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2017/02/12

柴田宵曲 妖異博物館 「妖花」

 

 妖花

 

 遠州秋葉山の東南に京丸といふ土地があつて、岩石の聳えた斷崖に牡丹のやうな花が每年咲く。京丸牡丹といふのがこれである。「秉穗錄」は「さしわたし二三尺もあるべし」と云ひ、「煙霞綺談」は「徑尺ばかりに見ゆる」と云つてゐる。「雲萍雜志」はこの花が川に流れて行くのを拾つた者があり、花びらのわたり一尺餘もあるべし」と話したといふ。大きさが一定せぬのも尤もで、いづれも人の話を傳へてゐるに過ぎぬ。遠望した花の大きさは測りがたいから、それは已むを得ぬとして、色も「煙霞綺談」は白と記し、「雲萍雜志」は「色紅にして黃をおびたる花」と云ひ、全く區々である。二抱へとか、四抱へとかある木の花で、花の大なる故に牡丹と呼び來つたものであらう。遙かの斷崖に在つて正體を究め得ず、散つて下流に泛ぶのを拾ふといふのは、若干妖氣がないでもない。

[やぶちゃん注:「遠州秋葉山」「あきはさん」と濁らずに読むのが一般的。現在の静岡県浜松市天竜区春野町(はるのちょう)領家(りょうけ)にある、赤石山脈南端の山で標高は八百六十六メートル、古えより火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉大権現の山として知られ、中世以降は修験道の霊場となった。秋葉権現の眷属は天狗であり、天狗信仰の山でもある。

「牡丹」真正のそれならば、双子葉植物綱ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa となる。

「京丸」現在の天竜区春野町には小俣京丸(おまたきょうまる)がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、不審である。ここには「秋葉山の東南」とあるが、現在のそこは秋葉山の「東北」に位置するからである。しかも、現在の同地区の西端には「京丸山」があり、ここより遙か南に古地名が下がるとは思われない。そこで取り敢えず「秉穗錄」原文(後掲)を見たところ、やはり『東北』とあることが判明、これは柴田の転記ミスであることが明らかとなった。なお、驚くべきことにウィキペディアには「京丸」が存在する。出典が示されていない点で問題が指摘されてはいるが、以下に全文を引いておく。『京丸(きょうまる)は、静岡県内の地名である。浜松市天竜区春野町小俣京丸。かつて、一部からは仙境視、秘境視され、伝承、風俗が民俗学者などの興味を引いた。享保年間に起きた洪水の際に、下流の石切村に流れ着いた椀が発見されるまでは、存在を知られていなかった隠れ里とされる。柳田國男や折口信夫も興味を持ち、折口信夫は実際に来訪し、村の藤原本家に宿泊して、実地調査を行った』。『石切川の水源をなす山中にあった。特殊なボタン(牡丹)を産するといい、そのボタンが咲くときは遠方からこれを認めることができ、落花が渓流を流れて来るという。ボタンは文献によってその花の色は異なり、また』、七年或いは一〇年或いは六十年毎に『咲くともいう。この牡丹については悲恋の伝説が残っている。昔、村に迷いこんだ若者と、村の娘が恋に落ちた。が、村には里人以外と婚姻してはならないという掟があり、悲嘆した二人は大きな牡丹に変じたのだという。また最後の住人であった藤原忠教は若い頃、この巨大牡丹を見たと証言しているが、現地住民の間では一種のシャクナゲ』(石楠花:双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron シャクナゲ亜属 Hymenanthes『を誤認したのであろうといわれている。住民は京都から世を避けて隠れ住んだ、藤原左衛門佐という者の子孫であるといい、全員が藤原姓であったが、これは山村の神人の家に例が多い。最後の住人であった藤原忠教が死去した後は、廃村となっている。京丸という地名は京人が住むからであるという。「掛川志」には、遠江奥山郷について「御料の地であつて、三年毎に上番をした、仕丁一人ありこれを京夫丸といふ」とあるので、一説に奥山郷に隣接する京丸は、京夫丸の転訛であるという。貴人が隠棲した地であり、それは平家の残党であるとか、後醍醐天皇、あるいは宗良親王であるとかいい、応永年間の「浪合記」その他の記述からは、遠江、三河などの山地に伝わる尹良親王と関係があるという。里おさの屋敷の結構、阿弥陀堂に伝わる親鸞上人筆と称される画像、葬式に僧侶がおらず阿弥陀の画像を導師とすること、などから仙境の地であるとされた。 葬式に阿弥陀の画像を導師とするのは、周智郡内の山村、三河、飛騨などでも行なわれた』。『柳里恭「雲萍雑志」には、浜松から「十五里ほど山に入れば、遠江と信濃の国のさかひなる川そひの地に、京丸と呼ぶところあり、その地は他より人の行きかふべきところにもあらず、国の境に、藤の蔓もて長さ五六十間もあらんとおもふほどの桟をかけたり、その地は家わづかに四五軒ありて、農の業はすれども、常の食は米は聊かも食はで、稗にあづきをまじえて粮とす」とある』。『西村白烏「煙霞綺談」には、ボタンについて「険阻なる山のはらに大木二本あり、遠く見渡すところ、一本は凡そ四囲、一本は二囲ほどにて、初夏に花を発く、其色白く径尺ばかりに見ゆる、外に類すべきものなく、牡丹なりしといへり、古しへ内裏の跡にて、其時の花壇なりと土俗いひ伝へり」とある』。『文献としては、「遠江風土記伝」、「秉穂録」、「煙霞奇談」、「遠山奇談」、「東海道名所図会」、「遠山著聞集」、曲亭馬琴の「山牡丹」など諸書に言及、記述があるが、そのほとんどは伝聞である』。

