柴田宵曲 妖異博物館 「古蝦蟇」
古蝦蟇
天竺德兵衞や兒雷也の妖術は番外としても、蝦蟇(がま)に關する妖異譚は世間にいろいろある。
[やぶちゃん注:「天竺德兵衞」(てんじくとくべえ 慶長一七(一六一二)年~?)は江戸前期の商人で探検家。ウィキの「天竺徳兵衛」より引く。『播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという』寛永三(一六二六)年)、十五歳の時、『京都の角倉家』(すみのくらけ:京都の豪商)『の朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航。さらにヤン・ヨーステン』(Jan Joosten van Loodensteyn 一五五六年?~一六二三年):オランダの航海士で朱印船貿易家)『とともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった』。『帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後、見聞録』「天竺渡海物語」(「天竺聞書」とも)を『作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる』。『高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている』。『死去した後に徳兵衛は伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃』「天竺德兵衞郷鏡(てんじくとくべえさとのすがたみ)」(宝暦一三(一七六三)年初演)や四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺德兵衞韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」(同年初演)で『主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した』とある。「ガマの妖術」(47NEWS(よんななニュース))の記事によれば、鎖国によって『徳兵衛は、キリシタンと結びつけられ、ガマの妖術を使って日本転覆を志す悪人として描かれ』、これは『鎖国下の人々には「キリシタン=妖術使い」という怪しいイメージがあった』からであろうとする。『南北の名を世に知らしめた』「天竺德兵衞韓噺」は、『徳兵衛を描いたさまざまな先行作を集大成した芝居で』、『屋体崩しの屋根の上に、火を噴く大ガマに乗って現れ、舞台上の池の水に飛び込み、すぐに裃(かみしも)を着た使いに化ける早替わりを見せるなどで人々をあっと驚かせ』『た。水中の早替わりがあまりに鮮やかなので、「キリシタンの妖術を使っているらしい」といううわさが江戸市中に広まり、奉行所の役人が調べに来る騒ぎとなって、それがまた人気に火を付け』たが、実はこの噂は『芝居関係者がわざと広めたのだそうで、あざとい宣伝は江戸の昔も今と変わらないようで』あるとある。
「兒雷也」(じらいや)は「自雷也」とも書く、江戸後期の読本に登場する架空の盗賊・忍者の名。これもウィキの「自来也」から引く。『明治以降、歌舞伎や講談などへの翻案を通して蝦蟇の妖術を使う代表的な忍者キャラクターとして認識され、現在に至るまで映画・漫画・ゲームなど創作作品に大きな影響を及ぼしている』。『日本の物語作品に自来也が初めて登場するのは、感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)による読本』「自來也説話(文化三(一八〇六)年刊)で、そこでは『自来也は義賊で、その正体は三好家の浪士・尾形周馬寛行(おがた しゅうま ひろゆき)。蝦蟇の妖術を使って活躍する』。『「自来也」は、宋代の中国に実在し、盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と書き記したという盗賊「我来也」』(宋の沈俶(ちんしゅく)の「諧史(かいし)」に所載する)等を『元にしたとされる。自来也の物語は歌舞伎や浄瑠璃に翻案された』。「兒雷也」は、上記の「自來也説話」を『元にして、美図垣笑顔(みずがき えがお)らによって書かれた合巻』(ごうかん:寛文期(一六六一年~一六七二年)以降に江戸で出版された草双紙類の、文化元(一八〇四)年頃に生まれた最終形態。