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2017/02/01

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の執念」

 

 河童の執念

 

「三養雜記」に河童は殊更執念の深いもので、九州で受けた恨みを、その人が江戶へ來てから返すなどと書いてある。豐前國中津の醫師の次男が、川岸を通りかゝつて、河童の水上に遊ぶのを見、彼の浮き出るところを覘つて手頃の石を投げ付けた。キヤツと叫んで沈んだが、同時に水が逆卷いて恐ろしくなつたので、あわてて逃げ歸つた。それから次男の樣子が變になり、屋根を走り木に登り、狂ひ𢌞つて手に合はぬ。細引で括つて置いても、直ぐ切つてしまふので、鐡の輪を首に嵌め、鐡鎖で牛部屋の柱に縛り付けた。已に一箇月餘に及び、鐡輪のため首筋が痛んで來たが、更に退く氣色もない。かれこれ五十日もたつた後、近所の寺に大般若があつて、その札を家每に受ける。この家でも受けて來て、かの者に戴かせたら、身ぶるひして卽時に退いたと「笈埃隨筆」にある。

[やぶちゃん注:「三養雜記」のそれは、前の「河童の藥」で引いた中の、『仇をなすこと執念ことさらにふかくして、筑紫がたにての仇を、その人、江戸にきたりても、猶怪のありしことなどもきけり』に基づくもの。

 以上の「笈埃隨筆」のそれは「卷之一」の「水虎」の最初の事例。かなり長いが、次段もこの後半部を引いたものであるから、丸ごと吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示す。以下の文中に出る「獺肝」は「たつかん(たっかん)」で、漢方生薬としての獺の肝臓を指す。止咳・止血効果があり、発熱発汗・喘息・下血などに用い、肺結核の効があるとする。だから「城醫の家」の「書生」が生きるのである。

   *

 ○水虎

右の佐伯の曰、田舍人は心猛く加樣の事をもものともせず、豐前の國中津の府と云ふ城醫の家に、書生たりし時、其家の次男或時川岸を通りけるに、水虎の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝などの及べきかはとて、頓て手ごろなる石をひとつ提げ、何氣なく後の出る所をばねらひ濟して打落しけるに、何かはもつてたまるべき。キヤツトと叫び沈みけり。扨は中りぬる事と見𢌞すに、水中動搖して水逆卷怖しかりしかば逃て歸りぬ。夫より彼のものに取付て物狂はしくなり、家根にかけり木にのぼりて、種々と狂ひて手に合ず、細引もて括り置けれども、すぐに切てければ、鐵の輪を首に入れて、鐵鎖をもて牛部屋の柱にしばり付たり。既に一月餘に成しかば、鐵輪にて首筋も裂破たりしが、さらに退べき氣色なし。彼是五十日計なり。或時近き寺に大般若有て、其札を家每に受たり。此家にも受來たり、先彼ものに戴かせければ、身震ひして卽時に除たり。誠に不思議の奇特、導き事いふ計りなし。始て此經廣大の功德を目前に見たりしと語りける。予もまたまのあたり知たりしは、日向下北方村の常右衞門といふ人、十二三才の頃、川に遊びて河童に引込れしと、連の子供走り來て親に告たり。おりふし神武の官の社人何の河内と云人、共產に聞て、頓て其川に走り行、裸に成て脇差を口にくはへて、彼空洞に飛入り水底に暫く有て、其子を引出し來り、水を吐かせ藥を與へ、やうやうにして常に返り、今に存命也。然るに翌日其空洞の所忽ち淺瀨と成りにけり。所々の川には必ず空洞の所あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕事を恐る。また卒爾に石などを打込事を禁ずるなり。彼邊の川渡らんとするものは、河童の來りたる、往たるを能く知るなり。又日、此ものは誠に神變なるものなり。生たるに逢へば必病む。知らずといへども身の毛立なり。たとへ石鐵砲などに不意に打當る事有れど、其死骸を見たるものなし。常に其類を同して行來り、又は一所に住ものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つゐに人の手に渡らざると覺えたりと語る。かく恐ろしきものなれど、又それを壓(ヲス)ものあり。猿を見れば自ら動く事能はず。猿もまたそのものありと見れば必ず捕んとす。故に猿引川を渡るときは、是非に猿の顏を包といへり。日薩の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の突入たる時刈取るに、初に一かまばかり除置、是を水神に奉るといふ。彼邊は水へん計にあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云。是は菅神の御詠歌なるよし、此歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。

    兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら

肥前諫早兵揃村に鎭座ある天滿宮の社家に申傳へたり。扨此社を守る人に澁江久太夫といふ人あり。都て水の符を出す故に、もし川童の取付たるなれば、此人に賴みて退るなり。こゝに一奇事有。然れども我慥にその時其所にあらず。後年聞傳へたるなれば、聊か附會の疑心なきにもあらず。彼飛驒山の天狗桶の輪にはぢかれし類ひにも近ければ、云ずしてやまん事勝らんとおもへども、又よき理の一條あり。見ん人是を以て其餘の虛說とする事なかれ。只この一事氣機の發動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽すは、我も不ㇾ知の理をとりて、無念無想の當體を悟入すべし。同州宮崎花が島の人語りしは、先年佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獸を打步きて山野を家とせり。或日例の鳥銃を携て、水鳥を心がけ、山間の池に行。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。得たりと心によろこび、矢頃よき所に下居て、既にねらひをかけるに、かの水神水上に出て、餘念なく人ありとも知らず戲れ遊び居たり。扨は折あしき事哉と、にがにが敷おもひ、頓て鐵砲をもち待居たり。きせるをくはへながら、筒先を當て此矢先ならんには、たとひ惡鬼邪神、もしは龍虎の猛きとても、何かははづすべきと獨り念じて居たりしが、いやいやよしなき事也と取直すに、如何はしけん。計らずもふつと引がねに障るや否や、どうと響きてねらひはづれず。かのものゝ胴腹へ中りしと見えて、ほつと火煙立のぼる。こは叶はじと打捨て飛がごとくに立歸りけり。歸宅の後もさして異變も無りしかば、心に祕して人にも語らず。又彼地へも年を越しても行ざりけり。かくて何の障りもなく、或時友達打よりて酒吞み遊びて、たがひに何かの物語りに、此人思はず此事を語り出し、世にはおそろしき事も有ものかな。夫より二三年一向彼所へ至らず。さらに打べき心もなかりけるに、不運なる水神かな。自然と引がねにさはり、放れ出たるには我も驚きたりと語るや否、ウンとのつけに反返り、又起直りて云樣、扨々今日唯今はいかなるもの、所爲なる事を知らざりしに、此者の仕業と聞て、其仇を報ずるなりと罵りかゝり、終に病と成りて死したりと云。誠に此事は論ぜずして口外にせざれば人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問に、問ふ人其數を知れば、鬼も知り、無心に摑んで人其數を知らざれば、鬼もまた其數を知らずといふも、同日の談なり。

   *]

 

 佐土原の家中の何某、殺生を好んで常に山野を步いてゐたが、或日例の通り鐡砲を携へて山間の池に來る。水鳥の澤山浮んでゐるのを見て、一發放たうとした時、河童が水上に姿を現し、餘念なく戲れ遊んでゐる。こいつ邪魔になると思ひながら、鐡砲は持つたまゝで、この矢先なら如何なる惡鬼邪神、龍虎と雖も、擊ち外しつこはない、倂し河童などを擊つても仕方がない、と考へ直すうちに、どうしたはずみか、引きがねに手が觸れ、銃丸は河童の胴腹に中(あた)つたらしく、ぱつと火煙が立つたので、驚いて立ち歸つた。この事は誰にも云はず、その他にも行かずにゐたところ、或時友達と一緖に酒を飮んでゐる際に、ふとこの話をした。世にも恐ろしい事があるもので、それきり二三年も彼處へは行かぬ、自分は擊つ氣もなかつたのに、自然に引きがねにさはつて、銃丸が飛び出したには驚いた、と語るやウンと反り返つて氣を失つたが、やがて、さてさて唯今までは如何なる者の仕業とも知らなかつたが、こいつの仕業とわかつたら、仕返しをせずには置かぬ、と口走り、遂に病氣になつて死んだ。これも「笈埃隨筆」に出てゐる話で、半ば神經作用が手傳つてゐるにもせよ、河童の執念深い一證にはなるであらう。

