小穴隆一「二つの繪」(54) 『「羅生門」の一册』
「羅生門」の一册
私のところにある芥川さんの本は、芥川さんから貰つたり、本屋さんから貰つたりしたものばかりで、買つたといふのは、大正六年に、阿蘭陀書房が出版した、羅生門の一册、それきりです。芥川さんの本は、いろいろな形で、あちこちから、隨分と出てゐて、私のところにあるのだけでも、積重ねれば、背丈を越えてゐます。が、そのなかで、私は羅生門が、――大道の古本屋にあつたのを、三十年の昔、五十錢で買つたこの羅生門の一册が、そのなかのどれよりも、一番なつかしいのです。
今日、芥川さんの本として、珍重すべき點から申しますと、同十四年に、新潮社が出版した、現代小説全集の第一卷である、芥川龍之介集を、あげなければならぬのかもしれません。これには、お時儀のところですが、五百八十三頁の第一行、お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠の帽子をかぶつてゐる。のところの、いつもの次ぎに、銀鼠の外套に、の六字、十四行目、もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすればこの場合は、の、ばとこの間に、ダッシュを、芥川さんの手で、書きいれてあります。大正十五年四月十五日に、自決すると私に告げた、後のことでありますが、芥川さんが私のゐたアパートにきて、部屋にはいるなり、君、龍之介集を一寸といふので、とりだして渡すと、ペンをとつて、この書きこみをして、全集のときに訂正を、といつてゐたものです。それで、本來ならば、今日、この本のはうが、羅生門よりは芥川さんを身近かにかんじられさうなものなのですが、中扉に、君看ずや雙眼の色、語らずして愁ひ無きに似たり、次の紙には、夏目漱石先生の靈前に獻ずと刷つてある、阿蘭陀書房版の羅生門のはうが、私には、芥川さんの呼吸を身近かにかんじられてなつかしいのです。
一昨年の秋、私はたまたま昔の阿蘭陀書房、即ち今日のアルスの北原鐡雄さんに、あなたはうちで出した芥川のものを持つてゐるさうですねえ、といはれて、その北原さんに、羅生門を出されたのは、あなたのおいくつのときでしたと申しましたが、北原さんの年齡、それは必ずしも羅生門のためばかりのわけではなく、芥川さんの始めと終りの二度、芥川さんが生涯で一番元氣であつた時と、おそらくはその中間を空白でゐて、また、一番へこたれてしまつてゐた時とに會つてゐる、北原さんのまはりあはせを承知してゐて、その年齡をたづねたのですが、それはそれとしておきまして、北原さんのさつぱりとした昔話は、少くとも、羅生門出版の由來については、淡々として話をされてゐたが、その因緣は全くもつて初耳のことでありましたから、今日はそれを一寸、みなさんに、お傳へ致しておかうと思ひます。
芥川さんの處女出版、羅生門は、芥川さんが數へ年二十六の時のものであります。北原さんは、その時二十七であつたさうです。北原さんの話では、私はそのときまで、芥川といふ名さへ知らなかつたものです。私は與謝野鐡幹から、今度、芥川といふめづらしい小説を書く男がでた。是非その男の本を出すやうにといふ手紙を貰つて、その鐵幹の手紙で田端に行つて芥川に會つたものですといふ、まことにあつけない話でありますが、鐡幹與謝野寛(ひろし)の手紙でもつて、芥川さんの處女出版が、阿蘭陀書房の手で行はれたといふことは、文壇のふるい人達にも、いや、死んでゐる芥川さんにとつてさへ、存外、初耳のことではなからうかと思はれるのであります。但し、この話には、話をありのままに聞かせてくだすつた、北原さんのためにも、どうか、當時の文壇といふもの、また本屋といふもの、また、北原さんが、その兄さんの北原白秋のために、本屋を志されたのかと思はれる人で、當時は歌や詩のほうの本を主に出してゐて、小説本の出版は頭になかつたらしい點をも、お考へにいれておいていただきたいものです。