名称は、それまで五枚(五丁)一冊に別々に綴じていた草子を纏めて厚く綴じたことに由来し、明治初期まで続いた)「児雷也豪傑譚」(天保一〇(一八三九)年~明治元(一八六八)年まで三十年にも亙る長期刊行されたものであるが、未完に終わった)に『登場する架空の忍者』の名で、『肥後の豪族の子・尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき)がその正体と設定され、越後妙高山に棲む仙素道人から教えられた蝦蟇の妖術(大蝦蟇に乗る、または大蝦蟇に変身する術)を使う。妻は蛞蝓の妖術を使う綱手(つなで)、宿敵は青柳池の大蛇から生まれた大蛇丸(おろちまる)であり、児雷也・大蛇丸・綱手による「三すくみ」の人物設定は本作品から登場している』。この「兒雷也」は河竹黙阿弥による「児雷也豪傑譚話」(嘉永五(一八五二)年)などの『歌舞伎に脚色翻案され、さらに多くの忍者ものの物語やキャラクターの題材となった』。大正一〇(一九二一)年『公開の牧野省三監督の映画』「豪傑兒雷也」は『日本初の特撮映画と言われ、主演した尾上松之助の代表作となった』とある。私は正直、最後の映画ぐらいでしか知らぬ。]
米澤で夏の月の明るい夜、人が集まつて話をしてゐると、盆に盛つて出してあつた餠が庭の方へ飛んで行く。それも一度や二度ではない。皆が不審がつて庭の方を見守るのを、主人は笑つて、あれは何でもありません、庭に食べるやつがゐるのです、と云ふ。成程、大きな蝦蟇がうづくまつてゐて、かつと開いた口の中へ、餅は皆飛び込むのであつた(寓意草)。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。この条は右下の途中に出る。]
これらは蝦蟇のものを吸ふ力の強い一例で、興味を持つて眺められる程度の話であるが、「耳囊」の記すところを見ると、もし蝦蟇が厩に住めば、その馬は心氣衰へて終に枯骨となる。床下に蝦蟇が居る場合には、その家の人がうつうつと衰へて病氣になる。或古い家に住む人が、何となく病み付いて氣血衰へた際、緣端に來る雀が緣の下へ飛び込んだまゝ行方知れずになつた。その他、猫鼬の類も、自然と緣の下へ引込まれる。かういふ事が屢々あるので、床板を剝し、緣の下へ人を入れて搜して見たら、大きな蝦蟇が窪んだところに住んで居り、毛髮枯骨の類がおびたゞしく傍に在つた。全く彼奴の仕業であらうと打ち殺して捨て、床下を綺麗に掃除したら、病人は日ましによくなつたとある。
[やぶちゃん注:「彼奴」「きやつ(きゃつ)」。
以上は「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」の前半の主事例である。私の原文訳注でお楽しみあれ。次の談の事例(「怪をなす蝦蟇は別種成事」に相当)はその後半に記されてある。「蝦蟇」=「蟇」の生物学的記載はリンク先の私の注を参照されたい。]
上野の寺院の庭で鼬が蝦蟇に取られたことがあつた。鼬の死骸に土をかけ、蝦蟇がその上に登つてゐたので、翌日その土を掘り返して見たら、鼬は已に溶け失せて居つた。「耳囊」はこの話に附け加へて、蝦暮の足手の指が前に向いたのは尋常である、女の禮をする時のやうに、指先をうしろへ向ける蝦蟇は必ず妖をなす、と云つてゐる。
蝦蟇は他の動物を斃しても、直ぐにそれを食はぬらしい。「續蓬窓夜話」に書いてあるのは、京都の話で、然も相手は蛙族にとつて宿敵の蛇であつたが、この蛇は一溜りもなく蝦蟇の前に屈してしまつた。蝦蟇は徐ろに樹の下へ這つて行つて土を穿ち、蛇の屍を埋めてしまつた。この體を目擊した人が翌日そこへ來て見ると、蝦蟇が昨日の土を搔きのけるやうにするにつれて、蜂のやうな蟲が飛び出す。掘れば飛び出し、掘れば飛び出しするのを、片端から呑み盡して、悠然とどこかへ立ち去つた。その跡へ行つて見たが、蛇の死骸は露ほども見えなかつたさうである。
[やぶちゃん注:「體」「てい」。
以前に申し上げた通り、「續蓬窓夜話」は所持しないので原文を示し得ない。]
以上のやうな話は、動物界に於ける自然現象と見られぬことはない。倂し蝦蟇の妖術はなかなかこの邊にはとゞまらぬので、「寢ぬ夜のすさび」に見えた柳橋庵連馬の話などは純然たる怪談である。