 河童の報復譚の中で最も念入りだと思はれるのは、「半日閑話」に出てゐる寛永年間の話である。有馬直純の家來で何某八左衞門といふ人、有馬の蓮池のほとりで、前後も知らず晝寢してゐる河童を見付け、拔き打ちに斬つたところ、慥かに手ごたへがあつて、刀にも血が付いたやうであるのに、その姿はどこにも見えぬ。暫く搜しても死骸はなく、何者か池へ飛び込む音がした。そのうちに夕方になつたので、八左衞門も立ち歸り、主君翌日發足して歸城された。これは寬永十五年の二月であつたが、同十七年の九月十四日、かの河童が八左衞門の前に現れ、三年前に肥前の有馬で受けた疵が漸く平癒した、よつてその遺恨を遂げんため、遙々こゝまでやつて來た、外へ出て尋常に勝負せよ、と罵つた。八左衞門はにつこと笑ひ、遠波を凌ぎよく參つたと、刀を提げて庭に立ち、一人で斬合ひをする樣子は、疑ふ餞地もない亂心である。家族は心配して親類傍輩などを呼び寄せ、その體を見せたが、全く取り亂したやうでもない。河童は八左衞門の目に見えるだけで、他の人には一切わからぬのだから、むやみに助太刀をするわけにも往かぬ。そのうちに雙方とも疲れた樣子で、明日を期して河童は歸つて行つた。八左衞門も刀を納めて家に入り、有馬で河童に斬り付けた顚末を話す。先方の得物は何かといふ問ひに對しては、梅のすはいのやうな三尺ばかりのもので、それが人に當つた場合、如何なる痛みがあるかわからぬ、手先の利くことは言語に絕えたもの、と答へた。二日目は午後二時頃から六時頃まで戰つたが、依然互角の勝負であつた。この話が主君賴純の耳に入り、左樣の儀は前代未聞ぢや、八左衞門宅に參つて見物せう、と云ひ出された。三日目はその言葉通り、八左衞門の宅に於て、床几に腰掛けて見物される。召連れた家來達には、たとひ形は見えずとも、戰ふ樣子が見えたならば、取卷いて逃さぬやうにせよ、と命ぜられたが、その日はたうとう河童が來ず、賴純は不興氣に歸館された。その夜河童が八左衞門の枕上に立ち、年來の遺恨を是非晴らさうと思ひ、遙々こゝまで來たが、そなたの主君が勝負を御覽になるといふことであれば、最早わが存分は遂げがたい、明日は有馬へ歸る、この由を斷るため、唯今これまで來た、と告げた。人間でも卑怯な手合は寢首を搔くのに、河童は寢間まで忍び入りながら、三年以來の本望を遂げずに歸る、彼等には彼等だけの仁義があるものらしい、と書いてある。

 この話も今の人の目から見れば、發狂もしくは神經作用で解釋出來ぬこともない。肥前の敵を日向で討つ格で、疵の癒えるのを待ち、三年後に堂々と名乘りかけるのは、畜類にして人に恥ぢざるものであるが、「三養雜記」のいはゆる執念の深さを語るもののやうに思ふ。どこかで河童を見かけても、滅多に手を出さぬことである。

[やぶちゃん注:「寛永十五年」一六三八年。

「梅のすはい」梅の枝で出来た、「すわえ(楚・杪)」のことであろう(「ずわえ」「すばえ」とも言う。原文では以下の通り「ずあひ」とある)。原義は木の枝や幹から真っ直ぐに伸び出た若く細い小枝の謂いであるが、転じて刑罰に用いるしなりのある棒状の鞭(むち)や楚(しもと)を指す。

 以上は「半日閑話」の「卷六」にある「〇八左衞門河童と勝負を決したる事」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。

