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2017/02/03

柴田宵曲 妖異博物館 「海の河童」

 

 海の河童

「草汁漫畫」(小川芋錢)に水面と水中に二疋の河童を畫き、「河伯欣然」の四字を題したのがある。この河伯は北海に至り東面して海を視、望洋として歎じた「莊子」の河伯と同一ではあるまい。河童といひ、川太郎といひ、河伯といひ、いづれも淡水の因緣を離れぬやうであるが、廣い世間の事だから、海の河童の話も出て來る。

[やぶちゃん注:『「草汁漫畫」(小川芋錢)』は私の好きな画家小川芋銭(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)が明治四一(一九〇一)年に日高有倫堂から刊行した句画集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全部を視認出来る。同33コマに当該の「河伯欣然」の絵はある。以下にトリミングして示す。Usennkappa

上に添えられた句は「古沼に 苗舟こぐや 五月雨」である。

『「莊子」の河伯』「莊子外篇」の「秋水」の冒頭。

   *

秋水時至、百川灌河、涇流之大、兩涘渚崖之間、不辯牛馬。於是焉河伯欣然自喜、以天下之美爲盡在己。順流而東行、至於北海、東面而視、不見水端、於是焉河伯始旋其面目、望洋向若而歎曰、「野語有之曰、『聞道百以爲莫己若。』者、我之謂也。且夫我嘗聞少仲尼之聞而輕伯夷之義者、始吾弗信。今我睹子之難窮也。吾非至於子之門則殆矣。吾長見笑於大方之家。」。

○やぶちゃんの書き下し文

 秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぎ、涇流(けいりう)の大・兩涘渚崖(りやうししょがい)の間、牛馬を辯ぜず。是(ここ)に於いて、河伯(かはく)、欣然として自(おの)づから喜び、天下の美を以つて盡(ことご)く己(わ)れに在りと爲(す)。流れに順ひて東行し、北海に至りて、東面して視れば、水端を見ず。是に於いて、河伯、始めて其の面目を旋(めぐ)らし、望洋(ぼうやう)として若(じやく)に向ひて歎じて曰く、

「野語(やご)、之れ、有りて曰く、『道を聞くこと、百にして、以つて己れに若くもの莫しと爲す。』とは、我の謂ひなり。且つ夫(そ)れ、我、嘗て、仲尼の聞(ぶん)を少なしとして、伯夷の義を輕(かろ)んずる者を聞けども、始め、吾、信ぜず。今や、我、子の窮め難きを睹(み)たり。吾、子の門に至るに非ずんば、則ち、殆(あやう)し。吾、長く、大方(たいはう)の家に於いて笑はれん。」

と。

   *

○やぶちゃんの勝手自在訳

 秋に黄河の水位が増大し、氾濫原も広大に水に浸される時期になって、黄河の神河伯は有頂天になって歓喜雀躍、全世界の美が我が手中に在ると思った。ところがその流れを東へ下り、北海に至って、そこからやおら、東方の洋上を望んでみたところが、そこには恐ろしく広大な無限の大海が広がっていた。河伯は振り返ると、呆然として、ここ、北海の神若に向かって嘆息して言うことに、

「俗に、『たかだか百の道理を知ったぐらいで、己れに敵(かな)う者はないと思い上がる。』と言うが、それは私のことだった。さてもそもそも、私は以前、孔子なんぞの知見は狭量なものであるとか、伯夷の節義なんどは下らぬとする議論を聞いたことがあったが、私は当初、それを全く信じなかった。しかし今や、私は、貴方の持つ、この果てしなく突き詰めることの不可能な無限の大きさというものを実見し、宇宙とはしょぼくれた私の知見などでは到底極め得ないということを確かに感じたのだ。私は、貴方のもとへやって来なかったとしたならば、危うかったのであった。そのままでいたなら、私は、永久に真の道を悟った諸家からもの笑いの種とされて続けることになっていただろう。」

と。

   *

この「河伯」はしばしば本邦で河童と同義語として扱われ、「河伯」と書いて「かっぱ」と読ませるケースも古くから認められるものの、中国神話上の河伯〈中国音音写:フゥーポォー)は私は、本邦の河童とは別起原であり、形象も甚だ異なる(亀型などでやや河童に似ている場合もあるが、古来の人体模造型の神形象や、水陸両用性による伝承内での平行進化の結果と見る)。例えばウィキの「河伯」によれば、『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』とある。但し、河童との関係性については、『一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀に『かけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とある。]

 

 享和元年六月朔日、水戸の浦から上つた河童は、丈三尺五寸餘、重さ十二貫目と、珍しく身長體重が書いてある。この日は海の中で赤子の泣くやうな聲がしきりに聞えるので、船に乘つて網を引き𢌞したところ、鰯網の内に十四五疋も入り、躍り出し躍り出しして逃げて行つた。棒や櫂などで打つても、粘りが付いて一向に利かぬ。そのうちに一疋船に飛び込んだから、苫などをかぶせ、上から敲き殺したが、その時までも赤子のやうな泣き聲をしてゐた。これは實況を手紙で報告したもので、正面、背面の圖なども「一話一言」の記事にある。

[やぶちゃん注:「享和元年六月朔日」グレゴリオ暦一八〇一年七月十一日。

「三尺五寸」一メートル六センチメートル。

「十二貫」四十五キログラム。

 以上の「一話一言」の記事は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。次頁に附図が載るので、トリミングして示す。 

 

Itiwaitigonkappa

右端に記されてある、「東濱」の「權平次」なる人物(網元か)が報告者、「浦山金平」がそれを受けた者(浦の地役人か)である。当初、オットセイの群れだろうと思ったが、図を見ると……これ……河童だわ!……]