羅生門についての、北原さんのあつけないこの話は、芥川さんの現はれかたが、如何にめざましくあつたかといふことの説明にもなりませうが、なほつけ加へて申述べますと、私は北原さんが鐡幹の手紙で芥川さんを田端に訪ねたといふことを聞いて、ひそかに、鐡幹の手紙ならば、それは、スゴかつたらうといふ、面白さをかんじたのであります。と申しますのは、私は以前、伊上凡骨といふ奇骨ある彫師、木版のです。その凡骨の伜に、與謝野先生はこれこれしかじかの事をされたといふが、それは本當の事でせうかと、その眞僞を正されたことがあるからであります。事の眞僞は、鐡幹その人に全く會つたこともない私には、答へやうのない意外な話であつたのですが、凡骨の伜は、與謝野さんが、若い時に所謂志士としてあるところで活躍したその昔話を、凡骨に聞かせた、聞かされた父の凡骨がまた家の者にそれを傳へたのを、こどもの時に小耳にしてゐたが、後に與謝野さんに接してみると、その面差からは、與謝野さんが左樣なはげしい眞似をされたとは思はれぬのがふしぎで、私にたづねてゐたものです。ともあれ、鐡幹與謝野寛が、たのまれもせぬであらうに、芥川さんの小説本を出版するやう、北原さんに手紙を書いてゐたといふことは、大層面白いことでありませう。與謝野一派の雜誌であつた「明星」の表紙の文字は伊上凡骨の彫りと思つてをりますが、この凡骨には、私も芥川さんのものの本のときには、厄介をかけてをりましたものです。
今日の話はこの邊で終りますが、夏目漱石先生の靈前に獻じたその最初の本の羅生門の扉に、君看ずや雙限の色、語らずして愁ひ無きに似たりといふことばをはさみ、さうして、漱石先生の書いた風月相知るの額を座敷にかかげてゐた、數へ歳二十六の芥川さん、三十六歳で漱石先生のその風月相知るの額の前にうなだれて自決を告白するあはれさのなかにも、なほ、恥ぢるのは、夏目先生に對してだけであるといつてゐた芥川さんの面目を知つてゐて、その作品を讀まれたいと思ひます。
阿蘭陀書房版の羅生門には、無限のなつかしさがあるのであります。
(ラジオ東京にて)
[やぶちゃん注:最後の「(ラジオ東京にて)」は底本では二字上げ下インデント。なお、ここに記されている芥川龍之介処女作品集「羅生門」出版秘話はまさに秘話近いもので、必ずしも研究者間の周知の事実話ではないものと思われる。例えば、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項の作品集「羅生門」にはこうした事実は一切、記載がないことを見ても明らかである。
「お時儀のところですが、五百八十三頁の第一行、お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠の帽子をかぶつてゐる。のところの、いつもの次ぎに、銀鼠の外套に、の六字、十四行目、もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすればこの場合は、の、ばとこの間に、ダッシュを、芥川さんの手で、書きいれてあります」これはまず前者は「お時儀」(初出は大正一二(一九二三)年十月発行の『女性』で、初出時の題名は「お時宜」。後に作品集「黃雀風」(こうじゃくふう:芥川龍之介第七短編集。大正一三(一九二四)年七月新潮社刊)及び「芥川龍之介集」(ここで小穴隆一が問題にしている、大正十四年四月一日新潮社刊の「現代小説全集」の第一巻である)に「お時儀」の題で収録された)の形式段落第三段目で、現行では(底本は岩波旧全集を用いたが、読みは振れそうな一部に留めた。全文は「青空文庫」のここで読めるが、これは新字新仮名であり、しかも一部の本文表記に問題があり(漢字が平仮名化されてしまっていたり、ルビが誤っていたりする)、到底、芥川龍之介の正統な電子テクストとは言えない代物である)、
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お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠(ぎんねずみ)の洋服に銀鼠の帽子をかぶつてゐる。背は寧ろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしてゐる。殊に脚(あし)は、――やはり銀鼠の靴下に踵(かゝと)の高い靴をはいた脚は鹿の脚のやうにすらりとしてゐる。顏は美人と云ふほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公(ぢよしゆじんこう)に無條件の美人を見たことはない。作者は女性の描寫になると、大抵「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか斷つてゐる。按ずるに無條件の美人を認めるのは近代人の面目(めんぼく)に關(かゝは)るらしい。だから保吉もこのお孃さんに「しかし」と云ふ條件を加へるのである。――念の爲にもう一度繰り返すと、顏は美人と云ふほどではない。しかしちよいと鼻の先の上つた、愛敬(あいきやう)の多い圓顏(まるがほ)である。
