小穴隆一「鯨のお詣り」(61)「伯父」(2)「T伯父」
T伯父
T伯父さんは私の祖父の實家の人である。T伯父、この伯父は舊家に生れた有德(うとく)の人である。はつきりと言へば、今井四郎兼平の嫡流と書かなければならない。
[やぶちゃん注:「今井四郎兼平」(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)は言わずと知れた、木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人で、粟津の戦いで討死にした義仲の後を追って凄絶な自害を遂げた人物である。]
私は一度父に連れられて、この伯父と淺草に一緒に行つた子供の頃の記憶を持つのである。珍世界の鄰の小屋では芝居をやつてゐたと思ふ。私は楠公子別(なんこうこわか)れの場面が描(か)いてあつたその小屋の繪看板に見惚(みと)れて、もう少しのところで、迷子になつてしまふところであつた。何處(どこ)ぞで御飯も食べた。何を食べたかは憶えてもゐない。廊下を步いてゆく藝者と姐(ねえ)さんの髪飾(かみかざり)が不思議であつたらしい。
[やぶちゃん注:「珍世界」明治三五(一九〇二)年から明治四十一年まで浅草六区にあった妖しげな珍奇博物標本を展示した見世物感覚のテーマ・パーク。小穴隆一は明治二一(一八九四)年十一月二十八日生まれであるから、「子供の頃」とある以上、開館当時の十四歳頃か。]
伯父はまた一度、私が描いた風景畫を見て、これはどこの眞景かと聞いたことがある。伯父の眞景といふ言葉は私の耳に甚だ愉快ではあつたと同時に、伯父と私との年齡の開きを非常に感じさせられもした。
私が二十何歳の頃であつたか、記憶にのぼるかぎりではこれが始めてではあるが、私はK伯父さんに連れられてT伯父さんの家(いへ)に行つた。
T伯父をはじめてその家に訪ねた時に、私に文具料と書いて水引のかけてある立派な紙包を貰つた。さうして伯父の家を辭してから、K伯父と私は眞晝の上諏訪と下諏訪との間の道をてくてくと步いてゐた。この途中茶屋のやうな家で鮨(すし)を食べた。その勘定の時に、私はK伯父にさとられぬやうにこの紙包の金に手をつけた。包の中にはきちんとした一枚の一圓札がはいつてゐたのである。後で祖母にT伯父からお金を貰つたが、途中でつかつてしまつたといつたら叱られた。私はK伯父の汽車賃やら何やら立替(たてか)へてゐたものであるからともいへずに、頭を搔いてしまつた。この文具料から後(のち)十五年以上も經過して、私は父に信州にあつた空家(あきや)を一軒貰つたのである。空家にあつた物は、十七歳の時から國を出た父のあらかたの手紙、鼠の糞にまみれたさういふ物ばかりで、その間から
[やぶちゃん注:以下、特異的に漢文体の書状を一切の読み無しで掲げ、後に【 】で最低の読みを附して示した。原文は総ルビである。最後の署名以下はブラウザの不具合を配慮して字配を操作した。]
敬白
父上様母上様御中日久しく度々不和相生候段誠に以て私儀心配仕淚胸中に滿ち難忍落淚仕事更に無之候依て父の御惠愛を以て此事御聞入被下置偏に御中睦親之段只管に奉悃願候此事情口上にて申上べく之所鈍愚之口に恐懼して難述依て如此相認御忿如をも不顧諫書仕候此段偏に御聞入被下度肺肝を碎き奉歎願候
右之情皆下女○○より起りたる事に御座候間彼をお雇なく暇遣候ば宜敷御座候彼有らば愈家に大害を生じ御名を汚すに至るかと奉存候此段御聞屆之程偏に奉願候
右之條々私心を御洞察被下御聞入被下置候はば雀躍歡喜生涯中之幸福元より大なるは無候之偏に奉歎願候
○○○○
頓首謹白
○○父上大君樣
【 敬白