「秉穗錄」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で寛政一一(一七九九)年に成立。その記載は「第二編 卷之上」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

遠州秋葉山の東北四五里に、京丸といふ所あり。古は通路なかりしが、近頃は人の通ひあり。其岩石そびえたる斷崖に、大なる牡丹のやうなる花、年每に咲く。さしわたし二三尺もあるべしと、平野主膳といふ其國の人語れり。

   *

現在の秋葉山山頂から小俣京丸地区の中心までは東北に直線で十八キロメートル以上あるから、「四五里」十五・七から二十キロメートル弱というのはすこぶる正確な数値である。

「徑尺ばかり」以下の原文で判る通り、「わたりしやくばかり」と読む。直径で三十センチメートルほどの意。異様な大輪である。「煙霞綺談」のそれは、「卷之四」の「三 仙翁花(せんおうげ)牡丹 附 繪像奇異」の一節。全く関係のない記事(特に後半)が前後に挟まっているが、折角なので、総てを吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣の誤りがあるが、ママとした。

   *

○今草花に翦秋羅(まつもとせんをう)いふあり、此花洛西(らくさい)嵯峨仙翁寺(せおうじ)より出て、仙翁花といふなり。

伊勢の濱荻(はまをぎ)は、二見の浦三津村の南にあり、常の蘆と違ひて片葉なりといへり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

東武にも片葉の蘆あり、寶曆五年の秋、東武より如鷺亭冬濤(によろていとうとう)といへる俳士(はいし)來り、五七日近郷同遊(どうゆう)せしに、ある山蔭の細(ほそき)流れに生る蘆悉く片葉なり。其前後水田多(をゝく)、蘆生じて數多(あまた)あれども皆常の蘆なり。冬濤曰、東武片葉の蘆生ずる所、その土地た三方より風吹來る、此所も山のかゝり一方より風のあたる所片葉なり、外は皆常の蘆也。かくのごとく草の風にしたがふゆへに、古人の歌に風をよせて詠ぜられしも理(ことわ)りなりとて、其日の家づとに持(もた)せ侍りし。

秋葉(あきは)山の麓(ふもと)にいぬゐ川といふ雷、末は天竜川に落(をち)て船筏(ふねいかだ)の通路あり。此川上に京丸といふ小村の片邊り、峻岨(けんそ)なる山のはら大木二本あり。遠く見渡す所、一本は凡四圍(いだき)、一本は二圍ほどにて、初夏(しよなつ)に花を發く、其色白く徑(わたり)尺ばかり見ゆる。外に類すべき物なく、牡丹なりといへり。近き比、其村の者に出合、是を尋聞(たづねきく)に扮(まが)ひなき牡丹なりとぞ。古(いに)しへ内裏(だいり)の跡にて、其時の花壇なりと土俗云傳(つたへ)り。然れども浩(かゝ)る深山(しんざん)に内裏をうつさるべき謂(いはれ)なし、往古(むかし)より寺といふ物も宗旨といふ事もなく、死亡の者ある時は土人集(あつま)り、むかし親鸞聖人自畫(じぐは)の阿彌陀の像を披(ひら)き、念佛を唱(となへ)て葬(さう)す。今も猶替(かはる)事なし。其始いかなるゆへと云事しらず。

