柴田宵曲 妖異博物館 「道連れ」
道連れ
「旅は道連れ世は情け」といふ諺を見ると、旅をする者に取つて、道連れほど賴もしいものはなささうだが、現世の事實は決してさうではない。時に道連れのために生ずる不安がある。護摩の灰などといふ連中は、道連れ業者とでも稱すべきもので、彼等に惱まされた旅人は算へきれぬほどであつた。
[やぶちゃん注:「護摩の灰」「ごまのはひ(はい)」。旅人を脅したり騙したりして金品を捲き上げる者。一説によれば高野聖のいで立ちで有り難い護摩壇で修法(ずほう)した其の霊験あらたかな灰と称して押し売りをした者のあったことからとも、別に「胡麻の蠅」と書いて「ごまのはへ(はい)」とも読むことからは、胡麻粒では蠅が留まって一寸判らぬことから昔、道中の旅人にくっついた詐欺師・人を騙る詐欺漢の謂いとなったとも言う。]
桶南谿が備後國を旅行してゐた時、百姓らしい二人の老人と道連れになつた。南溪の樣子を見て、如何なる人で何處から何處へ行くかと問ひ、京都の醫者だとわかると、かういふことを云ひ出した。實は親しい家の女房で、難病に罹つてゐる者があるが、山里の事で診察を乞ふ醫者もない、せめて脈だけでもお取り下すつて、彼等の心を慰めていたゞくわけには參りますまいか、といふのである。何も修行であるから、承知して一緖に步み、日も傾く頃に本鄕といふ寂しい里に著いた。病人は五十餘りの女で、永らくの病苦に生きた色もなかつたが、脈にはまだ慥かなところがあるので、療治を加へ、藥を與へ、今後の手當なども委しく說明して、三原の城下へ出て來た。こゝでその話をすると、それは危いことでございました、全く先生の誠意を佛神がお護り下されたものでございませう、さういふことは大方盜賊の僞りで、深山まで連れて行つて、金銀衣類を奪ふことが珍しくありません、今後は御用心なされぬと危うございます、と注意された。南谿もはじめて心付いて、自分の無事をよろこんだが、二年ばかり諸國をめぐり、京都へ歸つた後、備後國から六兵衞といふ百姓が尋ねて來た。女房の難病は全く平癒したので、先生のことは弘法大師の再來の如く尊んでゐるといふ。南谿には愉快な話であつたが、もし三原の人の云ふところが事實とすれば、世の中には危險千寓な道連れが存在するらしい。
[やぶちゃん注:以上は、「西遊記」の「卷之四」の巻頭「篤實(とくじつ)」である。例によって気持ちの悪い東洋文庫版で示す。思ったより原話は長い。読みは最小限に留めた。一部、こんな変なことをしているのに、原典の誤りのママに活字化している箇所は、勝手に訂した。
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備後国を通りし時、百姓とみえし年老いし男二人、ふと道連れに成り、山の名、里の風俗など尋問いて行きたりしに、我野服(やふく)を着し、方頂巾(ほうちょうずきん)を戴だきしをあやしみて、「いかなる人にて、いずくよりいずくへ行き給うにや」と問うに、「都方(みやこがた)の医者なるが、医術修行の為に諸国に遊歴するなり」と答えしかば、「扨も頼もしき御人や。我等が住む里は向こうの山の奥なるが、親しき家の女房に奇妙の難病ありて早や二年(ふたとし)に成り、近きあたりに住み候えば聞くもいぶせく、其家にもいろいろと医療尽さざることもなけれど、露(つゆ)ばかりのしるしもなく、今は早(はや)、命だにあやうく見え候いぬ。かく山深き片田舎にて名高き医師も候わず。あわれ都近くも有るならばなど、親類の者は歎き居(い)候いぬ。きょうははからずも京都の御医と承り候えば、親類共が常々の詞(ことば)も思い出だし候いて、あわれにも候えば、何とぞ脈(みゃく)ばかりにても取らせ給いて、彼等が心をもなぐさめたまわらばや」と、誠の心言葉に出でて、又余義(よぎ)もなく見えたりしかば、「余も此道修行の事なれば、いとやすき事なり」とうけがいて、彼(かの)者共のしりえに従いて、尾の道の二三里斗(ばか)りこなたより右の方に分(わけ)入る。鹿(しか)狼(おおかみ)の通うごとき細道を、谷に下だり峯にのぼりて、ゆけどもゆけども程遠きに、日影もやや傾(かたぶ)き、腹(はら)餓え、足つかるれば、僕(ぼく)腹立てて、「程もしれぬいたずら事」とつぶやく。とこうなだめて行くほどに、ようように至り着きぬ。とある山あいのいと淋しき人里なり。本郷という所なりと。其家に入れば、病者は五十斗りなる女にて、其夫を六兵衛と云う。ものしかじかの由をいえば、家内皆驚き悦び、「去年(こぞ)の冬より淋病(りんびょう)の心地なりしが、次第に強く、露(つゆ)ばかり落つる便事(べんじ)に、其痛(いたみ)忍びがたく、内よりは頻りに通じの心きざして腹(はら)裂くる心地して、其くるしみたとえんかた無し。