小穴隆一「二つの繪」(59) 「奇怪な家ダニ」(3) 藥のききめ・新聞記事
藥のききめ・新聞記事
T君が誰を先に訪ねませうといふ。僕は、ダニは氣にいらなければ、鵠沼から夜中車でやつてきて、土足で家にあがつてくるといふから、(これは奧さんが岩波の人にこぼした話。僕は人傳てにかういつたたぐひの奧さんのこぼし話を聞くたびに、今日になつて人にこぼしてゐるくらゐなら、比呂志君が十九でおとつつあんになつた當時、もう三年分の金をやつて葛卷を追出してしまへといつたときに、なぜ料簡をきめてはくれなかつたのかとつくづく情けなくなる。僕は父から貰つたものがあつたので相當強くいつた。その後奧さんは僕の家にこなくなつてゐる。)所轄の警察に保護願でもだしておいてからにしてほしいが、まづ奧さんを訪ねて、多分病氣といつて逃げるであらうから、比呂志君に會つて、それから葛卷のところにゆくがよからうが、比呂志君は葛卷の異父妹を貰つてゐるからなんだが、也ちやん(也寸志君)は幸になんの關係もないのだから、也ちやんの家だけは騷がしてくれるなといつた。
芥川の愛讀者といふ人達は、どうも氣のやさしい人達のやうであるが、T君もその仲間か、隨分うろうろしてゐて、やつと八月七日になつて社會面に、「芥川龍之介の遺書モメる、〝小穴氏宛のは僞物〟故人の甥葛卷氏近く對決か」といふ見出しで記事を載せた。この記事はどうみても葛卷の肩を持つてゐるとしか見えないやうに書いてあつた。だから、葛卷が不審だとか僞物だとかいつてゐる畫を持つ人や、編集に當つてゐた中村(眞一郎)君や、岩波の人達などは皆、T新聞は何事だと憤慨したものだ。が、圖太い僕は、T新聞の記事のなかに、T君の配慮があるのをみてて面白かつた。葛卷はT君にはじめ、印税を三分の一とつてゐるのは芥川の遺言があるからだと、比呂志、多加志(多加志君は不幸にもビルマの最後の戰鬪で死んだと傳へられてゐる)、也寸志の三君、その死んだ多加志君を勘定に入れてゐない不埒なことをいひ、そのあとで金を受取つてをらぬと電報で否認(T君は、社に電報がきてをりますが、なんのことかよくわかりませんといつてゐた)、さらにまた、いままでは受取つてゐたが、今度の全集の金は受取つてをらぬ、はじめ、妹(比呂志君の細君)が持つてきたがそれは返した。そのあと送つてくるからそれは自費出版で出す全集(葛卷編集の芥川全集のこと)の費用にあてるため、別口の預金として積立ててある、と僕らに向つては通用しないことをいつてゐる。藥のききめがあるぞと思つてゐると、僕のところにギブツ」ニセモノ」ウタガハシイトイフハズナシ」タダギモントイイ」イワナミアクタガワニシラベタノンダノミ」クヅマキといふウナ電をよこして(九日の晩の十時)たのみもせず、N君(岩波の人)に、K(岩波の人)はT新聞の者に話を持込んで不都合だとか、中村君に印税はどうしたとか、かうしたとか、見當はづれな、受取つた人には、一切わけのわからぬ手紙ばかりを書いてゐる。
藥のききめは充分らしい。
しかし、葛卷はまた芥川家にのりこんで、土足のままで怒鳴りちらしたことであらう。
[やぶちゃん注:葛巻義敏の変質もさることながら、こんな文章を書いて効き目があったと快哉している小穴隆一も同じ穴の変な貉であると、哀しいことに、私は思う。注を附す気にもならない。
「比呂志君が十九でおとつつあんになつた當時、もう三年分の金をやつて葛卷を追出してしまへといつた」芥川龍之介の長男芥川比呂志は慶應義塾大学予科一年の、昭和一二(一九三七)年十二月二十四日、満十七歳で父龍之介の姉ヒサの娘で従姉になる二十一歳の瑠璃子(ヒサの二度目の夫西川豊との間に出来た長女。従ってヒサと先夫葛巻義定とヒサの長男である葛巻義敏は異父兄になる)と結婚している。比呂志の長女の名前や生年は不明であるが、三女芥川耿子(てるこ)は昭和二十年三月生まれであり、比呂志が結婚の翌年か二年後の十九(数えか満かは不詳)で「おとつつあん」になったというのは自然である。この時、義敏は二十九か三十である。現在、芥川龍之介は文宛の遺書で義敏の扶養の指示をしていたと考えられているが(当該部は破棄されてある)、比呂志が子をもうけ、芥川家の行く末が取り敢えず落ち着いたこの時、小穴隆一が文未亡人に対して、義敏の面倒を見ることをやめるように進言したとすることは、義敏への小穴の義憤とは無関係に、やはりすこぶる自然なことであると私は思う。なお、この「三年分」とは前の「家ダニは御免だ」で小穴隆一が主張している、芥川龍之介の遺書の破棄された部分に「義敏には三年間生活をみてやれ」とあったという主張に基づく謂いであろう。話柄内時制の昭和三〇(一九五五)年当時の芥川比呂志は「文学座」の中心俳優・演出家として大成しており、特に同年の主演を演じた「ハムレット」は、『今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博』し、『貴公子ハムレットの異名を』得ていた(引用はウィキの「芥川比呂志」に拠る)。
「その後奧さんは僕の家にこなくなつてゐる」小穴隆一と芥川家(少なくとも文と)が疎遠になった時期がここでかなり特定(昭和十三年か翌年頃)されていると読める。
「也ちやん(也寸志君)は幸になんの關係もないのだから、也ちやんの家だけは騷がしてくれるなといつた」話柄内時制の昭和三〇(一九五五)年当時の芥川龍之介三男也寸志は既に押しも押されぬ作曲家として脚光を浴びていた。
「編集に當つてゐた中村(眞一郎)君」中村真一郎(大正七(一九一八)年~平成九(一九九七)年)は岩波第三次(新初版)全集の編集委員の中核的存在であった。
「多加志(多加志君は不幸にもビルマの最後の戰鬪で死んだと傳へられてゐる)」芥川龍之介の次男多加志については私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」や、その冒頭の「蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜」を参照されたい。]
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