柴田宵曲 妖異博物館 「人の溶ける藥」
人の溶ける藥
旅商人が越後で大蛇の人を呑み、且つ傍らの草を舐めると、膨れた腹が忽ちもとのやうになるのを見、その草を摘んで歸る。江戸へ歸つてから、蕎麥を五六十食べると云ひ出して賭になる。二十五ばかり食べたところで廊下に出して貰ふ約束で、ひそかにその草を嘗めたのはいゝが、元來人を溶かす藥であつたので、蕎麥が羽織を著て坐つてゐたといふ落語がある。
[やぶちゃん注:この落語は一般に江戸落語では「そば清(せい)」と呼ばれるもので、蕎麦を手繰る音が極め付けの私も好きな演目である。別名を「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」などとも称する。ウィキの「そば清」よりシノプシスを引く。江戸の『そば屋で世間話をしている客連中は、見慣れぬ男が大量の盛りそばを食べる様子を見て非常に感心し、男に対し、男が盛りそばを』二十『枚食べられるかどうか、という賭けを持ちかける。男は難なく』二十『枚をたいらげ、賭け金を獲得する』。『悔しくなった客連中は、翌日再び店にやってきた男に』三十『枚への挑戦を持ちかけるが、またしても男は完食に成功し、前日の倍の賭け金を取って店を出ていく。気の毒がったひとりの常連客が、「あの人は本名を清兵衛さん、通称『そばっ食いの清兵衛』略して『そば清』という、大食いで有名な人ですよ」と、金を奪われた客連中に教える』。『悔しさがおさまらない客連中は、今度は』五十『枚の大食いを清兵衛に持ちかける。清兵衛は自信が揺らぎ、「また日を改めて」と店を飛び出して、そのままそばの本場・信州へ出かけてしまう(演者によっては、清兵衛は行商人として紹介され、信州へ商用で出かけたと説明する)。』『ある日、清兵衛は信州の山道で迷ってしまう。途方にくれ、木陰で休んでいると、木の上にウワバミがいるのを見つけ、声が出せないほど戦慄する。ところがウワバミは清兵衛に気づいておらず、清兵衛がウワバミの視線の先を追うと、銃を構える猟師がいるのが見える。ウワバミは一瞬の隙をついてその猟師の体を取り巻き、丸呑みにしてしまう。腹がふくれたウワバミは苦しむが、かたわらに生えていた黄色い(あるいは赤い)草をなめると腹が元通りにしぼみ、清兵衛に気づかぬまま薮のむこうへ消える。清兵衛は「あの草は腹薬(=消化薬)になるんだ。これを使えばそばがいくらでも食べられる。いくらでも稼げる」とほくそ笑み、草を摘んで江戸へ持ち帰る』。『清兵衛は例のそば屋をたずね、賭けに乗るうえ、約束より多い』六十『枚(あるいは』七十『枚)のそばを食べることを宣言する。大勢の野次馬が見守る中、そばが運び込まれ、大食いが開始される。清兵衛は』五十『枚まで順調に箸を進めたが、そこから息が苦しくなり、休憩を申し出て、皆を廊下に出させ(あるいは自分を縁側に運ばせ)、障子を締め切らせる。清兵衛はその隙に、信州で摘んだ草をふところから出し、なめ始める』。『観客や店の者は、障子のむこうが静かになったので不審に思う』。『一同が障子を開けると、清兵衛の姿はなく、そばが羽織を着て座っていた。例の草は、食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。]
幸田露伴博士が「圏外文學雜談」に記すところに從へば、この話は元祿六年の「散人夜話」に出てゐるさうである。延享五年の「教訓しのぶ草」には、蕎麥でなしに餠になつてゐるといふ。「散人夜話」はどうなつてゐるか、見たことがないからわからぬが、文政三年の「狂歌著聞集」にあるのも牡丹餅であつた。先づ元祿あたりが古いところであらう。
[やぶちゃん注:「幸田露伴」の「圏外文學雜談」は書誌情報さえ未詳。識者の御教授を乞う。