日々月々に病いつのり、春の頃よりは一しおにて、横に臥(ふ)せば下ばらひとしおさくるがごとく、立てばくるしく、座すれば堪(たえ)がたし。それゆえ昼夜(ちゅうや)只(ただ)火燵(こたつ)のやぐらに両手をつかえ、立ちながらうつむきて居る事のみ少し心やすらかなるようなれば、春以来は片時も座せず臥さず、只昼夜食事にも眠るにも、此通(とおり)なり。其くるしみ中々いうもおろかなり。近き頃は殊にあしければ、命の限りも遠からじと、一日も早く臨終をのみ待ち侍る也。命の事はたすかるべくも思い侍らねど、都の人と承ればゆかしくこそ候え。何とぞ一日なりとも此くるしみをたすけ給わりて、横にふしてやすらかに臨終を得さしめ給わば、上(うえ)も無き御恵(めぐみ)」と、涙を流せるさま、げに見るさえあわれなり。昼夜立ちてうつぶし居れば、足は柱(はしら)のごとく腫気(しゅき)ありて、顔も亦眼(ま)ぶちはれ、額(ひたい)も浮(う)きて、活(い)きたる人のごとくにもあらず。肛門は牡丹花(ぼたんか)のごとく、長さ五六寸もぬけたり。一しきり一しきり腹はり来たる時のくるしみの声隣(となり)を動かし、聞く者すら堪えかねたり。病体(びょうてい)は誠(まこと)にかくのごとく危く甚だしけれど、其(その)脈に見所(みどころ)有りければ、いそぎ薬を与え、猶且(なおかつ)薬湯を以て腰より漬(ひた)し、種々の療術(りょうじゅつ)を用いしかば、大小用の通利(つうり)出で来て、初めて横さまに臥(ふ)すことを得たり。猶品々(しなじな)の療治をくわえ、此以後に用いる薬方を委敷(くわしく)書しるして、猶用いかた抔(など)迄もくわしく伝え置きて、其家を辞して、数里の深山をわけ出でて三原の城下へ着きぬ。三原にて此物語をせしに、「扨(さて)もあやうき事なり。御心に誠(まこと)有りぬればこそ仏神の助(たすけ)も有りて、まことの事に逢い給うならめ。多くは、かくのごとき事は盗賊のいつわる事にて、旅する人を人なき深山に連(つれ)行き、さし殺して金銀衣類を奪う事珍らしからず。此後(のち)はかならず楚忽(そこつ)のふるまいし給うべからず」といいけるにぞ、初て心付きて恙なかりし事の嬉しかりき。
それより諸国をめぐり、二とせをへて京へ帰り居たりしに、或日六条の旅宿のあるじたずね来たり、「一両年以前九州へおもむき給いし御医者はこなたなりや」と問う。「いかなる用ぞ」と聞けば、「備後国より六兵衛という百姓一人のぼり来たり、『下に市の字(じ)の付きたる御医師を聞及(ききおよ)ばずや。何とぞ尋ねくれよ。去々年しかじかの事にて高恩にあいぬれば、御礼(おんれい)のために来たりたり。其御名は聞かざりしかども、荷物の下(さ)げ札(ふだ)に市(いち)の字(じ)を見及びたり』という。手がかりも無き尋ねようかなと存じ候えども、其志(こころざし)の殊勝にも候えば、先(まず)試みに標札をみめぐりて、市の字を見当り候えば御尋ね申すなり」というにぞ。「其事有り」といえば、則ち帰りて、其次の日彼(かの)六兵衛同道して来たりつつ、備後畳(だたみ)をみずから持ちて礼物(れいもつ)とし、「扨も過ぎし年は不思議の御縁(ごえん)にて、妻なる者御療治に逢い、命は無きものと覚悟致し居り候いしを、其日よりしるしを得、仰置(おおせお)かれし日限(にちげん)のごとくに、かかる難病平愈して、再び常体(つねてい)の人となれる事、殊に近所の者の行逢(ゆきあ)いより始まりて御名(おんな)さえ承らず候えは、弘法大師(こうぼうだいし)の来たらせ給うなりとのみ、一村(ひとむら)の評判にこそ致し候え。京(きょう)を尋ねたりとて逢い奉るべしとははからず候えども、命たすかりし御高恩(ごこうおん)、一言(いちごん)の御礼も申さざる心の中も安からず。もし逢い奉る事なくば、東寺にても参り候て弘法大師様へ御礼申しかえるべしと存じ極めて参り侯いし也。先ずは尋当(たずねあた)りて日頃(ひごろ)の本望(ほんもう)に叶い候なり」とて、真実(しんじつ)顔色(がんしょく)にあらわれたり。余も嬉しくて、しばしもてなぐさめて帰しやりぬ。都近くの者ならましかば、百里に余れる海山を、いかではるばる尋来たるべき。辺土(へんど)の民の篤実なる事、感ずるにも猶あまりあり。
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文中の「野服」は『粗末な服』、「方頂巾」は『後方に垂れのある頭巾。すみずきんとも』、 「備後畳」は『備後産の畳表』、という注が、底本の校注者宗政五十緒氏によって附されてある。
個人的にはこの話柄、非常に好きである。]
