小穴隆一「鯨のお詣り」(58)「東郷大將」
東郷大將
先月のことと思ひます。
畫人(ぐわじん)石井鶴三は春陽會洋畫研究所の學生達を前にして東郷大將がとつた丁字(ていじ)戰法を論じ人間東郷を更に見直させ、而して鶴三一流に、人間一生の腹の据ゑ樣(やう)をば説きました。
[やぶちゃん注:「石井鶴三」(明治二〇(一八八七)年~昭和四八(一九七三)年)は彫刻家・洋画家。
「春陽會」大正一一(一九二二)年一月に設立された在野の現存する洋画団体。ウィキの「春陽会」によれば、『院展の日本画部と対立、脱退した洋画部同人を中心に創立された。創立時のメンバーは、小杉放庵らの日本美術院洋画部系の画家と、岸田劉生や梅原龍三郎らだった。その後、梅原と岸田は脱会し、河野通勢や岡本一平らが参加』とある。
「東郷大將がとつた丁字戰法」日露戦争の日本海海戦に於いて連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年:事蹟はウィキの「東郷平八郎」を参照)が《採ったとされる》砲艦同士の海戦術の一つ。敵艦隊の進行方向を遮るような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術を指す。しかし、日本海海戦では、この戦法は採用はされたものの、実際にはその配置にはならず、「丁字戦法」は結果的には形勢されなかったとされている。まず、ウィキの「日本海海戦」を見よう。『連合艦隊は秋山参謀と東郷司令長官の一致した意見によって、敵前の大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受けて連携水雷作戦を海戦で使用することを決めた。しかしそれも当日の荒天により使用が不可能になると、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を並航砲撃戦に持ち込む方法に切り替えた』。『当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭』(しかも二分余りを費やして一五〇度も回頭せねばならなかった)『は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、その後の同航戦中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒され、被弾』四十八発の内、四十発が『右舷に集中していた。しかし、一見冒険とも思える大回頭の』二『分間には、日本海軍の計算が込められていた。それは次のようなものである』。『確かに連合艦隊は』二分間余り、『無力になるが、敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、バルチック艦隊側も砲撃ができない(実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている)』。ジャイロ・コンパスが発明されていない当時、一点に『砲弾を集中し続けることは事実上できなかった』。『当時は照準計の精度が悪く、第』一『弾が艦橋や主砲などの主要部に』一『発で命中することはごく稀であった』。そのため、第一弾の『着弾位置(水柱)から照準を修正して、第』二『弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第』二『弾を放つまでに時間が掛か』。即ち、回頭中に第二弾は『飛来しないか、飛来するとしても慌てて撃つため命中精度が低い』。『バルチック艦隊が、それでも仮に一点に砲撃を集中したとしても、わざわざ砲撃が集中している場所に後続艦は突っ込まずに回避すればよい』。『バルチック艦隊は旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った』。万一、『三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした』。『また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った』。『こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった』(下線やぶちゃん)。『日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり』、『一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった』とあり、また、ウィキの「丁字戦法」にも(戦術図有り)、『日本海海戦において日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官は戦艦』四隻・装甲巡洋艦八隻を『率いてロシアのバルチック艦隊主力』(戦艦八隻・装甲巡洋艦一隻・海防戦艦三隻)『を迎え撃った』。一九〇五年五月二十七日十四時七分、『ロシア艦隊と反航戦の体勢で進んだ日本側は敵の面前で左へ』百六十五度の『逐次回頭を行った。これを日本側は丁字戦法と説明している』が、予想に反して、三十『分程度で主力艦同士の砲戦は決着がつき、ロシア艦隊は大損害を受けて統制を失った。日本艦隊は主力艦の喪失ゼロに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没』二十一隻・拿捕六隻・中立国抑留六隻と『壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦は巡洋艦』一隻と駆逐艦二隻に『過ぎなかった』。『実際にはバルチック艦隊の変針により並航戦へすぐ移り、「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦でみられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字は実現しなかった』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『また戦闘詳報や各種一次資料に「日本海海戦で敵前大回頭後に丁字戦法をした」という記述はないことから、このため当事者たち自身は大回頭後に「丁字」若しくは「イの字」の体勢が出来たとは考えていないと推測される』。