柴田宵曲 妖異博物館 「大鯰」
大鯰
豐前國に千丈が瀧といふ大きな瀧がある。この山の觀音堂の前に御手洗の池があつて、橋がかかつてゐる。或夏の晴れた日、この橋上で涼んでゐると、水中から躍り出るものがあるので、何かと思つたら鯰であつた。はじめは先づ頭だけ出し、次いで身體を半分ほど出し、遂に一躍すれば、一尺餘りの鯰が水の上二三尺も飛び上り、いづれへか飛び去つた。不思議な事もあるものだと見てゐるうちに、俄かに山に雲が起り、烈しい風が吹いて來て、雷鳴急雨、天地晦冥となつた。暫くして雨や風の止んだ後は、また平日に變るところもなかつた。
[やぶちゃん注:現在の福岡県嘉麻市泉河内にある「千丈ヶ滝」か。個人ブログ「ぽんぽこ」のこちらに紹介ページがある。但し、観音堂は見当たらない。]
鮭は地の底で地震を起すだけでなしに、こんな放れ業を心得てゐるらしい。この話を傳へた「寓意草」は、小倉あたりでは夏の快晴の日、鯰が十丈ぐらゐの空を飛んで行くことは稀にある、大きなのになれば一丈餘りもあるさうだ、と書いてゐる。たとひ空を飛ばぬにせよ、一丈餘りの大鯰は已に怪異に近い。
[やぶちゃん注:「十丈」「一丈」は三・〇三メートルであるから、約三十メートル上空を飛ぶ三メートルの鯰はエルンストもマグリットもぶっ飛びのシュールだろう。
「寓意草」の当該部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]
「甲子夜話」に見えた琵琶湖の大鯰は恐るべきものであつた。はじめ黑い大きな魚が浮んだのを、何とも知らず銛で突くと、俄かに風濤が起り、湖の上が暗くなつたので、漁夫も恐れて舟を漕ぎ戾した。この事を聞いた漁夫が申し合せ、翌日風をさまり波穩かになるのを待つたところ、昨日と同じ魚が現れた。多くの舟で取り卷き、一度に數十の銛で突き立て、遂にこれを斃したが、水面に浮んだのを見れば、三間餘りの大鯰であつた。大網を以て漸う陸上に引き上げたのを、附近の豪民が買ひ求め、膏を取つたら、實におびたゞしい分量であつた。この腹中に髑髏二つと、小判が八十餘斤あつたのは、嘗て溺死者を食つたものであらう。從來、秋の大時化がある頃には、黑い物が湖中に見えるので、土地の者は黑龍だなどと云つて居つたが、この鯰であることがわかつた。天氣晴朗の日には姿を見せなかつたのに、この年は時候が常と違ひ、地氣に變があつて、水上に浮んだものらしい。文政七年三月の事である。鯰と龍とはあまり共通性がないやうだが、黑龍と見違へられる先生が存在するとすれば、時に空飛ぶ鯰があつても、深く怪しむに足らぬかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「文政七年」一八二四年。
以上は「甲子夜話卷之四十八」の「琵巴湖(びはこ)の巨鰋(おほなまづ)」。以下に示す。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。
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今玆(ここに)三月の末、江州(がうしう)の琵巴湖(びはこ)に巨(おほき)なる黑魚(こくぎよ)浮(うかみ)しを、漁人(ぎよじん)もりにて突(つき)ければ、俄に風濤(ふうたう)起り、湖色冥晦せしまゝ、恐れて舟を馳(はせ)て避還(にげかへ)り、そのことを説く。因(よつ)て數口(すうにん)の漁夫言合(いひあは)せ、その翌日風収(をさま)り波穏(おだやか)なるを待(まち)て窺(うかがひ)しかば、又昨(きのふ)の如く魚現れしを、多の舟取捲(とりまき)て、一度に數(す)十のもりを突(つき)て、乃(すなはち)魚死したり。打寄(うちより)て見るに、三間餘もある老鰋(らうなまづ)なりしと。迺(すなはち)大網(おほあみ)を以てやうやうに陸(くが)に牽上(ひきあげ)たるを、其邊(そのあたり)の豪民(がうみん)買取りて膏(あぶら)をとりしに、夥しき斤兩(きんりやう)を得たりと。鰋(まなづ)の腹中(ふくちう)に髑髏(どくろ)二つ、小判金八十餘片(よへん)ありしとなり。いつの時か溺死の人を食(しよく)せしなるべし。從來秋の頃、大しけする時は黑き物湖中に見ゆるを、土俗これを黑龍なりと云傳(いひつたへ)たり。於ㇾ是(ここにおいて)始(はじめ)てこの鰋(まなづ)なることを知る。これ迄天氣晴朗のとき見へたること無きに、今春時候失ㇾ常(つねをしつし)、世上流行病(はやりやまひ)ありて地氣(ちき)も亦變ありと覺しく、この鰋(なまづ)も時に非ずして浮みたるなるべし〔この頃京都にも、各所の池の鯉鮒等頻(しきり)に水面に浮めり〕。これ時に非ずして出いで)たるより漁人にこそ獲(と)られける。万物ともに數(すう)あることなる当(べし)【林語(はやし、かたる)】。