宅間證賀法印(たくましやうがほういん)栂(とが)の尾にゆきて、春日(かすが)すみよし二神の像を上人に請て拜し寫(うつ)さんといふ。明惠(めうゑ)上人の曰、此像を寫せばかならずたゝりありといふ、無用たるべしと止めたまへども強(しい)て模寫(もしや)す。歸洛に落馬して死(し)したり。鳴滝に宅間が塚とて今も有、斯(かゝ)る怪しき畫像もある事にや。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

自見翁曰、むかし良秀(りやうしう)という畫者(ぐわしや)、ある時己(おの)が居宅(ゐたく)火災に罹(あへ)り、しかれども是を少しも悲しまず、人にいふは、居宅(ゐたく)は時あつて造るべし。此火災に因て不動の火炎の妙を悟り得たりと悦びしと也。人の物數寄(ものずき)さまざまにて、禍(わざわひ)も却(かへつ)て名言妙句(めいごんめいく)の謀(はかりごと)ともなるか、しかれども惡人は其身其財を失ふ事間(まゝ)あり。

   *

「雲萍雜志」のそれは「卷之四」の以下。今回は吉川弘文館随筆大成版を加工元としつつ、「埼玉図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」版からダウン・ロードした(和綴じ、版元は江戸和泉屋金右衛門ら、出版年:は天保一四(一八四三)年)PDFと校合し、原典に最も近い形で電子化して示す。但し、カタカナと思しいもの(「ハ」「ミ」等)はひらがなで示した。

   *

○東海道濱松といふに宿りし時、家(いへ)のあるじの申は、このところより天龍川に添(そへ)て、十五里ほど山に入れば、遠江と信濃の國のさかいなる川そひの地に、京丸(きやうまる)と呼ぶところあり。その地は、他(た)より人の行かふべきところにもあらず。國の境に、藤の蔓(つる)もて長さ五六十間もあらんとおもふほどの棧(かけはし)をかけたり。所の者は京丸の棧(かけはし)といへり。巾(はゞ)せまくして、行くにさへ目(め)くらみ、魂(たましひ)きゆるばかりなれば、かの地へ行くものとてはいと稀なり。誰(た)が親の世には、京丸へ行たることのありなど、只(たゞ)噂にのみ、そのところのことかたりつぎて、見たる人もなきに、この宿の下男、好事(かうづ)のものにて、京丸見て來(きた)らんと、しばしの暇(いとま)を乞ひて、かしこに行たりけり。その地(ところ)は家(いへ)わづかに四五軒ありて、農(のう)の業(わざ)はすれども、常の食(しよく)に米は聊(いさゝか)も食はで、稗(ひえ)にあづきをまじへて粮(らう)とす。この男(をとこ)が行(ゆき)たる家は、その中(うち)にも長(をさ)と思はるゝ者にて、麻(あさ)の織(おり)たるに尾花(をばな)を入れたる、新しき夜(よる)の物(もの)を出(いだ)して、着せたるのみにて、敷(し)けるものは家のあるじもなし。枕は木(き)の角(かく)なるをもて臥(ふさ)しめたり。所の人のかたりけるは、この山を登りて、凹(くぼ)かなるところより見れば、珍らしき花(はな)ありとて、案内(あない)しければ、男、行て見るに、はるかなる岨(そば)のもとながれあり、水勢(すゐせい)の屈曲して激する聲(こゑ)のいさぎよきけはひ、いふべくもあらず、溪間(たにま)を遠くへだてゝ、その大(おほき)さ、ふたかゝへもあらんとおもふばかりの樹に、色、紅(くれなゐ)にして、黃(き)をおびたる花、今をさかりと咲(さき)たり。夏の事なれば、あまりの暑さに、案内(あない)の人は木の葉をいたゞきたり。さていふやう、此花の大(おほき)さ、こゝより見ればさほどにもあらず。この川の末尻(すゑじり)といふところに、この花の散りて流れ行(ゆ)けるを拾ひしものあり。花びらのわたり、一尺余(よ)もあるべしと語れり。いかなる木の花にか。たえて知る人なし。遠江の國人(くにびと)は、これを京丸(きやうまる)の牡丹(ぼたん)とて、今猶ありといふ。この頃は人もゆきかふことありて、この地へもいたれど、この花のある溪(たに)へ、尋ねゆきて見たる人、なし、とぞ。舟筏(ふねいかだ)も通(かよ)はざる地にして、人の用なきところなり、といへり。四五軒の家ある中(なか)に、長(をさ)とも見ゆるものゝ家は、寺院(てら)めきて佛畫(ふつぐわ)を懸(かけ)たり。その畫幅(ぐわふく)は、一向宗の眞向光明(まむきくわうみやう)の彌陀にひとしき、大(おほ)いなるものなり。食物(しよくもつ)のみを供へ、松をともして燈明(とうみやう)とす。花を手向(たむく)る事なし。夜は燈火(とうくわ)なく、炬(たきび)をもて業(けふ)となせり。土人はみな總髮(そうはつ)にして、男女(なんいよ)ともにおなじ。髭(ひげ)は鎌にてきるといへり。子供も皆總髮にて、衣類には麻のあらきを織(おり)て、尾花、蒲(がま)の穗など入りたるを着たり。夏も寒しといふ。かの男、濱松へかへるにのぞみて、泊りたる家(いへ)あるじに、錢(ぜに)もて謝しけれども、他國は、かゝるものにて用を足(たせ)ども、この地に用なきものとて取らず。家にかへり給ひて後(のち)、便(たよ)りあらば米を少しにても贈り給はるべしいひて、念頃(ねんごろ)に藤の棧(かけはし)まで、人に送らせて、さすりて行(ゆけ)かしと、度々(たびたび)いへるよし、大事に行くべしといふ意(こゝろばへ)にやと、宿(やど)のあるじ、ものがたりき。おもふに深山幽谷にわたりては、かゝる地もあるにやとおもへば、行(ゆき)ても見たきこゝちなんせらるゝ。