父上様母上様御中(おんなか)日久(ひひさ)しく度々(たびたび)不和相生候段(あひしやうじさふらふだん)誠に以て私(わたくし)儀心配仕(つかまつり)淚胸中に滿ち難忍(しのびがたく)落淚仕(つかまつりし)事更に無之(これなく)候依(よつ)て父の御(ご)惠愛を以て此(この)事御聞入被下置(おきゝいれくだされおき)偏(ひとへ)に御中(おんなか)睦親(ぼくしん)之(の)段只管(ひたすら)に奉悃願(こんぐわんたてまつり)候此(この)事情口上(こうじやう)にて申上(まうしあぐ)べく之(の)所鈍愚(どんぐ)之(の)口(くち)に恐懼(きようく)して難述(のべがたく)依(よつ)て如此(かくのごとく)相(あひ)認(したゝめ)御忿如(ごふんじよ)をも不顧(かへりみず)諫書(かんしよ)仕(つかまつり)候此(この)段偏(ひとへ)に御聞入被下度(おきゝいれくだされたく)肺肝(はいかん)を碎き奉歎願候(たんぐわんたてまつりさふらふ)
右之(の)情皆下女○○より起りたる事に御座候間(あひだ)彼をお雇(やとひ)なく暇(いとま)遣候(つかはしさふらは)ば宜敷(よろしく)御座候彼(かれ)有らば愈(いよいよ)家(いへ)に大害(たいがい)を生(しやう)じ御名(おんな)を汚(けが)すに至るかと奉存候(ぞんじたてまつりさふらふ)此段御聞屆(おききとどけ)之(の)程偏(ひとへ)に奉願候(ねがひたてまつりさふらふ)
右之條々私心(ししん)を御洞察(ごどうさつ)被下(くだされ)御聞入被下置候(おきゝおきくだされさふらは)はば雀躍歡喜生涯中(ちう)之(の)幸福元より大なるは無候(なくさふらふ)之(これ)偏(ひとへ)に奉歎願候(ぐわんたてまつりさふらふ)
○○○○
頓首謹白(とんしゆきんぱく)
○○父上大君(たいくん)樣】
と認(したゝ)めた一通の書狀が出た。
伏字以外は原文どほりである。
正にT伯父が少年時代の筆蹟と思はれる物、私はこれを別にして保存してゐた。保存しておいて三年、たまたま叔母の死ぬに遇つて、諏訪に行つた時に、私はその席で伯父に幾年ぶりかで逢へた。
[やぶちゃん注:以下、同然の異例の処置を施した。]
芳簡拜披殘暑今以て殘り候處益益御健勝奉賀候偖先日○○にてお話有之候祕書御戾し被下難有受納致候老生多年心掛り之品入手致し安堵之至云々
【芳簡(はうかん)拜披(はいひ)殘暑今以て殘り候處益益(ますます)御健勝奉賀(がしたてまつり)候偖(さて)先日○○にてお話有之(これあり)候祕書(ひしょ)御戾し被下(くだされ)難有(ありがたく)受納(じふなふ)致候老生(らうせい)多年心掛り之(の)品(しな)入手致し安堵之(の)至(いたり)云々】
これが伯父が生涯中(ちう)に唯一度(ど)私に書いた手紙である。
T伯父、これもまた數年前(ぜん)に死んでしまつてゐるのである。
私はいま、どうしてそれが私のおぢいさんの手にあつたものか。どうしてまた私のところに移つたものか。その時分はおやぢの前に出てはとても物などいへるものではない。それで、あれを書いてそつとおやぢの机の上にのせて置いたものだが、それについておやぢは一言(こと)もいはず、自分もまた一言もいへず、人に話しもできず、ただその後(あと)はその書いた物をおやぢはどうしたかと、そればかり苦(く)になつてゐて、未だに苦にしてゐた物だ。と言つてゐた伯父に親しむ。
長者の髭鬚(ししゆ)を生(はや)した、謹嚴でにこやかな伯父が、瞼(まぶた)をすこしあからめて、いふところの祕書(ひしよ)を得て喜び安堵したといふわけかどうかしらぬ。その後(ご)幾何(いくばく)もなくこの伯父の訃告(ふこく)に接した。
[やぶちゃん注:これは、本書中、白眉の一章と言える。芥川龍之介も生きておれば、きっと「いいものを書いた。」と小穴を讃えたものと疑わぬ。]
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