柴田宵曲 妖異博物館 「蜘蛛の網」
蜘蛛の網
源賴光を惱ました土蜘蛛ほどのものは見當らぬけれど、蜘蛛は近世になつても相當話を殘してゐる。諸國を𢌞る山伏覺圓なる者、熊野に參籠してから京都に上り、淸水寺に詣でようとして、五條鳥丸あたりで日が暮れかけた。大善院といふ大きな寺院を見かけて一夜を乞ふと、寺僧は承知して本堂の傍にある、きたない小屋へ案内した。覺圓その冷遇を憤つたところ、寺僧は笑つて、決してさういふ次第ではありません、實はこの本堂には年久しく怪しい者が住んでゐて、三十年ばかりの間に三十人も命を失ひ、その死骸すらわからぬのです、本堂にお泊め申さぬのはそのためですから惡しからず、と云つた。覺圓はそんな馬鹿な事がある筈がない、是非泊めて貰ひたい、と云ふ。寺僧が再三諫めても、覺圓は承知せぬので、本堂の戶を開き、ざつと掃除をして、その方へ連れて行つた。
覺圓はしづかに本尊を禮拜し、念佛を唱へて坐つてゐたが、寺僧の云つた事も氣にかゝるので、全く油斷はせぬ。腰の刀を半ば拔き出し、柄を手に持ちながらうとうとしてゐると、夜も二更に及ぶ頃、ぞつと寒くなり、堂内しきりに震動して、凄まじい風雨になつた。その時天井から大きな手をさし出して、覺圓の額を撫でた者がある。すかさず刀を振り上げて斬ると、たしかに手應へがあつて佛壇の左の方に落ちた。やがて四更に至り、同じやうな手をさし伸べて來たので、これも斬つて捨てた。夜が明けてから寺僧が心配して見に來る。覺圓より前夜の話を聞き、直ちに佛壇の傍を見れば、長さ二尺八寸ばかり、眼圓く銀色の爪をした大蜘蛛が死んで居つた。益々驚いてこれを堂の傍に埋め塚を築き、覺圓に祭文を草せしめて塚を祀り、再び妖怪なからんことを祈念した(狗張子)。
[やぶちゃん注:「源賴光を惱ました土蜘蛛」源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)は平安中期の武将で摂津源氏の祖。「土蜘蛛」はウィキの「土蜘蛛」によれば、『本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』が、『後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」』(「八束脛」とは「すねが長い」という意である)。『なお、この名で呼ばれる蜘蛛は実在しない。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛のグループ』であるオオツチグモ科(節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目オオツチグモ科 Theraphosidae)は、『これらに因んで和名が付けられているが』、命名は『近代に入ってからであり、直接的にはやはり無関係である』。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称』で、「古事記」「日本書紀」に、既に『「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ』、『陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ』、これは彼らが日常的に『穴に籠る様子から』(竪穴式か穴居住居を作ったか)『付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山』(やまとかつらぎさん)『にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある』。「日本書紀」では、『吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている』。「古事記」に『おいても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。「肥前国風土記」には、『景行天皇が志式島(ししきしま』。『現在の平戸南部地域)に行幸した際』、『海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。「豊後国風土記」にも、『五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている』。『この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』とあった。
「日本書紀」の記述でも景行天皇十二年冬十月、『景行天皇が 碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が』二人『住む。名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が』三人『おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら』五人『は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』とある。その後、『時代を経るに従い、土蜘蛛は妖怪として定着してい』き(まつろわぬ民や彼らの信仰した神の零落と妖怪化である)、『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれる』ようになった。頼光とその部下四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部(うらべ)季武)らによる、丹波国大江山での酒呑童子討伐に並ぶ土蜘蛛退治の話は以下(同じくウィキの「土蜘蛛」より引いた)。十四世紀頃に書かれた「土蜘蛛草紙」では、『京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは』千九百九十個もの『死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに』約二十個の『小さな髑髏があったという』。