「元祿六年」一六九三年。
「散人夜話」寛文一一(一六七一)年頃に会津藩藩主保科正之に招かれて以後、三代に亙って藩主侍講を勤めた後藤松軒の儒学随筆(kitasandou2氏のブログのこちらの情報に拠る)らしい。
「延享五年」一七四八年。
「教訓しのぶ草」不詳。識者の御教授を乞う。
「文政三年」一八二〇年。
「狂歌著聞集」江戸前期の俳人椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永六(一七〇九)年頃?:京都生まれ。松永貞徳・山本西武(さいむ)門。寛文三年に「茶杓竹(ちゃしゃくだけ)」を著わして安原貞室を論難した。後、大坂で説話作者となった)の説話集。詳細不祥。]
大坂ではこの落語を「蛇含草」と称するさうだが、この名前は落語家がいゝ加減につけたものではない。「子不語」に白蛇來つて雞卵を呑む。然る後樹に上り、頸を以て摩すると、膨れた卵は忽ち溶けてしまふ。そこで戲れに木を削つて雞卵の中に入れ、もとの處に置いたら、これを呑んだ蛇は大いに窘(くる)しみ、遂に或草の葉を取つて前の如く摩擦し、木卵を消し去つた。消化不良の際、その草を以て拂拭するに、立ちどころに癒えざるなしとある。こゝまでは至極無事であつたが、鄰人の背中に腫物が出來た時、食物なほ消す、毒また消すべしといふわけで、煎じて飮ませたところ、この應用は失敗に了つた。背中の腫物は癒えたが、飮んだ人の身體がだんだん小さくなり、これを久しうして骨まで溶けて水になつた。この事が蛇含草といふことになつてゐる。日本でも寛政九年版の「北遊記」に蛇含草の名が用ゐてあるが、これは醫者が難病を治するまでで、身體が溶けるやうな危險はなかつたらしい。
[やぶちゃん注:「蛇含草」「蛇眼草」とも表記する。ウィキの「そば清」より「蛇含草」のシノプシスを引く。『夏のある日。一人の男が甚平を着て友人(東京では隠居)の家に遊びに行ったところ、汚れた草が吊ってあるのを見つける。友人は「これは『蛇含草』と呼ばれる薬草で、ウワバミ(=大蛇)が人間を丸呑みにした際、これをなめて腹の張りをしずめるのだ」と言う。珍しがった男は、蛇含草を分けてゆずってもらう』。『そんな中、友人が火を起こし、餅を焼き始める。男は焼けたばかりの餅に手を伸ばし、口に入れる。友人は「誰が食べていいといったのか」と、いたずらっぽくたしなめ、「ひと言許しを得てから手を付けるのが礼儀だろう。それならこの箱の中に入った餅を全部食べてくれても文句は言わない」と言い放つ。男は面白がり、「それなら、これからその餅を全部食べてやろう」と宣言する』。『男は「『餅の曲食い』を見せよう」と言って、投げ上げた餅をさまざまなポーズで口に入れる曲芸を披露する(「お染久松相生の餅」「出世は鯉の滝登りの餅」といった、滑稽な名をつける)など、余裕を見せるが、ふたつを残したところで手が動かなくなり、友人に「鏡を貸してくれ」と頼む。友人が「今さら身づくろいをしても仕方がないだろう」と聞くと、男は「いや、下駄を探すのだ。下を向いたら口から餅が出てくる」』『長屋に帰った男は床につき、懐に入れた蛇含草のことを思い出して、「胃薬になるだろう」と口に入れてみる』。『その後、心配になった友人が長屋を訪れ、障子を開けると、男の姿はなく、餅が甚平を着てあぐらをかいていた。蛇含草は食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。
「子不語」に載る以上の話は「第二十一卷」の「蛇含草消木化金」である。中文サイトのそれを加工して示す。
