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2017/02/16

柴田宵曲 妖異博物館 「命數」


 命數

 賣卜者が扇を求め、いつまでこれを持つてゐるかと占つたら、今日中になくなるといふ卦が出た。何でそんな。とがあらうと不審に思ひ、日の暮れるまで面前に開いて、ぢつと見守つてゐたところ、夕飯の支度が出來たと云つて、勝手から頻りに呼ぶ。遂に小童が駈けて來て、開いた扇の上に倒れ、さんざんに破つてしまつた。賣卜者も奇異の思ひをなすと同時に、我ながら占ひの妙を感じた。數の盡くる時に至れば、金城湯池に籠めたものと雖も、これを免れがたい。昔或人が陶の枕で晝寢してゐる顏の上へ、何者かばつたり落ちて來た。驚いて眼を開けば、鼠が天井から落ちたので、こそこそと梁へ這ひ上らうとする。枕を把つて投げ付けたが、鼠には中(あた)らず、枕の方が三つに割れてしまつた。中に數箇の文字が染め付けてあつて、この枕某の紀年に造る、これより幾年を經て、其の甲子鼠に抛つが爲に壞る、と讀めた。陶の枕を抛つなんぞは亂暴な話で、恐らく晝寢の夢をさまされて、意識朦朧たる狀態に在つたものと思はれるが、それも畢竟枕の命數が盡きた爲にさうなつたのであらう。

[やぶちゃん注:「賣卜者」「ばいぼくしや」。金銭を取って占いをするところの辻占を生業(なりわい)としている業者を指す。]

「黑甜瑣語」は物に定數あるを説くのに、この二つの例を擧げた。無生物たる扇や枕がさうであるとすれば、生物の命盡くる期は更に昭々たるものがあるに相違ない。鯰江六太夫といふ笛吹きがあつた。國主の祕藏する鬼一管といふ名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であつたが、何かの罪によつて島へ流された。笛の事は格別の沙汰もなかつたのを幸ひに、ひそかにこの鬼一管を携へ、日夕笛ばかり吹いて居つた。然るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が來て、垣の外に立つて聞いてゐる。雨降り風吹く時は、内に入つて聞くがよからう、と云つたので、その後はいつも入つて聞くやうになつた。或夜の事、一曲聞き了つた童が、かういふ面白い調べを聞きますのも今宵限りといふ。不審に思つてその故を問ふと、私は實は人間ではありません、千年を經た狐です、こゝに私のゐることを知つて、勝又彌左衞門といふ狐捕りがやつて參りますから、もう逃れることは出來ません、といふ返事であつた。そこで六太夫が、知らずに命を失ふならともかくも、それほど知つてゐながら死ぬこともあるまい、彌左衞門が島にゐる間、わしが匿まつてやらう、と云つたけれども、狐は已に觀念した樣子で、こゝに置いていたゞいて助かるほどなら、自分の穴に籠つても凌がれますが、彌左衞門にかゝつては神通を失ひますので、命を失ふと知つても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお禮に、何か珍しいものを御覽に入れませう、と云ひ出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戰の樣子が見たい、と云ふと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戰の場と變じた。一切が消え去つた後、狐は更に六太夫に向ひ、何月幾日には殿樣が松ガ濱へ御出馬になりますから、その時鬼一管をお吹きなさいまし、必ずよい事がございませう、と告げて去つた。彌左衞門の掛けた罠は七度まで外したが、八度目に遂に捕へられた。六太夫は深く狐の事を憐れみながら、教へられた日に鬼一管を取り出して吹くと、この音が松ガ濱の殿樣の耳に入り、それが動機になつて、六太夫は狐の豫言通り召し還された(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:第一段落の内容は「黑甜瑣語」の「第三編」の「物に數あり」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「期」「とき」と当て訓したくなる。

「昭々たる」「せうせう(しょうしょう)たる」は、対象が隅々まで明らかなさまを言う。

「鯰江」「なまなづえ(なまずえ)」列記とした姓氏(及び地名)である。ウィキの「鯰江」によれば、『藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流』。『荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた』。永禄一一(一五六八)年に『鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて』天正元(一五七三)年九月に『鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし』、『毛利氏となった』。『なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している』。このほかにも、『豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという』とある。

「六太夫」この通称と「笛吹き」から見て能の囃子笛方か。

「鬼一管」「きいちかん」と読んでおく。原典にもルビはないが、「鬼一」を前の持ち主の名とし、これは通称としては「きいち」が一般的である。

 以上は、満を持して「奥州波奈志」の巻頭を飾る「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」である。以下に示す。【 】は原典の割注、《 》は同頭注。

