小穴隆一「鯨のお詣り」(54)「影照斷片」(12)
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七月二十一日に、彼が、金はいらぬかと言つてゐたその金の高は自分にも不明である。が、彼の死後時に遇(あ)つてうなづけた。――死ぬる三日前(かまえ)に改造社から千圓を借りてゐる。何の爲それを彼が要した金であつたか。さうけげんに思つた改造社の者の言葉は、自分にもけげんではあつたが事の合點(がてん)が出來た。家人にも祕(ひそ)かにしたその金を彼が持つて、左翼の人に夜へてゐると知つたのはそれ以後の日(ひ)に斯(お)いてではあるが、その彼についてのM女は、「えゝ、わたしにはそんな事も言つてゐました。」と返事した。千圓の金が其儘(そのまま)に二三日の間に消えてゐる。噂の彼を自分も認めはする。殊に當時の新聞の三面には、生活難に死んだ人達の記事が多かつたと考へるが、全く淚を流して、「自分は斯ういふ人達の事をみるにつけても、かうやつて自分が生きてゐることがすまないと思ふ。」と、言つてゐた晩年の彼の、來(く)る朝每(ごと)の嘆きを見知つてゐるからである。
「僕も、あの時は、あゝいふ風になると、自分も矢張り、つくづく、勳章が欲しいと思つたよ。」
何かの時に淸浦(きようら)伯(はく)と席を共にした事のある彼はさう語つてゐた。その頃の彼は、(死ぬ話)の出なかつた時代の彼である。
[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「千圓の金」の原型。本書で先行する「最後の會話」も参照されたい。
「M女」平松麻素子。]
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