   *

九州にては餘國と違つて河童多し。是又人の妨をすといへり。其子細は賤しき漁夫などの妻と密通し、其外存外なるいやな事多しと云。先年寬永の頃、肥前天草、嶋原、有馬、此三ケ所の百姓一揆の時委く御退治、事終て有馬左衞門佐直純の歸陣の時、彼八左衞門【失念苗字。】と云者、名に聞へし有馬の蓮池を一見せしめて其邊を步行しければ、河童一疋前後も知らず晝寢して居ける處へ行かゝり、八左衞門立寄て拔打に致候得ば、手答して刀にものり付樣に候へ共、其形見へざりけり。暫く其邊を伺ひけれども彼が死骸なかりしかば、暫く有て何やらん地中に踊入音しけり。去れど猶も死骸見へざる程に斜日に及ければ、八左衞門は立歸り。又其翌日主人歸陣に付て供仕、同州縣の居城へ歸る。【有馬と縣との行程四十人里。】斯て寬永十五年の二月より、同十七年の秋九月十四日の未の下刻に、彼河童來りて八左衞門に向て申樣は、三年以前に肥前の有馬にての疵漸頃日平癒す。依て其遺恨をとげん爲はるばると參りけり。急ぎ外へ出給へ勝負を決せんと罵る。かゝりければ八左衞門莞爾と笑ひ、遠波を凌ぎ能こそ來りたりとて、刀を引提庭上に出立て、其身壱人にて切て懸り、請つ開つなどする樣子を見れば、疑ふ處もなき亂心なりと、母や女房心得て肝を冷し、八左衞門が裏合は百石小路と云て、小身の面々の屋敷共にて有ければ、人を遣し親類共並傍輩を呼寄て、彼爲體を見せければ、誠に狂人に似たれども、さして又しどけなき事もなかりけり。夫は彼河童が姿は八左衞門が目には見へけれども、餘人の目には懸らずゆへ右の仕合也。其故に助太刀と云事もなかりしとなり。相互に戰ひ疲れ、去らば今晩は相引にして、又明日の事とて河童は立歸りぬ。八左衞門も刀を納めて内へ入りぬ。其後人々打寄て唯今の子細を尋ければ、三年以前有馬にてケ樣ケ樣の事共有つる由を語りければ、何れも手を打て、扱も扨も其義を今迄忘れず、是非共報ひをせんと年月彼が思ひにせし細志こそやさしけれ。して又彼が持たる其道具はいかなる物ぞと尋ければ、彼ものは梅のずあひの樣成物の三尺計も有べきを持て戰ひけるが、其ずあひ人に當りいか樣成痛のあるやらんも更に計り難し。第一彼かゝるわざをつまのきいたる事、中々に言語に絕たると語りけり。扨右の河童八つ頃に來りて、酉の刻迄續て三時ばかりはげみ合しか共、雙方牛角[やぶちゃん注:ママ。]の手きゝにて勝負はなかりけり。其事を主人なりける有馬左衞門佐直純聞玉ひ、仰には左樣の義前代未聞なり。然らば八左衞門が所に行て始終樣子を見物せんと仰出され、則翌日彼が宅へ御來臨有て牀机に腰を掛られ、召連られたる諸士へ御申付には、其河童譬形は見へずとも、彼來て八左衞門と相戰ふと見へ候はゞ、其邊を幾重にも取卷て迯得ぬやうに仕べしと仰付られ侯へば、我も我もと心掛け、今か今かと待居けれども、かゝる待もふけをや憚りけん。其日は河童參らざりけり。依て直純も少々御不興顏にて御歸宅ありしとなり。斯有て其夜半計、かの河童、八左衞門が枕上に立て云樣は、年來の遺恨を是非晴さんと思ひ、遠く是迄參りつれ共、今晝程は其方主君此處へ入らせられ、雌雄を御一覽あるべしとの義なれば、最早我が存分は遂難し、其故に明日は有馬へ歸るなり。此由を斷らん爲、唯今是迄來りたりしと云捨て立去りぬ。其義も後に八左衞門が語りけるとなん。此物語は豐後國の永石其孝の話し也。誠に人間さへ意趣を含み腰ぬけの振る舞ひならば寐首かく者有ㇾ之、まして河童は畜生なれども、其敵の閨の中迄忍び入けれども、三年以來念じける本望を不ㇾ遂して空しく立歸る。かれらが用る法令の有にこそと、おもへばおもへばいと恥し。

   *

なお、これは、その最後に出る豊後国の永石其孝(きこう)なる人物の記した「玉滴隱見抄」という書からの引用であることが、最後に記されてある。この話、私はすこぶる好きである。最後に大田南畝や柴田も述懐しているように、河童は人間よりも遙かに人間らしい仁義を弁えているからである。]

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