすとなく、何(なに)話すとなく、終日(しうじつ)さうしてそのまた翌日も步いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされた仕事かも知れない。河童の宿の人は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯(せんたう)に行つてくれと湯札(ゆふだ)をだしてきて呉れた。旅籠賃(はたごちん)があまりに安いので、それ相當に、四人で壹圓の茶代を出したら、手拭(てぬぐひ)のかはりに敷島を四個お盆の上にのせてきた。――もつとも私のいふ河童の宿、私は河童の宿としてこれを書いたが、河童の宿の人は、朝になつて、人間の寢るその恰好には、それ相應の恰好といふものがあるだらうに、丁度昔のロシヤの旗のやうに蒲團を敷きなほして寢てゐた。私共はほの暗い電燈の下(した)を中心にして臥(ふ)せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌や句を書き、繪を畫(か)くために敷かれた蒲團の位置をなほしただけのことであつたが、ともかくさういふ形に寢てはゐた四人の者を反(かへ)つて利根の河童とみたかも知れないのである。
[やぶちゃん注:『芥川さんの「魚河岸(うをがし)」の連中の私共』芥川龍之介にとって、ここに出る親しい友人らは、作品の材料とするものを仕入れる「魚河岸」のような存在であったと小穴隆一は謂いたいのだろうか。一応、暫くはそのように採っておく。]