小穴隆一「鯨のお詣り」(8) 「龍之介先生」
龍之介先生
龍之介先生の顏――岡本一平の子供が書いた似顏は、首相加藤友三郎とちやんぽんだ。
小説の事はいはずもがな、支那で六圓に買つてきた古着を、坪(つぼ)何兩いふ品と泉鏡花に思込ませた人だ。
不思議によく猿股を裏がへしに着けてゐる。
顏を寫す時、西洋の文人、自分の一家一族の人の寫眞に至るまでどつさりみせて、やつぱり立派に畫(か)いて呉れと言つた。
常常、君、女子(ぢよし)と小人(せうじん)はなるたけ遠ざける方がいいよ、と言つてゐる。
又、僕(ぼ)かあ、君、いつなんどきどういふ羽目で妻子を捨てないともかぎらないが、やつぱり仕舞にやしつぽを卷いて、すごすごおれが惡るかつたから勘辨して呉れつて女房のところに、しつぽをふつて歸つてくるなあ、と高言してゐる。
私(わたし)の知らないうちに、橫山大觀に自分の弟子になれと口説(くど)かれてゐた。
君、僕(ぼ)かあ十六歳の頃まで燐寸(マツチ)をする事が出來なかつたものだから、僕の方の中學は三年から發火演習があつて鐡砲を擔(かつ)がせるんだぜ、(その時は弱つたらうな。)否(いや)、僕(ぼ)かあ何時(いつ)も小隊長だつたから洋刀(サーベル)を持つてゐたんだが、大體僕(ぼく)は利口だからそれとなく何時も部下に火をつけさせてゐたんだよ。
右足(うそく)脱疽で私が二度目に踝(くびす)から切られる時の立會人――骨を挽切(ひきき)る音の綺麗さや、たくさんの血管を抑(おさ)へた氷(つらら)の樣に垂れたピンセツトが一つ落ちて音をたてた事や、その血管が内に這入(はい)つて如何(どう)なつたか心配だつた事や、みんな話してくれた人だ。
[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年中央公論社刊(新書判)「二つの繪」の「龍之介先生」の原型。異同は総ルビであること(「二つの繪」は本章だけでなく全篇通じて殆んどルビがない)以外は、以下の四箇所((鯨)=本篇・(二)=「二つの繪」・「【×】」(存在しない))。
《第一章》(鯨)「岡本一平の子供が書いた似顏」→(二)「岡本一平が書いた似顏」《誤記訂正。後注参照》
《第二章》(鯨)【×】→(二)末尾の句点の後に「(坪トハ錦繡、古渡リ更紗ナドニ、一尺四方、又ハ一寸四方ナルヲイフ)」《語注風の追記》
《第六章》(鯨)「私の知らないうちに」→(二)「知らないうちに」《「私の」を附加》
《第七章》(鯨)「(その時は弱つたらうな。)」→(二)「(その時は弱つたらうな、)」《句点を読点に変更》
なお、最初なので示したが、以後では、この全体の異同表は示さない(改変によって内容面での大きな違いが生じているものについては、各個注で示す)。リンク先の私の電子テクストと対照されたい。
また、今回、この総ルビに近い本書を読んで気づいたことであるが、芥川龍之介は親しい間柄では「僕は」を「ぼかあ」と発音していた可能性がすこぶる高いということを知ることが出来ると思う。
「岡本一平の子供が書いた似顏」これでは岡本太郎としか読めないが、父岡本一平の誤り。本書が刊行された昭和一五(一九四〇)年と同時期、パリで既に画家として活躍していた岡本太郎は二十九歳であったが、ドイツのパリ侵攻を受けて日本へ帰国、滞欧中に描いた「傷ましき腕」などを二科展に出品して受賞、個展も開いて飛ぶ鳥を落とす勢いであったから、小穴隆一、筆が辷ったものであろう。芥川龍之介自死の昭和二(一九二七)年当時でも岡本太郎は未だ十六歳で、慶應義塾普通部の生徒であった。大正一二(一九二三)年八月の鎌倉の平野屋での避暑の際、岡本一平・かの子夫妻と一緒になっているから、この時、太郎とは逢っているはずであるが(「二つの繪」の「鎌倉」を見よ)、その時は十二歳であった(慶應義塾幼稚舎在学中。但し、不登校で、殆んど通学していない)。ここで追加注しておくと、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項「岡本かの子」(一平の独立項はない)のコラム「岡本一平」によれば、かの子は大正六(一九一七)年から面識があり(但し、当時は一平の妻或いは歌人としてである)、大正九(一九二〇)年の初頭に『自作の閲読を芥川に乞うたが、芥川からは返事がなかった。当時』、『新聞や雑誌に漫文・漫画を書きまくっていた一平が、芥川のプライヴァシイ(性病に犯されたこと)』(事実、芥川龍之介が淋病に罹患していた可能性は高い。大正八(一九一九)年八月に金沢八景に遊んだ折り、田中病院に風邪のためと称して入院しているが、これは実際には少なくとも、性病を検査するための入院であったことが判っている。小穴隆一も「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」で、『芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐる』とある)『を文壇風刺画で書きたてたことにより、芥川の不興と警戒心を買ったためという。かの子は落胆し、閲読を乞うことは諦めた』と記す。かの子の代表作で事実上の小説家デビュー作で、まさに平野屋での芥川龍之介をモデルとした「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年信正社刊)の中にも、『先年主人が戲畫に描いて氏を不愉快にしたのも』『文學世界の記者川田氏が材料を持つて來たのであるが、その後も氏が支那旅行から持ち越した病氣が氏をなやませ續けてゐる噂もまんざら噓では無いらしい』と記している。]