「土蜘蛛」の話は諸説あり、「平家物語」では『以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ』、身長七尺(約二・一メートル)の『怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには』全長四尺(約一・二メートル)の『巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた』。『この土蜘蛛の正体は、前述の神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったと』されており、この説話が後の謡曲「土蜘蛛」を生んだとされる。『一説では、頼光の父・源満仲は前述の土豪の鬼・土蜘蛛たちの一族と結託して藤原氏に反逆を企んだが、安和の変の際に一族を裏切って保身を図ったため、彼の息子である頼光と四天王が鬼、土蜘蛛といった妖怪たちから呪われるようになったともいう』。『京都市北区の上品蓮台寺には頼光を祀った源頼光朝臣塚があるが、これが土蜘蛛が巣くっていた塚だといい、かつて塚のそばの木を伐採しようとしたところ、その者が謎の病気を患って命を落としたという話がある』。『また、上京区一条通にも土蜘蛛が巣くっていたといわれる塚があり、ここからは灯籠が発掘されて蜘蛛灯籠といわれたが、これを貰い受けた人はたちまち家運が傾き、土蜘蛛の祟りかと恐れ、現在は上京区観音寺門前町の東向観音寺に蜘蛛灯籠が奉納されている』とある。
「二更」「にかう」。亥の刻に相当。午後九時~午後十時以降の二時間。
「四更」「しかう」。丑の刻に相当。午前一時~午前二時以降の二時間。
「二尺八寸」八十五センチメートル弱。
以上は「狗張子」の「巻之七」の「二 蜘蛛塚のこと」。所持する一九五〇年現代思潮社刊の新字現代仮名遣ダメテクスト「狗張子」参考に正字に正仮名に直した(一部に読みを追加した)。二枚の挿絵も添えておく。底本では直接話法が二行に及ぶ場合、一字下げとなっているが再現していない。
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二 蜘蛛塚のこと
むかし諸國行脚の山伏覺圓(かくえん)といふ者あり。紀州熊野に參籠し、それより都にのぼり、まづ淸水寺に詣でんとす。五條鳥丸(からすま)わたりにて日ようやく暮れたり。ここに大善院とて大きなる寺院あり。覺圓幸ひなりと寺僧に請ふて一夜をあかさんとす。寺僧すなはち相ひ許して、堂の傍(かたはら)なるいかにも汙(きたな)き小屋を借しけり。覺圓大きにいかりて、
「一夜ばかりの宿、僧徒の身としてこの修業者に、かかる不德心は何事ぞや。」
といふ。寺僧打ち笑ひて、
「これ全く修業者を侮るにはあらず。實(まこと)はこの本堂には、年久しく妖(ばけもの)ありて住めり、凡そ三十年の内三十人、その死骸さへ見えず。この故に本堂をば借さず。」
という。覺圓聞きて、
「何條(なんでふ)左樣の事あらん。それ妖(えう)は人によりて起るといへり。あにこの知行兼備の行者を犯す事あらんや。」
と、寺僧は再三諫(いさ)むといへども、あえて用ひざれば、やむことをえずして本堂の戶をひらき、あらましに掃除して誘(いざな)なへば、覺圓しづかに佛禮(らい)し念誦して、心を澄まし坐しゐたり。然れども彼(か)の寺僧の詞(ことば)の末おぼつかなく思ひ、腰の刀を半ばぬき出(いだ)し、柄を手に持ちながら眠りゐるところに、夜(よ)すでに二更に及ぶ頃、ぞつと寒くなり、堂内しきりに震動して、風雨山をくずすがごとし。その間に天井より大きなる毛生(けお)いたる手をさし出し、覺圓が額をなづ。則ち持ちたる刀をふりあげ丁(てう)どきる。物にきりあてたる聲ありて、佛壇の左のかたにおつ。夜まさに四更にいたる頃、またさきの手をさしのぶ。この度(たび)もすかさず刀をふり上げてはたときる。やうやく夜あけて、寺僧心もとなく思ひたづね來(きた)る。覺圓前夜の樣子をかたるに、寺僧奇異の思ひをなし、急ぎ佛壇の傍(かたはら)を見るに、大きなる蜘蛛死してあり。長さ二尺八寸許(ばか)り、珠眼(しゆがん)圓大(えんだい)にして爪に銀色あり、寺僧ますます驚き、堂の傍(わき)にこれをほりうづめ塚(つか)を築(きづ)きぬ。且つまた此山伏の行德いちじるしきことを感じて、暫く此所(ここ)にとどめ、一通の祭文(さいもん)を書かしめ、かの塚を祭り、再び妖怪なからんことを祝(しゆく)す。なほ今に到るまでその塚ありて、蜘蛛塚(くもづか)といふとかや。
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小泉八雲の書いた「化け蜘蛛」はこの話によつたものではないが、筋道は大體似てゐる。舞臺は田舍の化物寺で、こゝには誰一人住む者もなく、退治に行つた士達も皆歸つて來ない。或時度胸があつて拔け目のない士が一宿すると、夜中頃に先づ身體が半分で目が一つといふ化物が出、次いで三味線を彈く坊主が現れた。坊主はこの寺の和尙だと稱し、一曲所望と云つて三味線をさし出した。士は用心深く左手で摑んだが、三味線は大きな蜘蛛の巢に變り、坊主は忽ち化け蜘蛛になつた。左手が蜘蛛の巢に絡まれたのを知つた士は、刀を拔いて蜘蛛に斬り付け、手傷を負はせた。けれどもあとからあとからと出る蜘蛛の絲に卷き込まれて、身動きが出來なくなつた。翌朝樣子を見に來た人によつて士は助け出され、血の痕を辿つて庭の穴に呻吟する蜘蛛を退治した。――この最後のところは賴光の土蜘蛛とほゞ同樣である。
[やぶちゃん注:これは長谷川武次郎が刊行した「日本昔噺シリーズ」(Japanese Fairy Tale)の中の明治二二(一八九九)年刊行の「化け蜘蛛 」(The goblin spider)である。こちらで画像で読める。必見!]