   *

 此宮城郡なる大城の、本川内にすむ小身者に、勝又彌左衞門といふもの有き。天生狐をとることを得手にて、若きよりあまたとりしほどに、取樣も巧者に成て、この彌左衞門が爲に數百の狐、命をうしなひしとぞ。狐はとらるゝことをうれひ歎て、あるはをぢの僧に【狐の、をぢ坊主に化るは、得手とみへたり。】化て來り、「物の命をとることなかれ」といさめしをも、やがてとり、又、何の明神とあふがるゝ白狐をもとりしとぞ。其狐の、淨衣を着て明神のつげ給ふとて、「狐とることやめよ」と、しめされしをもきかで、わな懸しかば、白狐かゝりて有しとぞ。奇妙ふしぎの上手にて有しかば、世の人「狐とり彌左衞門」とよびしとぞ。其とりやうは、鼠を油上にして味をつけ【此の味付るは口傳なり。】、其油なべにてさくづ[やぶちゃん注:宮城方言で「米糠」のこと。]をいりて、袋にいれ懷中して、狐の住野にいたりて、鼠をふり𢌞して、歸りくる道へいり、さくづを一つまみづゝふりて、堀有所へは、いさゝかなる橋をかけなどして、家に歸入て、我やしきの内へわなをかけおくに、狐のより來らぬことなし。ある人、「目にもみえぬきつねの有所を、いかにして知」と問ひしかば、彌左衞門答、「狐といふものは、目にみえずとも、そのあたりへ近よれば、必(かならず)身の毛たつものなり。されば野を分めぐりて、おのづから身の毛たつことの有ば、狐としるなり」とこたへしとぞ。勝又彌左衞門と書し自筆の札をはれば、狐あだすることなかりしとぞ。《解云、相模の厚木より甲州のかたへ五里ばかりなる山里、丹澤といふ處に、平某といふものあり。これも狐を捕るに妙を得たり。土人彼を呼て丹平といふといふ。その術、大抵この書にしるす所と相似たり。享和年間、予相豆を遊歷せし折、是を厚木人に聞にき。》

 又其ころ、鯰江六太夫といふ笛吹きの有し。國主の御寶物に、鬼一管といふ名笛有けり。是は昔鬼一といひし人のふきし笛にて、餘人吹ことあたはざりしとぞ。さるを六大夫は吹し故、かれがものゝごとく、あづかりて有しとぞ。【世の常の笛と替りたることは、うた口の節なし。もし常人ふく時は、かたき油にてふさげば、ふかるゝとぞ。】故有て六大夫、網地二(あせふた)わたし[やぶちゃん注:現在の宮城県石巻市の沖合、牡鹿半島突端の南西海上に位置する網地島(あじしま)であろう。ウィキの「網地島」によれば、『江戸時代には浪入田』(なみいりだ)『金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという』とある。]といふ遠島へ流されしに、笛のことは、御沙汰なかりし故、わたくしにもちて行しとぞ。島にいたりては、笛をのみわざとして吹たりしに、いつの頃よりともしらず、夕方になれば、十四五歳ばかりなる童の、笆[やぶちゃん注:「ませ」或いは「まがき」と読む。「籬」と同義。竹や木で作った目の粗い低い垣根のことで、庭の植え込みの周りなどに設ける。]の外に立て聞ゐたりしを、風ふき雨降などする頃は、「入てきけ」といひしかば、後はいつも入て聞ゐたりしとぞ。かくて數日を經しに、ある夜この童、笛聞終りて、なげきつゝ、「笛の音のおもしろきを聞も、こよひぞ御なごりなる」といひしかば、六大夫いぶかりて、その故をとふに、童のいはく、「我まことは人間にあらず。千年を經し狐なり。爰に年經し狐有としりて、勝又彌左衞門下りたれば、命のがるべからず」と云。六大夫曰、「しらで命をうしなふは、世の常なれば、是非もなし。さほどまさしう知ながら、いかでか死にのぞまん。彌左衞門がをらん限りは、我かくまふべし。この家にひしとこもりて、のがれよかし」といひしかば、「いや、さにあらず。家にこもりてあらるゝほどの義ならば、おのが穴にこもりてもしのぐべし。彌左衞門がおこなひには、神通をうしなふこと故、命なしとしるくも、よらねばならず。いまゝで心をなぐさめし御禮に、何にても御のぞみにまかせて、めづらしきものをみせ申べし。いざいざ望給へ」といひしかば、「一の谷さかおとしより、源平合戰のていをみたし」といひしかば、「いとやすきことなり」といふかと思へば、座中たちまちびやうびやうたる山とへんじ、ぎゞ[やぶちゃん注:「巍々」。厳(おごそ)かで威儀のあるさま。]どうどうとよそほひなしたる合戰の躰、人馬のはたらき、矢のとびちがふさま、大海の軍船に追付くのりうつるてい、おもしろきこといふばかりなしとぞ。ことはてゝ消ると思へば、もとの家とぞ成たりける。さて童のいふ、「何月幾日には、國主松が濱へ御出馬有べし。そのをりから、鬼一管をふき給ふべし。必吉事あらん。我なき跡のことながら、數日御情の御禮に、教奉るなり」とて、さりしとぞ。扨、彌左衞門わなをかけしに、七度までははずしてにげしが、八度目に懸りて、とられたりき。六大夫是を聞て、いと哀とおもひつゝ、教の如く、其日に笛を吹しに、松が濱には、空晴てのどかなる海づらを見給ひつゝ、國主御晝休のをりしも、いづくともなく笛の音の、浦風につれて聞えしかば、「誰ならん、今日しも笛をふくは」と、御あたりなる人に問はせ給ひしに、こゝろ得る人なかりしかば、浦人をよびてとふに、「是は網地二わたしの流人、鯰江六大夫が吹候笛なり。風のまにまに聞ゆること常なり」と申たりしかば、君聞しめして、「あな、けしからずや。是よりかの島までは、凡(およそ)海上三百里と聞くを、【小道なり。[やぶちゃん注:「小道」(こみち)とは一里を六町(六百五十四メートル半)とする東国で用いられた里程単位で「坂東道」「田舎道」などとも呼称したもの。従って「三百里」は凡そ百九十六キロ半に当たる。但し、ここに出る「松が濱」を現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜(ここ(グーグル・マップ・データ))と比定するならば(ロケーションや島との位置関係からはここがよいと私は思う)、網島までは真西に三十六キロメートル程しかないから、誇張表現となる。]】ふきとほしける六大夫は、實に笛の名人ぞや」と、しきりに御感有しが、ほどなくめしかへされしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

