柴田宵曲 妖異博物館 「手を貸す」
手を貸す
忙しい時に人手を借りるのは普通の話で、昔の人は猫の手も借りたいなどとよく云つたものだが、さういふ一般的な意味でなしに、實際に手を借りる話が二つある。
「耳囊」に見えてゐるのは、小日向邊住む水野家の祐筆を勤める者が、或日門前に出てゐると、通りかゝつた一人の出家が、今日はよんどころない事で書の會に出なければならぬ、あなたの手をお貸し下さい、と云つた。祐筆は更に合點が往かず、手を貸すといふのは如何樣の事かと尋ねたが、別に何事もない、たゞ兩三日貸すといふことを、御承知下されば宜しいのぢや、といふ。怪しみながら承知の旨を答へた後、主人の用事で筆を執るのに一の字を引くことも出來なくなつてゐた。兩三日すると、前の出家がやつて來て禮を述べ、何も御禮の品もないからと云つて、懷中から紙に書いたものを取出し、もし近鄕に火災があつた節は、この品を床の間に掛けて置けば、必ず火災を免れます、と告げて去つた。祐筆の手は元の通りになり、貰つた紙は主人が表具して持つて居つたが、その後度々の火災に水野家はいつも無事であつた。或時藏へしまひ込んで、床の間へ掛ける暇が無かつたら、住居は全部燒失し、怪しげな藏だけが一つ殘つた。
[やぶちゃん注:以上は「耳嚢卷之一」のコーダ百話目の「怪僧墨蹟の事」で、個人的に好きな話柄である。私の電子化訳注でお楽しみあれ。]
「三養雜記」にある祥貞和尙の話は、室町時代の事だから大分古い。順序はほゞ同じで、或時天狗が來て和尙の手を暫く借りたいといふ。手を貸すのはお易い御用だが、引拔いて行かれたりしては困ると答へると、そんなことではない、貸すとさへ云へばそれでいゝのだ、といふ挨拶である。それなら貸さうと云つた日から、和尙の手は縮んで伸びなくなつた。あたりの人々は、和尙の事を手短かの祥貞と呼ぶに至つたが、三十日ばかりしたら、天狗がまた來て、拜借の手はお返し申すと云ひ、火防(ひぶせ)の銅印を一つくれた。和尙の手は忽ち舊に復し、火防の銅印を得たせゐか、和尙の書もまた火防の役に立つと評判された。
[やぶちゃん注:「三養雜記」のそれは、「卷之二」の「天狗の銅印」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣の一部に誤りがあるがそれは底本のママである。
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下野國字都宮のほとりに、東盧山盛高寺といふ精舍あり。第四世を祥貞和尙といひて、永平十一世の法裔、文明、明應のころ、此寺に住職たり。永正八年遷化といへり。さてかの祥貞和尙の手かく技に拙からざりしが、ある時、天狗の來りていへるは、和尙の手をしばしがほど、借うけ申たきよし、達て所望なりと云。和尙こたへていふ、手をかさんことは、いと心やすき望なれど、引ぬきてもち行れんことなどは諾なひがたし。さるのぞみならば、ゆるしたまはれといひけれは、天狗云、さにはあらず。たゞ借すとさえいはゞ、それにてこと足れりといへば、さらば借しまゐらすべしといふに、彼天狗謝してかへりぬ。それより後、和尙の手、いつとなくしゞまりてのびず。さればあたりの人々、和尙を手短の祥貞とあだなしてよびたりとかや。三十日ばかりすぎて、天狗再び來りて、さいつ頃、借申したる手を、返し申よしいひて、火防の銅印一枚を贈りて歸りしとぞ。その後、和尙の手、もとの如くにのびたりといへり。祥貞和尙の書も亦、火防になるよしいへり。この一条は、外岡北海、かの地に遊歷のをりから、きゝたりとて話なり。
且火防の銅印の押たるも、そのころ贈られたり。
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文末にその銅印の印影があるので、トリミングして上に掲げておいた。「永正八年」は一五一一年である。但し、「三養雜記」は江戸時代の随筆家・雑学者であった、かの滝沢馬琴らの耽奇会・兎園会の常連、山崎美成(寛政八(一七九六)年)~安政三(一八五六)年)の、天保一一(一八四〇)年巻末書記の考証随筆なので、勘違いされぬように。]
「耳囊」の出家の正體は何とも書いてないが、「三養雜記」の方は明かに天狗になつてゐる。手を借りられた者が字が書けなくなり、禮にくれるものが火防の役に立つあたり、二つの話は同類項に屬すと見てよからう。人間なら代筆を賴めば濟むところを、實際に能書の人の手を借りて行くのは、人間より自在なるべき天狗の方が、この却つて融通が利かぬらしい。