この話は南谿の「西遊記」の中の出來事であるが、その南谿が「北窓瑣談」の中に、全く違つた場合の妙な道連れの事を書いてゐる。安永三年十月晦日、山寺何某といふ大坂の士が眞田山の邊を通りかゝると、耳許に何か頻りに人の話し聲が聞える。振返つて見ても誰も居らず、步き出せばまた聲がする。幾度となく振返りながら行くうちに、半町ばかりもうしろの方に、羽織を著た町人と、虛無僧との話して來る姿が見えた。天蓋を上に脫ぎかけた虛無僧の顏は、まるで塵紙で作つたやうで、然も例の話し聲は依然として聞える。これはこの虛無僧が妖怪であるに相違ない、一太刀に斬らうと思ひ、愈々うしろ近くに來た時、きつと振返る途端に、わつと叫んで抱き付いたのは町人であつた。如何致したかと問へば、さてさて恐ろしい事でございます、只今まで同道して參りました虛無僧が、あなた樣のうしろを御覽なされる拍子に消えてなくなりました、といふ。こゝまで何を話しながら來たかと尋ねたら、自分は遠國の者で當地の案内を知らぬ、どこへ宿を取つたらよからうかと申しますので、幸ひ自分が宿屋をして居るから、今夜はお泊め申しませう、と云つたところです、と答へた。「山寺氏の氣、妖怪に徹して逃去りしなるべし」といふのであるが、もしこの人が行き合せなかつたならば、妖怪と同道した上に、宿まで提供するところであつたらう。
[やぶちゃん注:「安永三年十月晦日」同月は小の月であるから二十九日で、これはグレゴリオ暦一七七四年十二月二日に当たる。
「眞田山」現在の大阪府大阪市天王寺区真田山町(さなだやまちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの真田丸跡付近である。
「半町」約五十四メートル半。
「長町」「ながまち」で現在の大阪府大阪市中央区及び浪速区の日本橋(にっぽんばし)に相当する位置にあった、一大宿場町。この附近(グーグル・マップ・データ。示したのは浪速区の日本橋。この北に中央区部分の日本橋が続く)。
以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「一」は除去した。妖しさ満杯の見開きの挿絵(一柳嘉言画)も添えた。
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大坂の士山寺(やまでら)何某といふ人有しが、安永甲午の年十月晦日、眞田山の邊を過(よぎり)しに、耳もとにて何か喧(かまびす)しく人の噺し聲聞ゆる故、ふりかへり見れども、うしろに人無し。其まゝ行に又人聲聞ゆ。又ふりかへり見れども人なし。如ㇾ此(かくのごとく)すること數度(あまたゝび)に及び、あまりに不思議にてうしろを遙に見るに、半丁許も隔たりて、羽織着たる町人と、天蓋(てんがい)を上にぬぎかけたる虛無僧(こむそう)と同道して物語し來るあり。此虛無僧の顏を見るに、塵(ちり)がみにて作りたる顏のごとし。不思議に思ひながら行に、耳もとの噺聲頻なり。山寺氏思ふに、此虛無僧、定て妖怪(ゑうくわい)なるべし。一太刀に切んものをと心に思ひ、しづかに 步み行(ゆき)、うしろ間近(まぢか)く來るとおもふ時、きつとふりかへり見るに、わつとさけびて抱きつゝ、急に押へて見れば、彼町人なり。何者ぞと問(とふ)に、扨て恐(おそ)ろしき事なり。只今まで同道いたし來りし虛無僧、そなた樣のうしろを御覽なさるゝと、其まゝ消失候ひぬ。あまりの恐ろしさに取付(とりつき)まゐらせしなりといふ。何事を語(かた)り合(あひ)來りしといふに、我は遠國の者なり。當地の案内をしらず、旅宿(りよしゆく)すべき町は何所(いづく)ぞと申候ひし故、某答へて、幸(さいは)ひ長町に住候ひて其業(わざ)仕り候へば、今宵は御宿進らせ申べしと、語り合(あひ)て來りし折節なりといふ。山寺氏の氣、妖怪に徹して迯去りしなるべし。
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小石川の茗荷谷に三四百坪ばかりの明屋敷があつた。主人は稻富氏といふことであつたが、入口の脇に道心者らしい男が小屋掛けのやうにして一人居る外、つひぞ出入りの人を見たことがない。いつ頃からあるのか、屋敷内に大きな石塔が三つ四つあつて、垣根より高く見えてゐる。晝でもあまり人通りのないところだから、夜に入つては猶更で、この屋敷には久しく化物が住むといふ評判であつた。或時大野三太夫といふ人が、小日向の方から大塚の組屋敷へ歸らうとして、日暮れ過にこゝを通ると、先に立つて行く出家がある。これはいゝ道連れであると足早に追ひ付き、二十間ぐらゐの距離になつたと思ふ時、その出家の丈が急に高くなつた。見る見る屋敷の垣根を越し、大石塔の五輪の上より遙かに見上げるほどになり、その門口まで行くかと見えたが、忽ち姿が見えなくなつた。この話などはまだ道連れになるところまで往かぬけれど、この人通りのない道で、道連れになつたとすれば、その先は想ひやられる。「惣じて此邊怪しきことゞも時々あり」と「望海每談」に記されてゐる。