但し、『戦策の丁字戦法には「敵の先頭を圧迫する如く運動し」という記述があり、戦闘詳報に「敵の先頭を圧迫」という記述は存在する』。後に半藤一利は海戦直後の五月二十九日、『詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法で勝てた」と虚偽の発表がなされ、翌日の紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間に浸透してしまったという説を唱えているが』、『実際に発表されたのは』六月二十九日の『ことであり』、六月三十日『の朝日新聞に掲載されている』とあるのである。なお、後者のウィキによれば、丁字戦法は『同方向に併走しながら戦う同航戦や』、『すれ違いざまに戦う反航戦から丁字戦法を成り立たせるためには、敵艦隊より速力で上回り敵先導艦を押さえ込めること、丁字の組み始めから完成までに比較的長く敵の攻撃にさらされる味方先導艦が充分な防御力を持つこと、丁字完成後も丁字を長く維持するための艦隊統制及び射撃統制が取れることなどが必要なため、着想は容易だが実行は難しい戦法であるといえる』とある。]
そこで私も亦、東郷大將についていまここにお話しをする光榮を持ちたいと思ひます。
私のいふ東郷大將、東郷元帥のことでありますが この東郷さんの姿を遠くからでもよい、一度でも實際に見たといふ人はこれは存外に少ないと思ひます。唯一度(ど)ではあるが私は東郷さんをまのあたりに見た過去を有します。而も、幸運あつて乃木大將と二人を同時に一しよに見てゐるのであります。それは私が小學生の時にでありました。
[やぶちゃん注:「乃木大將」乃木希典(まれすけ 嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年九月十三日:事蹟はウィキの「乃木希典」を参照されたい)。]
私は本郷の西片町(にしかたまち)、東片町で育ちました。その私には、自分の學校の歸りに二三の友達と大學の構内で一わたり遊んでから、家に戾る習慣を持つてゐた時期がありまして、巡視にひどく叱られたこともあります。その時代にです。日露戰爭後で、明治は何年頃(ごろ)でしたか。ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオといふ歌、河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた年頃か、その一寸後(のち)のことでせう。
[やぶちゃん注:「ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオ」私は野球のルールも知らない異常な人間であるが、野球用語を覚えるための子どもの遊び唄であろうか。識者の御教授を乞う。
「河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた」不詳。同前。]
その日もまづ大學の柔道場ののぞきから始まり、御殿御殿と言つてゐた池のふちの建物の側(そば)までまはつていつた時に、幕にそつて建物の方に何か人々がぞろぞろ這入(はい)つてゆく、その中に私達も混つていつかそのなかに這入てしまつたのです。建物のなかに這入ると皆がしーんとしてゐました。なんといふことなく私達も膝を折つてしまつて隅から室(しつ)のまん中を見詰めてををりした。その時です。私達の傍(そば)を東郷大將、乃木大將が通つたのです。
あれは道場開きででもあつたのでせうか。二三番見たかその後で私は來賓としての乃木大將と高商の人の(どういふものか高商の文字だけ不思議に忘れません)劍道の試合を見ることになりました。しかしその試合を前にして、東郷大將はまた私達の傍を通つて今度は歸つてゆくのです。
[やぶちゃん注:「高商」一橋大学の前身。]
「如何(どう)して歸るんだらう。」「東郷さんは如何して、乃木さんの試合を見てゆかないのだらう。」とさうけげんには思ひながら片方を見ますれば、かが乃木大將は面、籠手(こて)をつけ、竹刀(しなひ)を持つて道場のまん中に立つてをります。乃木さんのその時の恰好はたゞのお爺さんくさく見えました。相手學生の方はきちんとして強さうに見えました。二三合(がふ)あつたかのうちに、學生の體當(たいあた)りを喰つて乃木さんはどんと仰のけにひつくりかへりました。あつと思つて私は隨分心配したものです。また高商の人も困るだらうなあと思ひました。しかし乃木さんが直(すぐ)に起上り、再びぽかぽかと打合つたかと思ふと、あつけなくそれがその試合の引分けでした。
私の東郷大將の話はたつたこれだけで終りです。
何故、東郷さんは乃木さんの試合を見ずに歸つたのか。これを今日(こんにち)、私がみだりに論じたくはありません。また一方乃木大將の場合、自分があの時の乃木さんを見ておかなければ、芥川龍之介の「將軍」によつて、私の一生乃木大將を見る目に歪(ゆが)みをつけたかも知れぬと思つてをります。
[やぶちゃん注:「將軍」大正一一(一九二二)年一月『改造』発表。芥川龍之介の作品の中で、唯一、激しい伏字が今も復元されずにある(現行紛失のため)唯一の作品である。
小穴隆一の朦朧体に加えて、刊行時期が時期なだけに(昭和一五(一九四〇)年十月)末尾部分、小穴の心境は汲み取り難くされてある。しかし素直に読むなら、小穴隆一は芥川龍之介の「將軍」に示された、異様にマニアックな乃木のイメージを暗に支持しているものと読める。だから主題を乃木とせずに、東郷平八郎の思い出にずらしてあるのだと思う。なお、芥川龍之介の遺児たちは特に父の書いたこの「將軍」故に、陰に陽に学校や軍隊内でいじめを受けたのであった。]
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