   *

「區々」「まちまち」と訓じておく。

「泛ぶ」「うかぶ」。]

 京丸牡丹が果して牡丹であるかどうかに就いては、古人にも異説がある。「甲子夜話」は「煙霞綺談」を引いた後に、近頃聞くところによると、秋葉山より三州へ越える山中には、人跡の絶えたところがあり、その岨路の遙か向うに、大木の白牡丹が二三本あつて、花時には諸木を抽んでて見えるが、何であるか知つた者がない。嘗て里人がその花を尋ねて行つて見たら、辛夷(こぶし)の大きなので、それが白牡丹のやうに見えたのであつた。倂し世の辛夷よりは花も殊に大きく、香も非常に高かつたさうだ、と書いてゐる。遠州屋牧右衞門といふ者の話を傳聞したといふのであるが、遠州屋も多分自分で見極めたのでなしに、里人から聞いたものであらう。諸木を抽んでるやうな牡丹は、ちよつと考へにくい。辛夷にしてもそんな大きな花があるかどうか疑はしいけれど、京丸牡丹の妖氣はこの邊から發散するやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」全巻所持するが、探すのが一苦労なので、発見し次第、追記することとする。悪しからず。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之二十九」に「遠、參の深山、牡丹に似たる大木ある事」であることが判明した。

「三州」三河国。秋葉山と京丸の位置関係からはやや不審であるが、山伝いの場合は遠江か三河に出るには嶺を伝って遠回りをしたということか。

「岨路」「そばみち」或いは「そばじ」であるが、近世以前は「そわみち」と表記・発音した。嶮(けわ)しい山道のこと。

「抽んでて」「ぬきんでて」。

「辛夷(こぶし)」双子葉植物綱モクレン目モクレン科モクレン属コブシ Magnolia kobus

 元文六年の話といふことである。能登の向瀨村にある妙覺寺の老僧が、用事あつて子浦(しほ)村まで行つた時、とある石に腰掛けて休んでゐると、道端を落ち下る流れに、牡丹と思はれる鮮かな花が、忽然と流れて來て、水の淀みに据る。續いてまた數輪の牡丹が流れ出し、水面に竝んだので、不思議な事もあるものだと思ふ間もなく、暫くして水を遡り、二つ竝ぶ大石の中に見えなくなつた。花は仰向けに据つて押竝び、妖色きらきらと油ぎつて光り渡るやうに見えた。子浦村に著いてこの話をしたところ、たまたま來合せた男が大いに不審し、實は私も今日東谷の道を歩いて居りまして、二丈ばかり下の川の中にさういふ花らしいものを見ました、遙かに岸の上から見たのですから、牡丹か百合が流れて來るのだと思つただけですが、今のお話を思ひ合すと、同じものかも知れません、毒蛇妖花をなすと老人に聞いたこともあります、今日はもう暮れましたから、明日吟味して見ませう、その花を御覽になつた場所をお教へ下さい、と云ひ出した。翌日老僧は向瀨村への歸り道、その男を伴ひ、昨日の石に休息し、一時ばかり待つてゐたが、更に牡丹の流れる樣子もない。東谷の方も同じ事であつた。