[やぶちゃん注:刊年不詳。片山賢著になる文政(一八一八年~一八三〇年)末より弘化年代(一八四四年~一八四七年)に至る江戸市中の巷談街説を記した随筆。以下は「卷之三」の「柳橋菴連馬」(現代仮名遣で「りゅうきょうあんれんば」と読んでおく)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]
この人天性の蛙好きで、庭の小さな泉水にも蛙を放す。机上に置く文鎭卦算の類も全部蛙か蝦蟇で、銅製陶製倂せて四五十の多きに及んだ。或年行脚して會津に到り、或家の離れ座敷を借りて二三箇月も逗留した。土地の人々もこゝに集まつて、夜毎に俳諧などを催してゐたが、そのうちに給仕の女が、あの宗匠のお部屋では、皆樣がお歸りになつてから、毎晩話し聲が聞えます、と云ひ出した。主人も注意して見るのに、如何にもその通りである。連馬に聞けば、そんな事はないといふ。或晩寢しづまつて後、廊下に蝦蟇が一疋うづくまつてゐるのを發見したので、さてはこれかと見守つてゐると、障子の際まで這つて行つて見えなくなつた。同時に連馬の話し聲が聞える。話の内容はわからぬが、かういふ事を二三度見屆けた上、改めて連馬に質して見た。連馬の答へに、近頃お恥かしい次第であるが、自分で江戸で美人畫を求め、もしかういふ女が世にあるならば、妻にしたいと考へて居りました、然るに御當地へ來てから、その繪の通りの女が現れましたので、毎晩逢ふやうになりました、此間お尋ねがあつた時、私は知つてはゐたが云はなかつたのです、倂し今蝦蟇と云はれたのは合點が往きません、といふことであつた。主人は切にその妖であることを説き、俳諧の連中も共に諫めたが、表面は承知したやうで、毎夜の話し聲は依然やまぬ。遂に顏色憔悴して江戸に歸つたが、間もなく亡くなつたさうである。この美人に化けた先生などは、どうしてもうしろ向きの指の所有者でなければなるまい。
[やぶちゃん注:「卦算」「けさん」或いは「けいさん」と読み、文鎮と同義。易の算木(さんぎ)のような形に似ていることに依るが、ここは或いは大きなものを「文鎭」、それに比較して小さなものをかく呼んでいるのかも知れぬ。]
元文三年頃、本所にある松平美濃守の下屋敷で、屋敷内にある方三町餘の沼を埋めることになつた時、けんぼう小紋の上下を著た老人が上屋敷の玄關に現れた。私儀は御下屋敷に住居致しまする蟇でございます、この度私住居の沼をお埋めなされるやう御沙汰ある段、承りまして參上仕りました、何卒この儀お取り止め下さいますやう、願ひ上げ奉ります、と鄭重に申し述べた。取次ぎの士が怪しい事に思ひ、襖を隔てて窺へば、けんぼう小紋の上下と見たのは、蟇の背中の斑であつた。大きさは人の坐つたぐらゐで、兩眼、鏡の如しとある。即刻美濃守に申達し、沼を埋めるのは中止になつた(江戸塵拾)。
[やぶちゃん注:「元文三年」一七三八年。
「方三町」三百二十七メートル強四方。
「けんぼう小紋」「憲法小紋(けんぱうこもん(けんぽうこもん))」のことであろう。「憲法」は憲法染めという独特の染め方を指し、江戸初期の兵法師範であった吉岡憲法が、渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える、黒茶染めの染め方。恐らくは蟇の化身であるから、赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指しているものと推定される。江戸時代には黒系統の平服として広く愛用されていた。
「蟇」「ひき」或いは「がま」。
「申達し」以下の原文から「まうしたつし」と訓じておく。
以上は「江戸塵拾」の「卷之三」の「大蟇」所持する「燕石十種」第五巻(一九八〇年中央公論社刊)を何時もの通り、漢字を恣意的に正字化して示す。
*
大蟇
松平美濃守下屋敷本所にあり、方三町餘の招あり、此中に住む、一年、故有て此池を埋べきよし被二申付一、近々、掘理んと云時に、上屋敷の玄關に、けんぼう小紋の上下着たる老人一人來りて、取次の士にいふ樣、私儀、御下屋敷に住居仕る蟇にて御座候、此度、私住居の沼を御埋被ㇾ成候御沙汰有ㇾ之段、奉二承知一候付、參上仕儀、何卒此儀御止被ㇾ下候樣に奉二願上一候旨を申述候、其段可二申開一候とて、取次の士退座して、怪しき事に思ひ、ふすまをへだてうかゞひ見るに、けんぼう小紋の上下と見へしは、蟇が背中のまだらふなり、大サは人の居りたるが如く、兩眼がゞみの如し、即刻美濃守へ申達ける所、口上のおもむき聞屆候よし挨拶あられ、沼をうづむる事を止られける、元文三年の事なり、