[やぶちゃん注:「二十間」三十六メートル強。
「望海每談」筆者不詳の随筆。江戸府中の旧事及び江戸の古跡などを記す。成立は元文(一七三六年~一七四一年)から明和(一七六四~一七七二年)の間とされる。以上は同書の「大塚村怪異」の中に記されてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]
「宮川舍漫筆」には疫神と道連れになる話が二つある。一方は物貰ひ體の女、一方は一人の男といふだけで樣子はわからぬ。女の方は空腹だといふので蕎麥を食べさせ、男の方は犬を恐れるので一緖に行つて貰ひたいといふ。別れに臨み、いづれも自ら疫神であると名乘り、疫病を免れる法を告げて去るのである。その法が一方は泥鰌、一方は小豆粥といふことで、さつぱり合致せぬのが面白い。
[やぶちゃん注:「宮川舍漫筆」は宮川政運著で安政五(一八五八)年序。筆者はの幕吏で儒者の志賀理斎の次男。以上は、同書の「卷之三」の「疫神(やくじん)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した(一部は推定)。【 】は原典割注。本文の歴史的仮名遣の誤りはママ。
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○疫神
嘉永元申年の夏より秋に至り、疫病大に流行なりし處、宴覽思議の一話あり。淺草邊の老女、【名を失念。】或時物貰體(ものもらひてい)の女と道連(みちづれ)になりし處、彼女いふ、私事(わたくしこと)三四日何も給(たべ)申さず、甚だ飢(うゑ)におよび申候。何とも願ひ兼(かね)候得ども、一飯御振舞の程願(ねがふ)といふ。老女答(こたへて)、夫(それ)は氣の毒なれども、折惡敷(あしく)持合せ無之(これなし)。しかし蕎麥位(ぐらひ)の貯(たくはへ)はあるべし。そばをふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける。彼女、大きに歡び禮を述(のべ)別れしが、亦々呼(よび)かけ、扨何がな御禮致(いたす)べしとぞんじ候得共、差當(さしあた)り何も無之(これなく)、右御禮には我等(われら)身分御噺(はなし)申(まうす)べし。我等儀者(は)疫神に候。若(もし)疫病(やくびやう)煩(わづらひ)候はゞ、早速鯲(どぜう)を食し給へ。速(すみやか)に本復(ほんぶく)いたすべしと教へ別れけるよし。右は予友松井子の噺なり。この趣(おもむき)と同譚(どうだん)の事あり。予實父若かりし時、石原町に播磨屋惣七とて、津輕侯の人足の口入(くちいれ)なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男來り聲をかけ、いづれの方え參られ候哉(や)と問(とふ)、惣七答(こたへ)て、我等は石原の方え歸るものなりといえば、左(さ)候はゞ何卒私儀(わたくしぎ)同道下されかし。私義(わたくしぎ)は犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ。それなれば我と一所に來(きた)れよと同道いたし、石原町入川(いりかは)の處にて、右の男、扨々ありがたくぞんじ候。私義は此御屋敷え參り候。【向坂(さきさか)といへる御旗本にて千二百石、今は屋敷替ニ相成(あひなる)。】扨申上候。私義は疫神に候。御禮には疫病神(やくびやうがみ)入申(いりまう)さゞる致方(いたしかた)申上候。月々三日に小豆(あづき)の粥(かゆ)を焚(たき)候宅(たく)えは、私(わたくし)仲間一統(いつとう)這入(はいり)申さず候間(あひだ)、是を御禮に申上候といひて、形ちは消失(きへうせ)けるぞふしぎなれ。其日より向坂屋敷中(ちう)疫病と相成候よし。予が實父え播磨屋の直(すぐ)ばなしなり。右故(ゆゑ)、予が方にても、今に三日には小豆粥致し候。此儀に付ては我等方にても疫病神をのがれし奇談あり。二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す。
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末尾に「二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す」とあるが、同書の「卷之二」にはそのような記載は管見する限り、ない。或は「宮川舎漫筆」の続篇を記すつもりがあったものか。]