 毒蛇妖花をなすなどといふ話は、他ではあまり聞かぬやうだが、「三州奇談」はこの牡丹の外に、もう一つこんな話を傳へてゐる。木滑といふところの社地に、或年ふと大きな蔓を生じ花が吹いた。先づ凌霄(のうぜん)といつた工合であるが、紫色なところが多く、花の色が油ぎつて、日に向いて光る。皆不思議がる中に、古老の山人が來合せて、これにさはつてはならぬ、蟒の化したものだと云つた。その後風雨が一兩日續き、この草は枯れて根もなくなつた。油ぎつて日に光るといふのが妖花の特色らしい。

[やぶちゃん注:「三州奇談」この前段の話は私の所持しない「三州奇談後編」の方の「卷五」の冒頭「向瀨の妖華」に出るものであるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。それを読むと、柴田は終わりの部分の、後の段の話柄と同じような「蟒」蛇(うわばみ)変化(へんげ)の可能性を匂わせる痕跡を発見したとするパートを何故かカットしてしまっていることが判る。後の話柄とのジョイントもいいはずななのに、甚だ不可解である。なお、後段の異花の話は何度か縦覧したが、正編・続編ともに見出せないでいる。発見次第、追記する。

「木滑」現在の新潟県新潟市南区木滑(きなめり)か。(グーグル・マップ・データ)。

「凌霄(のうぜん)」双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora夏から秋にかけて、橙色或いは赤色の大きな美しい花をつける。紫色というのは私は見たことがない。]

 牡丹の花は艷麗ではあつても、妖味はあまり感ぜられぬ。もしどこかに妖氣が含まれるとすれば、花のゆたかに大きな爲であらう。木蓮、百合などにも若干共通するものがある。「四不語錄」にあるのも同じ能登の話で、農家の手代が深見山の上で思ひがけず牡丹畠に逢著する。そんな畠などのないところで、季節も少しおくれてゐるから、怪しいとは思つたが、根が草花好きの男なので、暫く立ち止つて眺めてゐると、向うの山際から一人の女が現れた。容顏も衣裳も共に美しく、地上を步まず、宙を踏んで來るやうなので、狐狸のたぶらかすものと疑ひ、用心してゐるところへ、女は言葉をかけて、その花を一枝折つて下さい、といふ。はじめは答へずにゐたけれども、三度まで同じ事を云はれたので、これは私の花ではございませんから、折ることは致しかねます、持主からお貰ひ下さい、と云つて通り過ぎようとした。その時女近寄り來り、是非に一枝所望ぢやと云つた顏は、もう前のやうに美しい事はなく、たゞ凄まじく感ぜられる。手代は氣を失ひ、前後を辨へなくなつたが、その身體は七八町も隔たつた谷間に橫たはつてゐた。薪を採りに行つた近郷の者がそれを發見し、かねて見知つてゐるので、その宅まで屆け、醫療を加へた結果、漸く正氣に戻つた。彼の話した委細は右の如くであつたが、果して狐狸の仕業か、天狗に投げられたのか、その邊は不明であつた。寛永六年の事ださうである。

 この話には限らぬが、山中の牡丹といふのが已に異常である。京丸牡丹にしても、花は遙かな絶壁に咲き、僅かに花びらの下流に泛ぶのを拾ふといふ點に、神祕的な色彩を漂はせるものがある。

[やぶちゃん注:「寛永六年」一六二九年。

 既に注した通り、「四不語錄」を私は所持しないので原典を示せない。なお、私はこれらの山中奇花の根源の一つは、記紀に出現する常世国(とこよのくに)にあるとされる不老不死の架空の樹「非時(ときじく)」の花に、中国の桃花源伝説等が絡み合って、それが事実譚らしく加工変形された話群にあるのではないかと秘かに踏んでいる。]

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