柴田宵曲 妖異博物館 「天狗になつた人」
天狗になつた人
京都の東松崎に日蓮宗の寺があつた。こゝの上人は高才の人であつたが、病氣になつて遷化(せんげ)も遠からずと見えた頃から、何となく容貌が物凄く變り、看護の人達も心許なく思ふうちに、ふと起き上つて、只今臨終ぞと四方を見る眼が輝き、鼻が高くなり、左右の肩に羽が生え、寢室より走り出て、緣側へ行つたと見る間もなく、如意ガ嶽に飛び去り、行方が知れなくなつた。上人には有力な弟子が五人ほどあつたが、師の成行きを見て、いづれも宗旨を改めた。そのうちの一人が淨土宗になり、了長坊と稱して東山で念佛をすゝめて居つた。この人の口から、上人の天狗に化して飛び去つた時の恐ろしかつたことが傳へられた(新著聞集)。
[やぶちゃん注:「東松崎」現在の京都市左京区松ヶ崎東町、この附近か(グーグル・マップ・データ)。
「心許なく思ふ」何とも心配で、気掛かりに思う。
「如意ガ嶽」如意ヶ嶽(にょいがたけ/にょいがだけ)は山頂が京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町にある京都東山の標高四百七十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の松ヶ崎東町からは、南東に五・五キロメートルの位置にある。
以上は「新著聞集」の「第十四 殃禍篇」(「殃禍」は「わうくわ(おうか)」で「災い・災難」の意)の「日蓮學僧活(いき)ながら天狗となる」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した。
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洛陽の東松が崎に、日蓮宗の寺あり。此上人、高才の人にて、門弟にも、上人分(ぶん[やぶちゃん注:師の才智に相応しただけの知力を持っているの謂いであろう。])の聖(ひじり)あまたありし。師煩(わづらひ)て遷化遠(とほ)からず見へし比(ころ)より、何となく、面像(めんざう)のあたり物すごくて、看病の面々、心もとなく思ひしに、不圖(ふと)をきあがり、只今臨終ぞとて、四方を吃(きつ)と見たる眼(まなこ)かゞやき、見る見る鼻高くなり、左右に、羽(は)がひ生(はへ)て、閨(ねや)より走り出(いで)て、緣(ゑん)ばなに行(ゆく)とみへしが、むかふの如意(によい)が岳(たけ)に飛(とび)さり、行方(ゆくへ)なく成(なり)し。弟子の上人五人、みなみな宗旨をあらためし中(うち)に、浄土宗に獨り成(なり)て、名を了長坊とあらため、東山におはして、多くの人に念佛をすゝめたまひし。此人の、くはしく語りて、舌を振(ふり)ておそれあへり。まことに其上人の日來(ひごろ)の行跡樣(ぎやうせきやう)、おもひやられて哀(あはれ)なり。
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近江の長命寺に居つた普門坊といふ僧は、松ガ崎の巖上に百日の荒行をして、終に生身の天狗になつた。この僧は長命寺に近い牧といふ村の者で、何某忠兵衞といふ郷士の家から出た。天狗に化して後、一度暇乞ひに來て、以後はもう參りますまい、といふ聲だけ聞えた。「今は百有餘年前のことゝかや」と「閑田耕筆」に書いてある。「閑田耕筆」は享和元年版だから、先づ元祿末年の事と見てよからう。
[やぶちゃん注:「長命寺」琵琶湖畔に聳える長命寺山の山腹、現在の滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ)。創建は推古天皇二七(六一九)年とし、聖徳太子を開基と伝える古刹で(但し、伝承の域を出ず、確実な史料上の長命寺寺号の初見は承保元(一〇七四)年)、参照したウィキの「長命寺」によれば、伝承によると、第十二代景行天皇の御世、かの『武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り』長寿を祈願したことから、宿禰は三百歳の『長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている』とある、私に言わせれば、天狗を産み出しそうな面妖な寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「普門坊」「ふもんばう(ぼう)」。非営利教育機関「JAPAN GEOGRAPHIC」公式サイト内の長命寺のページ(写真多数)の中山辰夫氏の記載によれば、寺の境内の一番奥まったところに「太郎坊権現社」が祀られており、これが普門坊が天狗となったものを祭祀したものと記しておられる。以下に引く。『この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされる』。『祀られているのは、太郎坊という大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になって、寺を守護しているのだとか』。『屋根に覆い被さるような巨石は「飛来石」』。京の天狗のメッカ、『愛宕山に移り住んだ太郎坊が、長命寺を懐かしく思って、近くにあった大岩を投げ飛ばし、長命寺の境内に突きささったものだとか』とある。
「松ガ崎」地図上では確認出来ないが、こちらの方の記載中に、『長命寺の山を下りて、すぐ目の前にある「名勝
松ヶ崎」という場所』で撮った琵琶湖への落日の写真があるので、長命寺の直下にある湖岸の呼称であることは間違いない。
「牧」現在の近江八幡市牧町(まきちょう)。現行の牧町は長命寺の南から南西方向の四キロメートル圏内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