*]
時代は遡つて室町時代になる。應仁の亂に一方の大將だつた細川勝元は、等持院の西にあつた德大寺公有卿の別莊を請ひ受けて菩提所とし、義天和尚を關祖とした。即ち今の龍安寺である。自分の居宅の書院を引いて方丈とし、權勢に任せ庭なども數寄を凝らしたものであつたが、勝元は政務の暇にはこゝに來て、方丈に坐して庭前の景を眺め、酒宴を催したりする。殊に夏の暑い日は屢々池邊を逍遙し、近習の者をしりぞけて池に飛び入り、暫く泳ぎ𢌞つた後、方丈に入つて睡るのが常であつた。或夏の暮れ方、この邊を徘徊する山賊どもが七八人、この寺に忍び込んで、ひそかに方丈を窺つたところ、人影も見えず、しづまり返つてゐる。今日は管領もお見えにならず、寺僧も他行と見えた、これは何よりの幸ひだから、入つて財寶を奪はうといふので、池の岸根を傳ひ、隔ての戸を押し破つて方丈へ這ひ上らうとすると、思ひもよらず座席の眞中に一丈ばかりの蝦蟇がうづくまり、頭を上げて睨み付けた眼は、磨ぎ立てた鏡の如くである。盜賊どもは肝を潰して、そこに倒れる。蝦蟇は忽ち大將らしい人になつて起き上り、側にあつた刀を執つて、汝等は何者だ、こゝは外の人の來るところでないぞ、と叱り付けた。盜賊はわなわなふるへ出して、もの欲しさに忍び入りました盜人でございます、御慈悲に命をお助け下さいまし、と哀願に及ぶ。その人笑つて床の間の金の香合を投げ出し、貧困に迫つて盜みするのは不便(ふびん)であるから、これを取らする、必ず今の體を人に語る勿れ、と云つたけれど、盜賊はもう香合を受け取るどころではない。跡をも見ずに逃げ出した。遙かに年を經た後、賊の一人が伊勢の北島家に囚はれ、この始末を話したさうである。蝦蟇は勝元の本身で、かういふ形を現じたところを、不意に亂入した盜賊に見付けられたものか、さうでなければこのうしろの山中に蛇谷、姥が懷ろなどといふ木深いところがあるから、その邊から來た妖怪であつたかも知れぬ(玉箒木)。
[やぶちゃん注:「一丈」約三メートル。
「伊勢の北島家」伊勢国司家で南伊勢を支配していた北島氏。
「蛇谷」不詳。「じやたに」と読むか。
「姥が懷ろ」「うばがふところ」か。「都名所図会」の「卷之三 東靑竜」の「日岡(ひのおか)の峠」(粟田口から山科へ抜ける道)の西に「姥が懷(うばがふところ)」と言う地名を見出せる。位置的には龍安寺とは合わないから、ここではないとしても、この地名は日照・地形上の形状や陶土などの特殊な土の産出などに起因するものするなら、京の別な箇所にあっておかしくなく、実際に全国にこの地名は現存することが、木村清幸氏の論文『「姥懐」という中世地名について』(PDFでダウン・ロード可能)で判る。
「玉箒木」「たまははき」と読み、元禄九(一六九六)年刊の全十七話からなる、京の本屋文会堂の主人で浮世草子作者でもあった林義端(はやしぎたん ?~正徳元(一七一一)年)の怪異小説集。以上は「卷之二」の巻頭にある「蝦蟆(かへる)の妖怪」である。活字本を所持しているはずなのであるが見当たらぬので、Google
ドライブのこちらの電子データを基礎に、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で読めるそれを視認して電子化する。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを施した。
*
○蝦蟆妖怪
細川右京大夫勝元は、將軍義政公の管領(くわんれい)として武藏守に任じ、富貴(ふうき)を極め威權(いけん)を輝(かかやか)し、凡(およそ)當世公家武家のともがら多くはその下風(かふう)につきしたがひ、その命を重んじうやまひあへり、かゝりしかば貸財珍寶求めざれども來りあつまり、繁榮日々にいやましにて、よろづ心にかなはずといふ事なし、その頃洛西等持院(たうぢゐん)の西に德大寺公有(きんあり)卿(きやう)の別莊あり、風景面白き勝地(しやうち)なれば、勝元請受(こひうけ)て菩提所の寺となし。義天和尚をもつて開祖とし給ふ、今の龍安寺(りようあんじ)是也、勝元居宅の書院を引(ひき)て方丈とせり。