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張文敏公有族姪寓洞庭之西磧山莊、藏兩雞卵於廚舍、每夜爲蛇所竊。伺之、見一白蛇吞卵而去、頸中膨亨、不能遽消、乃行至一樹上、以頸摩之、須臾、雞卵化矣。張惡其貪、戲削木柿裝入雞卵殼中、仍放原處。蛇果來吞、頸脹如故。再至前樹摩擦、竟不能消。蛇有窘狀、遍歷園中諸樹、睨而不顧、忽往亭西深草中、擇其葉綠色而三叉者摩擦如前、木卵消矣。
張次日認明此草、取以摩停食病、略一拂試、無不立愈。其鄰有患發背者、張思食物尚消、毒亦可消、乃將此草一兩煮湯飮之。須臾間、背瘡果愈、而身漸縮小、久之、並骨俱化作水。病家大怒、將張捆縛鳴官。張哀求、以實情自白、病家不肯休。往廚間吃飯、入内、視鍋上有異光照耀。就觀、則鐵鍋已化黃金矣、乃捨之、且謝之。究亦不知何草也。
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次の段に書いてある内容が末尾にある。
「寛政九年」一七九七年。
「北遊記」ネット上で見出せる寛政九年板行の勢州山人著「諸国奇談北遊記」(四巻四冊)か。それ以上の書誌などは現在、不明。]
蛇含草は人を溶かすが、それを煎じた鍋は鐡化して黄金となると「子不語」に書いてある。「日陰草」といふ寫本の隨筆は、その成つた時代を詳かにせぬが、外國の事として「子不語」の話の後年を傳へ、煎じた釜が金になつたことまで記してゐる。たゞいさゝか不審なのは、「子不語」が「究むれども亦何草たるを知らざるなり」と云つてゐるこの事に就いて、「いでや此草は金英草とて、鐡を點して金となす草也、されども大に毒草也、馬齒莧に似て紫なる草也となり、見知ておくべき物也」などと知識を振𢌞てゐる一事である。尤も「子不語」は背瘡の患者に與へたのに、この書は「腹脹をやめる人」となつてゐるから、兩者の間にもう一つ記載があり、「日陰草」はそれによつて書いたものかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「日陰草」現在の秋田県能代の住吉神社別当を勤めた修験者で国学者の大光院尊閑(たいこういんそんかん 慶安四(一六五一)年~元禄一四(一七三七)年:役 尊閑(えき(えん?)のたかやす)とも称した)の著に同名の書があるが、それか。
「金英草とて……」以下の叙述と酷似する者と思われる内容が、中文(簡体字)サイトのここにある。別称とする「透山根」の方をやはり中文サイトを調べると、ここには誤食すると即死するとある! しかも……写真入り! なんじゃあ、こりゃあ! 柴田じゃあないが、今以ってネットでも「知識を振𢌞てゐる」と言える記載である。
「點して」不詳。ある熱による変化を与えて変性させて、という意味か。
「馬齒莧」音なら「バシケン」或いは「バシカン」であるが、これが現代中国語で、庭の雑草としてよく見かける(私の家の庭にもよく蔓延る)、食用になるナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea のことである。]
蛇含草の名は見えぬけれども、同じ話は「子不語」より古く「耳奇錄」に出てゐる。鹿を呑んだ大蛇が一樹に就いてその實を食ふと、腹中の物は次第に消え去つた。これを目擊した官人が、從者に命じてその葉を採らしめ、家に歸つた後、飽食の腹を減ぜんとして、例の葉を煎じて飮む。一夜明け午になつても起きて出ぬので、布團を剝いで見たら、殘るところ骸骨のみで、餘は水になつてゐた。結局原産地は支那で、林羅山が「怪談全書」に紹介した頃は醫療譚であつたのが、一轉して大食譚になり、遂に蕎麥が羽織を著て坐つてゐる話までに發展したものと思はれる。
[やぶちゃん注:「耳奇錄」不詳。識者の御教授を乞う。