以上は「閑田耕筆」の「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した(カタカナは原典のもの)。
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淡海(あふみ)長命寺に普門坊といへる住侶(じふりよ)、其(その)麓(ふもと)松が崎の巖上(ぐわんじやう)に百日荒行(あらぎやう)して、終(つひ)に生身(しやうしん)天狗に化(か)したりとて、其(その)社(やしろ)、卽(すなはち)松が崎の上(うへ)本堂の裏面の山に有(あり)。此僧の俗性(ぞくせう)は、此長命寺のむかひ牧(マキ)といふ村にて、某氏(ばうし)忠兵衞といふ郷士(がうし)の家(いへ)より出(で)たりしが、化して後、一度至り暇乞(いとまごひ)し、今よりは來(きた)らじと聲計(ばかり)聞えてされりとなん。今は百有餘年前のことゝかや。今も年々某(ばう)月日(つきにち)、此社の祭は彼(かの)忠兵衞の家より行ふとぞ。
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「享和元年」一八〇一年。
「元祿末年」元禄は十七年(グレゴリオ暦一七〇四年)の三月十三日に宝永に改元している。]
倂し天狗になる者は必ずしも出家方外の人には限らぬ。信州松本の藩士萱野五郎太夫といふ人は、文武兩道の嗜みがあり、萬事物堅い人物であつたが、その代り物に慢ずるところがあつた。或年の正月、大半切桶を新たに作らせ、幾日の晝頃には必ず出來(しゆつたい)するやうにと、嚴しく下男に命じた。果して何事がはじまるのか、訝りながらその通り調製すると、今度は新しい筵十枚をとゝのへ、餠米四斗入三俵を赤飯にしろといふ。十枚の筵は座敷に敷かせ、大半切桶には赤飯を盛つて筵の上に据ゑ、自分は日の暮を待つて沐浴し、麻上下を身に著けた。家人は悉く退け、無刀でその一間に閉ぢ籠つたので、氣が違つたのではないかと思つたが、他には別に不審の事もなく、殊に無刀であるから、五郎太夫の云ふに任せた。その夜半頃になつて、人數ならば三四十人も來たやうな足音であつたが、もの言ふ聲は少しも聞えない。曉方にはひつそりして、やがて夜も明け放れたのに、何の音もなくしづまり返つてゐる。こはごは襖を少し明けて覗いたら、人影は全くないのみならず、あれほどの赤飯が一粒もない。五郎太夫の姿も見えぬので、方々搜したが、結局行方不明であつた。そのまゝには捨て置けず、領主へ屆け出たところ、常々貞實の者であり、不埒な事で出奔したといふでもないが、理由なく行方不明になつた以上、家名は斷絶、代々の舊功により、倅を新規に呼び出し、もと通りの食祿で召仕はれることになつた。翌年の正月、誰が置いたかわからぬ書狀が一通、床の間にあつて、紛れもない五郎太夫の筆蹟で、自分は當時愛宕山に住んで、宍戸シセンと申す、左樣に心得べしと書いてあつた。尚々書に「二十四日は必ず必ず酒を飮むまじく候」とあつたが、その後變つた事もなかつた。たゞ領主はその年故あつて家名斷絶した。シセンの文字も書狀にはちやんと書いてあつたのだけれど、傳へた人が忘れたのださうである(耳囊)。この話は五郎太夫に心願があつて、天狗になつたものと解せられるが、天狗にならうとした動機、天狗になつてからの消息は、一通の書狀の外、何もわからない。
[やぶちゃん注:これは「耳囊」の「卷之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。私の電子テクスト訳注でお楽しみあれ。]
永祿頃の話といふから少し古いが、川越喜多院の住持が天狗になつて、妙義山中に飛び去つた。代代の住職の墓の中に、この住持の墓だけないといふ話がある。この住持が天狗になつた時、使はれてゐた小僧も天狗となり、同じやうに飛立つたが、まだ修行が足りなかつたのであらう、庭前に墜ちて死んだ。その小僧は恰も味噌を摺りつゝあつたが、摺粉木を抛り出して飛び去つた。そのためかどうか、今でもこの院で味噌を摺ると、必ず何者かが摺粉木を取つて行つてしまふ。味噌を摺ることが出來ないので、槌で打つて汁にすると「甲子夜話」に書いてある。たゞこの話には、小僧の墜ちたところに小さな祠を建てたとある外、天狗になつた後日譚は何も見當らぬ。
[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年で室町末期。
「川越喜多院」現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗星野山(せいやさん)喜多院。鬼となって厄病を防いだかの元三大師良源を祀り、「川越大師」の別名でも知られる。五百羅漢の石像でも有名。ここ(グーグル・マップ・データ)。
以上は「甲子夜話」の「卷之四十二」にある、川越喜多「院に味噌をすること成らず」である(原典目次は前が同じ川越喜多院の話柄であることから「同院」となっている)。以下に示す。「搨」は「する」(擂る)と読んでいる。
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又永祿の頃とか。喜多院の住持、天狗となりて、妙義山中の嶽と云に飛去りたりとぞ。因て住職代々の墓の中に、この住持の墓ばかりは無しとなり。又この住持の使ひし小僧も天狗となり飛立しが、庭前に墜て死す。故にその處に今小祠を建てあり。この小僧飛去る前に味噌を搨りゐたるが、搨こ木を擲捨て飛たりとぞ。その故か、今にこの院内にて味噌を搨れば、必ず物有て搨こ木を取去ると。因て味噌を搨ことならざれば、槌にて打て汁にするとぞ。是も亦何かなる者の斯くは爲る乎。
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