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鯰の大きさは「三間餘」とあるから五メートル五十センチはあり、異様に巨大であることが判る。最後の割注、「林語」(読みは私の推定)とは松浦静山の知己の儒者、林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)のこと。]
琵琶湖に近い安土にも大鯰の話がある。時代は天正頃といふのだから大分古いが、安土の北を流れる大河の川上に釜ガ淵といふところがあり、十間四方ばかり水が靑み立つて恐ろしく、昔から底の見えたことがない。この淵に網をおろし釣を垂れる者は、必ず淵に引き込まれ、死骸も見えぬといふので、近在の者は恐れて近寄らなかつた。相田五郎太夫、六郎治といふ西國浪人の兄弟、渡世の道につまり、朝夕鐡砲と釣竿で暮してゐたが、或時五郎太夫が倅の五助を連れてこの淵の際を通ると、大きな鯉鮒が無數に居る。こゝは人を取ると云はれて居るけれど、大した事もあるまい、今夜來て釣つて見ようと話し合ひ、夜に入つてひそかに釣りに來た。五郎太夫父子は三間ほど隔てて釣を垂れ、五助は一尺餘りの鯉を二尾釣り上げたのに、五郎太夫の鈎には何もかからぬ。こゝは魚が居らぬのかと竿を上げようとした時、大きな手應へがあつた。どうしても上らぬから、岩にでもかゝつたかと思つて、絲を弛めると、恐ろしい力で引く。遂に引き寄せられて膝まで水に浸り、五助を呼んだが、途端に水が逆卷き上つて、四尺餘りの眞黑な頭が現れ、五郎太夫を銜へて引込んでしまつた。五助馳せ歸つて叔父の六郎治に委細を語り、自害しようと云ふのを六郎治は止め、中陰のうちには何とかして敵を取らうと云ひ聞かせた。三日過ぎた夜、六郎治は五助を伴つて釜ガ淵に赴き、五助は先夜の如く釣を垂れ、自分は四間ばかり上手の岩の間に身を隱し、鐡砲に玉を込めて待ち構へた。五助は大きな鮒を五六尾釣り上げたが、そのうちに竿が動かなくなつた。相圖の咳拂ひをして六郎治に知らせ、自分は次第に水中に引込まれさうになつた時、竿を捨てて刀を拔く。怪物が眞黑な顏を現して飛びかゝるところを、六郎治の一發は見事に命中した。五助も拜み打ちに斬り付ける。大浪しきりに湧き起る中から、再び出た頭に二發目を打ち込む。水の動搖もしづまつたので、その夜は引き揚げ、翌朝早く來て見ると、大きな鯰が白い腹を出して水面に浮んで居つた。頭より尾まで一丈六尺、頭の周圍六尺、鬚の長さ六寸と「御伽厚化粧」に書いてあるが、この鯰は武勇傳でもあり、復讐譚でもある。釜ガ淵の主が大鯰であるなどは、適材適所と云ふべきであらう。
[やぶちゃん注:「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年:ローマ教皇グレゴリウス十三世がユリウス暦を改良してグレゴリオ暦を制定したのは一五八二年)。
「釜ガ淵」不詳。「安土の北を流れる大河」は須田川か、その北の愛知川であろう。
「十間」約十八メートル。
「三間」約五メートル半。
「四尺餘り」一メートル二十一センチ越え。
「四間」七メートル強。
「頭より尾まで一丈六尺、頭の周圍六尺、鬚の長さ六寸」全長四メートル八十五センチメートル、頭部の巡りが一メートル八十二センチ弱、鬚の長さ十八センチメートル。大鯰の名に恥じぬ。
以上は「御伽厚化粧」の「卷之二」の「六、釜淵鯰魚妖怪 附 稻田六郎治同五助鐡砲を以て父兄の敵を討(うつ)事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこことここで視認出来る。]