このゆへに造作の體(てい)よのつねの方丈とはかはれり、勝元元來權柄(けんぺい)天下を傾(かたぶ)けければ、私(わたくし)に大船(だいせん)を大明國につかはし、書籍畫圖器財絹帛の類(たぐひ)、かずかずの珍物をとりもとめて祕藏せり、その時の船の帆柱は大明の材木にてつくりしを、此龍安寺普請の時引割(ひわり)て方丈の床板(ゆかいた)とせらる、そのはゞ五尺ばかり、まことに條理堅密の唐木(からぼく)にて、和國の及ぶ所にあらずといふ、方丈の前に築山(うきやま)をかまへ樹木を植(うえ)、麓(ふもと)には大きなる池あり、是は勝元みずからその廣狹(くわうけう)を指圖して、景氣おもしろく鑿開(ほりひら)き給ふとなり、水上には鳧雁鴛鴦(ふがんゑんわう)所得(しようとく)がほにむれあそび、島嶼嶸廻(えいくわい)して松杉(しやうさん)波にうつろふ。古人の綠樹影沉(しずん)では魚木に上ると詠じけんもこゝなれや、色々の奇石を疊たる中に、すぐれて大きなる石九つあり、是また勝元政務(つとめ)のいとまには常に此寺にきたり、方丈に坐して池中の景を詠め、酒宴を催し、ことさら夏の中(うち)暑熱の頃は、しばしば池の邊に逍遙し、近習(きんじふ)の人をしりぞけ、たゞひとりひそかに衣服を脱す(ぬぎ)てあかはだかになり、池水に飛入(とびいり)てあつさをしのぎ、しばらくあなたこなた遊泳して立あがり、そのまゝ方丈に入て打臥し寐(ね)いり給ふ、ある年の夏の暮に、此邊を徘徊する山立(やまだち)の盜賊ども七八人、此寺に入きたり、ひそかに方丈の事をうかゞふに、人一人も見えず、いと物しづかなり、盜賊どもおもふやう、今日は管領もきたり給はず、寺僧も他行(たぎやう)せしとみゆ、究竟一(いつ)の幸(さひはひ)ならずや、いでいでしのび入て財寶をうばはんとて、池の岸根(きしね)をつたひ、へだての戸どもおしやぶり、方丈へはひあがらんとするに、おもひもよらず座席のまん中に、その大さばかりの一丈ばかりの蝦蟆(かへる)うずくまり、かしらをあげまなこを見いだす、そのひかりとぎたてたる鏡のごとし、盜賊ども肝を消して絶入(ぜつにふ)し、そのまゝ臥し倒る。此蝦蟆(かへる)たちまち大將とおぼしき人となりて起あがり、そばなる刀おつとり、なんぢらは何者ぞ、ここは外人(ぐわいじん)の來る所にあらずと大にいかりければ、盜賊どもおそれおのゝき、わなわなふるひけるが、まことは盜人にて侍る、物のほしさにしのび入しなり、御慈悲に命をたすけ給へと、一同に手をあはせひれふしたり、此人打わらひ、しからばとて床の間にありし金の香合(かふがふ)をなげいたし、なんじら貧困に迫り盜竊(たうせつ)するが不便(ふびん)さに、これをあたふるなり、かならずただいま見つけたる體(てい)を人にかたることなかれ、とくとくかへるべしといへば、盜賊ども香合をうけず其まゝもどし、ありがたき御芳志(ごはうし)なりといひもあえず、跡をも見ずしてにげ出けり、はるかに年經て後、此盜賊の中一人、勢州北畠家に囚(とらは)れ、此始末をかたりけるとなり、抑(そも)此(この)蝦蟆(かへる)は勝元の本身(ほんしん)にて、かくかたちを現じ、おもひかけず亂れ入たる盜賊どもに見つけられたるにや、しからずば又此うしろの山中には、蛇谷姥ケ懷などいふ木深(こぶか)き惡所もあれば、かゝる妖怪の生類(しやうるい)もありて出けるにやといふ。
*
細川勝元は実は蝦蟇が化けたものかとする面白い話であるが、寧ろ、この妖しさは彼の息子で、修験道に没頭して独身を通し、結果、細川家の嫡流を絶えさせてしまった妖しい政元の方が相応しいと私などは思ったりするが、如何? 但し、uburan氏のブログ「いまだ書かれざる物語」の『「魔法修行者」の親父』によると、これは宋の覚範慧洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」が元ネタとするという。「冷齋夜話」を中文サイトで縦覧したが、如何せん、どの部分がどう元ネタなのか皆目分らぬので、お手上げ。お分かりになった方は御教授下されよ。]
これは天竺德兵衞も兒雷也もそこのけの手際である。細川勝元に果してこんな傳説があつたものかどうか。もし廣く流布してゐないなら、時代小説は知らず、歌舞伎の一幕に取り入れるのも面白からうと思ふ。
« 小穴隆一「鯨のお詣り」(26) 「二つの繪」(15)「友二三名について」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(27) 「二つの繪」(16)「手帳に依る、1」 »