『林羅山が「怪談全書」に紹介した』「怪談全書」は江戸初期の朱子学派の儒者で林家の祖たる林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が出家後の号林道春(どうしゅん)の名で著した中国の志怪小説の翻訳案内書。全五巻。漢字カナ混じり文。ここで柴田が言っているのは同書「卷之二」の「歙客(せふかく)」である。所持する三種の別テクストを校合し、最も読み易い形に私が成形したものを以下に示す。
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歙客(せふかく)と云ふ者、潛山(せんざん)を行き過ぐる時、蛇の腹、腫れふくれて、草の内に這ひ顚(ころ)ぶ。一つの草を得て、之れを咬み、腹の下に敷きて摺りければ、脹の腫れ、消して常の如し。蛇、走り去る。客(かく)の心に此の草は脹滿腫毒(ちやうまんしゆどく)を消(しよう)する藥なりと思ひ取りて、箱の内に入れおく。
旅屋に一宿するとき、隣りの家に旅人有りて、病ひ痛むの聲、聞ゆ。客(かく)、行きて之れを問へば、
「腹、脹りて痛む。」
と云ふ。即(すなは)ち、彼(か)の草を煎(せん)じ、一盃、飮ましむ。暫く有りて苦痛の聲なし。病ひ、癒えたりと思へり。
曉(あかつき)に及びて水の滴(も)る聲、有り。病人の名を呼べども答へず。火を曉(とも)して是れを見れば、其の肉、皆、融けて水と成り、骨許(ばか)り殘りて床(ゆか)に有り。客(かく)驚き周章(あはて)て、未明に走り行く。
夜明けて、亭主、之れを見て、其の故(ゆゑ)を知らず。其の殘る所の藥の入れたる釜、皆、黃金(わうごん)となる。不思議の事也。潛(ひそか)に彼(か)の人の骨を埋(うづ)む。
年を經て、赦(しや)を行はれければ、彼(か)の客(かく)、皈(かへ)り來つて、此の事を語る。故に、世人、傳へ聞けり。【「春渚記聞」に見えたり。「本草綱目」に「海芋(かいかん)」と云ふ草を練りて黃金(わうごん)に作ると云へり。此の草の事にや。】
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この最後の割注に出る「春渚紀聞」(現代仮名遣「しゅんしょきぶん」)は宋の何子遠(かしえん)の小説集で、同書の「卷十記丹藥」の「草制汞鐵皆成庚」を指している。以下に中文サイトより加工して示す。
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朝奉郎劉筠國言、侍其父吏部公罷官成都。行李中水銀一篋、偶過溪渡、篋塞遽脱、急求不獲、即攬取渡傍叢草、塞之而渡。至都久之、偶欲求用、傾之不復出、而斤重如故也。破篋視之、盡成黃金矣。本朝太宗征澤潞時、軍士於澤中鎌取馬草、晚歸鎌刀透成金色、或以草燃釜底、亦成黃金焉。又臨安僧法堅言、有歙客經於潛山中、見一蛇其腹漲甚、蜿蜒草中、徐遇一草、便嚙破以腹就磨、頃之漲消如故。蛇去、客念此草必消漲毒之藥、取至篋中。夜宿旅邸、鄰房有過人方呻吟床第間。客就訊之、云正爲腹漲所苦。卽取藥就釜、煎一杯湯飮之。頃之、不復聞聲、意謂良已。至曉、但聞鄰房滴水聲、呼其人不復應、卽起燭燈視之、則其人血肉俱化爲水、獨遺骸臥床、急挈裝而逃。至明、客邸主人視之、了不測其何爲至此、及潔釜炊飯、則釜通體成金、乃密瘞其骸。既久經赦、客至邸共語其事、方傳外人也。
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「本草綱目」の「海芋」は中文ウィキソースの「本草綱目」の「草之六」に「1.51 海芋」として載る。そこには先に出た「透山根」が附録として掲げられ、その中には「金英草」も出、やはり両者がごく近縁種であることが確認出来、しかもやっぱり『大毒』とある。]