「耳囊」にある蜘蛛の怪は、それほど恐ろしいものではなかつた。吟味方改役の西村鐡四郞が駿州原の本陣に止宿した晩、夜中にふと目をさまして床の間を見ると、鏡のやうに光るものがある。驚いて次の間の若黨に聲をかけたので、早速起きて來たが、屋内の灯は悉く消えてゐる。若黨も光り物を見て大いに驚き、灯をつけようなどとあわてるうちに、亭主が灯を持つて出た。光り物の正體は一尺餘りの蜘蛛であつたから、皆で打ち殺し、匆々外へ掃き出した。ほどなく湯殿の方に恐ろしい物音がしたので行つて見たら、何者か戶を打ち倒して外へ出た樣子で、二寸四方ぐらゐの蜘蛛のからびたのがそこにあつた。兩者同物であつたのか、よくわからぬと書いてある。人の少い、廣い宿だつたさうである。
[やぶちゃん注:私の電子化訳注「耳囊 卷之六 蜘蛛怪の事」でどうぞ!]
妖怪然たるかういふ蜘蛛の外にも、まだ恐るべきものが棲息したらしい。「中陵漫錄」に九州の人から聞いたとして掲げてゐるのは、大風に漂流して南海の小嶋に吹き寄せられた時、大きな蜘蛛が海岸から來て、白い綿のやうなものを舟に投げ付ける。舟の引かれること、繩で引くよりも甚しかつたので、皆腰刀を拔いて切り拂ひ、急いで立ち退いたとある。「中陵漫錄」はこゝで「香祖筆記」を引き、海蜘蛛は大きさ車輪の如く、その絲に絡まれゝば、虎豹と雖も脫することが出來ぬ、と云つてゐる。もしこんな蜘蛛に出遭つたとしたら、その恐ろしさは化け蜘蛛に讓らぬであらう。
[やぶちゃん注:「香祖筆記」清朝初期の詩人として王漁洋の名で知られる王士禎(一六三四年~一七一一年)の一七〇二年作の随筆。
以上は「中陵漫錄」の「卷之一」の「海蜘蛛」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。
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○海蜘蛛
筑紫の海人相傳て云、大風に乘じて南海に漂流して一小島に倚るに、大なる蜘蛛海岸より來て、白き綿のごとくなる物を擲て舟に當て引付る。舟の引る事、索にて引より甚だし。皆驚て腰刀を拔て切拂て其處を去ると云。今案るに、香祖筆記曰。海蜘蛛生二奥海島中一。巨若二車輪一。文具二五色一。糸如二絙組一。虎豹觸ㇾ之不ㇾ得ㇾ脫。斃乃食ㇾ之。是れ乃ち此ものなり。
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南海の嶋ばかりではない。甲州の話を集錄した「裏見寒話」にも、中郡邊の淵で釣りをしてゐると、大きな蜘蛛が水中より現れて、その男の足許に來ては、また水に入る。最初は何も氣が付かなかつたが、ふと煙管を取らうとして足を探つたら、左足の親指を蜘蛛の絲が七重八重に絡んで居つた。大いに驚き、その絲を取つて側にあつた柳の古殊に卷き付けて置いたところ、忽然水上に浪が起り、その切株を水底に引込んでしまつた、といふ話がある。この句もも人を食ふ性質のものであるらしい。
[やぶちゃん注:これは本邦で広汎に存在する池化け蜘蛛譚の典型。私の住まう鎌倉の源平池にさえあるポピュラーなものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(左ページ中央やや後)で視認出来る。]
蜘蛛の恐ろしいのは八本の足と銳い毒牙の外に、魔性の絲より成る網を縱橫に振りかける點にある。賴光を惱ました土蜘蛛が已にこの手を用ゐたので、今なほ舞臺にその面影をとゞめてゐるが、化け蜘蛛たると水蜘蛛たるとを問はず、多くは人間に對し網をかけることを忘れてゐない。「狗張子」の覺圓も「耳囊」の西村鐡四郎も、最初からこれで臨まれたら、命を取られてゐたかも知れぬ。いきなり大きな手をさし伸べたり、床の間の光り物になつたりしたのは、蜘蛛の方が不覺であつた。
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