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となっている。底本後記にもこの部分については全集が底本とした「黃雀風」ではなく、初出に従った旨の記載がある。後者はその次の次、形式段落五段目で、現行では、
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保吉はお孃さんの姿を見ても、戀愛小説に書いてあるやうな動悸などの高ぶつた覺えはない。唯やはり顏馴染みの鎭守府司令長官や賣店の猫を見た時の通り、「ゐるな」と考へるばかりである。しかし兎に角顏馴染みに對する親しみだけは抱いだいていゐた。だから時たまプラットフォオムにお孃さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、――それさへ痛切には感じた譯ではない。保吉は現に賣店の猫が二三日行くへを晦(くら)ました時にも、全然變りのない寂しさを感じた。もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすれば、――この場合は聊か疑問かも知れない。が、まず猫ほどではないにしろ、勝手の違ふ氣だけは起つた筈である。
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と、芥川龍之介が小穴のところで書き入れたのに加えて前に読点も打たれた形になっている。しかし底本後記にはこの箇所の注記が全くないから、こちらは芥川龍之介が「黃雀風」ではそうしたのにも拘わらず、「芥川龍之介集」の版組の際に落ちてしまったものを、芥川龍之介自身が見落としたものと考えねばならぬ。これらを見ると、芥川龍之介は再録されるものは校正段階では必ずしも綿密に見ていなかったことが判るが、原稿催促に四苦八苦していた彼とすれば、むべなるかな、ではある。
「北原鐡雄」(明治二〇(一八八七)年~昭和三二(一九五七)年)は北原白秋の弟で出版人。写真や文学を専門とする出版社「アルス」を設立して代表を務めた。参照したウィキの「北原鉄雄」に『アルスは北原白秋の作品も出版した』とある。ウィキの「アルス(出版社)」他によれば、『アルス(ARS)は、かつて日本に存在した出版社で』、社名は『ラテン語で「芸術」の意。前身は白秋・森鷗外・上田敏を顧問に迎えて大正四(一九一五)年に創立した『和蘭陀書房で、雑誌『ARS』を刊行していた』。大正六(一九一八)年に『社名をアルスとし』た。『主として文学書や美術書を出版。戦前・戦後に渡って代表的なカメラ・写真専門誌であった月刊「カメラ(CAMERA)」を発行したことでも知られる。またアルスを退社した北原正雄(鉄雄らのいとこ)は玄光社を興し、斎藤鵠兒編集による『写真サロン』を創刊』、「アルス最新写真大講座」などの講座シリーズも刊行している。昭和二(一九二七)年から『刊行された「日本児童文庫」シリーズが、菊池寛企画の興文社刊行「小学生全集」と競合し、訴訟・中傷合戦となったことでも知られている』。『戦時中の出版統制により、アトリヱ社(代表者は四男』(鉄雄の弟)『の北原義雄)と合併して、北原出版株式会社となった。戦後は社名をアルスに戻し、美術雑誌「アトリヱ」を復刊』させている、とある。なお、作品集「羅生門」刊行時(大正六(一九一七)年五月二十三日)の北原鉄雄の年齢(芥川龍之介より五歳年上)は満三十一歳である。
「伊上凡骨」既出既注。
「與謝野さんが左樣なはげしい眞似をされた」思うにこれは、乙未事変(いつびじへん:閔妃殺害事件(李氏朝鮮第二十六代国王高宗の王妃であった閔妃が一八九五年十月八日に三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊・領事館警察官・日本人壮士(大陸浪人)・朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使らによって暗殺された事件)に当時、朝鮮にいた与謝野鉄幹が関与していたという説を指すものであろう。]
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