 狐の笛をこのみて、後(のち)化をあらはし、源平の戰のていをしてみせしといふこと、兩三度聞しことなり。其内、是は誠に證據も有て、語つたへしおもむきもたゞしければ、是をもとゝして、外を今のうつりとせんか。又、是も狐の得手ものにて、をぢの僧に化るたぐひならんか。笛吹は猿樂のもの故、さるがくの中に、やしま、一の谷などのたゝかひを、おもしろく作りなしてはやす故、笛吹の心みなこのたゝかひを見たしと、願ことも同じからんか。かの笛いまは上の寶物と成て有。金泥にてありしことどもを、蒔繪にしたるといふ。

   *]

 これと同じ話は「蕉齋筆記」に明石の話として出てゐる。源平合戰の有樣を見せるまで全く變りはないが、從容として死に就く最後の一段を缺いてゐる。「奧州波奈志」の狐は千年、明石の狐は八百五十年といふことだから、百五十年ばかり修行不足の點があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段中程)から視認出来る。しかしこれ、エンディングが浅ましく油で揚げた鼠を喰らつて狐が死ぬという展開がおぞましく下卑ていて厭だ。それを見て主人公の御隠居が出家して諸国廻国するなんざ、糞オチもいいところである。]

 「想山著聞奇集」にあるのは狐でなしに狸であつた。稻葉丹後守正通が貞享二年に越後國高田へ國替になつた時、隨從した大野與次兵衞といふ者の屋敷へ、突然十七八歳の若者が現れ、爐のほとりに居つた老婆といろいろ話をする。これが狸なので、遂にその事が主君の耳に入り、微行の形で與次兵衞の家に見えられたが、當夜は全然影も見せなかつたなどといふ話もある。或晩この狸が鬱然として樂しまず、自分は明夜獵師のために一命を落すことを告げた。順序は三段になつてゐて、晝の内の錢砲は避け得る、夕方の落し穴も免れる、夜の罠にかかつて死ぬといふ。それほど運命を豫知する通力がありながら、どうして助かることが出來ぬかといふ問に答へて、天運の盡くるところは是非に及ばぬ、かねて罠にかゝると知つてゐても、その期に及んでは恍惚として覺えなくなるのだ、と云つた。すべて鯰江六太夫に於ける狐と同じである。たゞこの狸は源平合戰の幻術などは見せず、紙と墨を乞うて右の掌の形を捺しただけであつたが、それは全く獸の足跡であつた。

[やぶちゃん注:「稻葉丹後守正通」「まさみち」と読む。江戸前期譜代大名で老中でもあった稲葉正往(まさみち 寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年:「正通」とも書いた)相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主。彼は確かに貞享二(一六八五)年に京都所司代を免職となり(貞享元(一六八四)年に親戚であった若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件で連座して遠慮処分となったことによる)、高田藩に国替させられている

「微行」「びかう(びこう)」は、身分の高い人などが身をやつして密かに出歩くこと。忍び歩き。

 以上は「想山著聞奇集」の「卷之四」の「古狸 人に化て來る事 幷 非業の死を知て遁れ避ざる事」である。【2017年6月4日追記:新たに全面校訂を行った当該章を電子化注したので、ここにあった不完全なものは除去し、新たにリンクを張った。】

 人間は學問をして、つまらぬ知識を頭に詰め込む代りに、運命を豫知する靈覺を失つてしまつた。千年なり八百五十年なりの齡を保つたら、或は可能かも知れぬが、今の人間の力では、長壽の一點だけでも彼等に伍することは出來ない。勿論狐狸の世界に在つても、かういふのはすぐれた少數者の事で、他は概ね平凡なる野狐、野狸を以て終始するのであらう。

 

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