「搜神記」の糜竺は都から歸る途中、一人の女から車に載せてくれと賴まれた。承知して何里か來たところで、女が別れ去るに當り、自分は天使である、これから東海の糜竺の家を燒きに行くところだ、今あなたに車に載せて貰つたから、これだけ告げる、と云つた。竺は驚いて何とか 免れる方法はあるまいかと賴んだけれど、一たび命ぜられた以上、燒かぬわけには往かぬ、あなたは急いでお歸りなさい、私はこれからゆつくり步くことにする、といふことであつた。竺は大急ぎで家に歸り、家財を運び出したが、果して日中に火が起り、家は全燒になつた。女は緩步によつて竺の災難を少くしたのである。かういふ連中は存外恩を忘れぬ、義理堅いところがあると見える。
[やぶちゃん注:「糜竺」(びじく ?~二二一年)は後漢末から三国時代の政治家。ウィキの「糜竺」より引く。『徐州東海郡朐県(江蘇省連雲港市)の人。妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。本来は縻(または靡とも)と読まれるという』。『先祖代々裕福な家であり、蓄財を重ねた結果』、小作一万人を『抱え、莫大な資産を有していたという』。『陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった』。一九四年、『陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた』。一九六年、『劉備が袁術と抗争し』、『出陣している時、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。劉備が広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕』二千人と『金銀貨幣を割いて劉備に与えた。劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返す事ができた』。『劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた。また、弟にも彭城の相の地位が授けられた。しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した』。『劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。糜竺は左将軍従事中郎に任命された』。『劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位だった。劉備に古くから付き従った家臣である孫乾や簡雍よりも上位であったという(「孫乾伝」・「簡雍伝」)』。『糜竺は穏健誠実な人柄で、人を統率するのが苦手だったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いる事はなかった。一方で弓馬に長け、弓は左右どちら側からでも騎射を行なうことができた。子や孫まで皆がその道の達人だったという』。『弟は関羽とともに荊州を任されていたが』、二一九年、『個人的感情から仲違いをし、呂蒙にほとんど抵抗する事無く降伏した(「呂蒙伝」)。このため荊州に孫権軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。糜竺は自ら処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。兄弟の罪に連座する事は無いと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まる事がなく、そのまま発病して』一『年程で亡くなったという』とある。
以上は「搜神記」の「卷四」に載る以下。中文サイトのそれを加工して示す。
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麋竺、字子仲、東海朐人也。祖世貨殖、家貲巨萬。常從洛歸、未至家數十里、見路次有一好新婦、從竺求寄載。行可二十餘里、新婦謝去、謂竺曰、我天使也。當往燒東海麋竺家、感君見載、故以相語。竺因私請之。婦曰、不可得不燒。如此、君可快去。我當緩行、日中、必火發。竺乃急行歸、達家、便移出財物。日中、而火大發。
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