小穴隆一「鯨のお詣り」(73)「一游亭雜記」(4)「金田君と村田少將」
金田君と村田少將
醫學士金田君は、高等學校時代に、弓で鳴らしたものだといふのが蒔淸(まきせい)の話である。
[やぶちゃん注:「金田君」不詳。
「蒔淸」遠藤古原草。]
然し彼金田君に於いては、一日(にち)、庭木に猫を吊るして矢を放つたところ、如何(どう)間違つてか、猫は繩からはなれて金田君よりも死物狂(しにものぐる)ひに金田君に飛びついてきた。それで、弓術名譽の彼が無慙(むざん)にも、目をつぶつてめくらめつぱうに地蹈鞴蹈(ぢたんだ)んで、弓で地べたを叩きまはつてゐた。と、告白してゐる。
爾來十數年、人には怖ぢぬ金田君の猫をこはがることこれはまた尋常ではない。であるから僕は、もし金田君との喧嘩ならば猫を連れてゆかうとひそかに思つてゐる。
玉突場がへりの途(みち)で蒔淸から聴いた話である。
――村田少將は、あの村田銃のさ、金田は一度弓道部の學生として、少將の家に行つたさうだ。金田のことだから例の調子でしやべりたてたことだらう。とにかく村田少將、キユーを手にしてゐたのださうだがね、撞球(どうきう)の數學的であり且つまた全身にわたる運動である所以(ゆゑん)を盛んに説いてゐたさうだ。それからそのその頃弓銃(きうじう)の考案をやつてゐて、障子を明けると書割のやうに正面に的場(まとば)が出來てゐたといふが、それを珠臺(たまだい)のこつちから射(う)つてみせて弓銃の效能を述べてゐたさうだ。
僕の玉は? 僕は中學で幾何(きか)では零點(れいてん)を貰つたことがあるのである。おまけに中年(ちうねん)隻脚(せききやく)となつてしまつた。到底村田少將のやうなわけにはゆかん。
勝負は氣合(きあひ)ものときめてゐる。
[やぶちゃん注:「村田少將」「あの村田銃の」旧薩摩藩藩士で日本陸軍軍人の村田経芳(天保九(一八三八)年~大正一〇(一九二一)年)。明治一三(一八八〇)年に最初の国産銃である十三年式村田銃を開発した人物。
「キユー」ビリヤード(billiards)のキュー(cue)。
「弓銃」所謂、洋弓、クロスボウ(crossbow)のことか。]
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