 

「閑窓自語」に出てゐる河童もやはり海のもので、年に一度ぐらゐは人を引き込み、精血を吸つて後、亡骸(なきがら)は返して來る。その屍を棺に入れず、葬らず、板の上に載せたまゝ草庵を結んだ中に入れ、香花を手向けずに置くと、この屍が朽ちる間に、人を取つた河童の身體は、自然にくづれて死んでしまふ。河童は自分の身のくづれる間、死骸を置いた庵のほとりを、悲しげに泣きめぐるが、人にはその形は見えず、聲だけが聞えるさうである。香花を手向けてはいけないといふのは、もし河童がその香花を取つて食へば、その身はくづれず、棺に入れて葬つた場合は、死ぬまでに至らぬと云はれてゐる。

[やぶちゃん注:「閑窓自語」は珍しく、公卿(正二位権大納言)で歴史家であった柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆で、当該項は「上卷」「七三」の「肥前水虎語(のこと)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

肥前のしまはらの社司某かたりていふ。かの國にもかはらう多くあり。年に一両度はかりは、かならす人を海中に引き入れ、精血をすひてのち、かたちをかならすかへすなり。いかなるものゝさとりはしめけるやらん。かの亡屍を棺に入れす、葬らす、たゝ板のうへにのせ、草廬をむすひて取り入れ、かならすしも香花をそなへすをけは、この屍のくつるあいたに、かの人をとりしかはらうの身體らん壞して、をのつから斃る。しらされはかはらう人間の手にとらふへきものにあらす。いはんや、いつれのとりしといふ事をもしりかたし。いと奇術なりとそ。かはらう身のらんゑするあひた、かの死かいををくやのほとりを、かなしみなきめくる。人そのかたちを見す。たゝこゑをきくとなん。もしあやまつて香花をそなへしむれは、かはらうかの香花をとりかへり食すれは、その身らんえせすといへり。棺に入れ葬れは、これも斃るゝにおよはすとそ。をよそ、かはをらう身をかくす術をえて、死せされは見る事あたはす。多力にして姦惡の水獸なりといへり。

   *

文中の「さとりはしめけるやらん」は「(そのような奇体な形で)葬ればよいことを認識し始めものか」の意と思われる。それにしても、この河童に襲われた遺体の奇態な習俗には、すこぶる興味が惹かれる。何かが隠されている感じが私には、する。]

 

 以上の二つは河童が海にゐた證左になるまでで、話としては至つて單純なものであるが、もう一つの話はいさゝか込み入つてゐる。六月二十三日は和歌山の蛭兒(えびす)祭りで、昔はこの日に必ず牛の賣買があり、牛が澤山港の近邊に集まつたから、湊の牛祭りとも呼ばれた。近年はいつとなく牛も來なくなつたが、この祭りの時節は暑さがきびしいので、川で水浴びをする者が多く、それがやゝもすれば溺れ死ぬことになつてゐる。享保十一年六月二十二日の夕方、嶋田何某の子で十八になるのが、近所の子供を四五人引き連れ、小野町の濱邊へ出て、大船の𢌞りにゐる小船を、それからそれへと渡つて涼んでゐたが、船から船へ移るはずみに、蹈みはづして海に落ちた。運惡く深いところだつたので、落ちた者は沈んでしまひ、ついて行つた子供は騷ぎ立てるだけで、どうすることも出來ない。追々人が駈け付け、水練の達者な者に賴んで死骸を取り上げ、濱でいろいろ介抱したけれど、終によみがへらず、戸板に載せて家に歸り、醫者の手當を受けても、更にその效がなかつた。事件の起る少し前、この子が沈んだあたりに居つた大船の船頭の話によれば、この頃子供の水浴びを何心なく見てゐるのに、一人自分が但馬で見た小坊主が居る、あれは人間ではない、正しく河童であるが、どうしてこの浦に來たものか、それを知らずに水浴びをする子供が、命を取られるのは可哀さうだ、早く濱邊へ行つて、子供の水浴びを止めさせるがいい、但馬の河童がこの浦に來てゐるのを、慥かに見付けた、といふことであつた。子供の親達は驚いて、子供を水から呼び上げる。さてそれから、どうして但馬から來たことがわかつたかと問へば、自分が但馬の浦に船がかりをしてゐた頃、この小坊主はしきりに舶へ物を貰ひに來た。その物言ひが人間と違つて、はじめは聞えるやうでも、あとが消えてしまふ。たしかに河童だと見たから、いい加減にあしらつて置いた。彼は非常に利口なもので、人の心を早く悟る。今度來たら櫂で打つてやらうと思つてゐると、もうわかつて傍へ寄らず、そなたはわしを櫂で打たうと思つてゐなさるな、と云ふ。明日は船を出さうと心で考へて、まだ口ヘは出さぬのに、明日はきつと出船だらう、と云ふ。この者を惡く扱へば、必ず仇をするから、とかく騙すに如くはないと、すかして置いたが、今また浦で逢うた。これを見ると、河童は諸國を遊行するらしい。昔からこの浦には河童がゐないなどと云つて、油斷してはならぬ、と委しい説明があつた。果して二十二日の晩に嶋田氏の子が溺死し、間もなく救ひ上げたに拘らず、臟腑腸胃は悉く引き出し、腹中空になつてゐたから、船頭の云ふ通り河童の仕業だつたかも知れぬ。その後もこの夏は溺死者が多かつたので、いづれも河童にやられたものと疑ふに至つた。

 この話は「續蓬窓夜話」の載するところであるが、海の河童が諸國を遊行し、人心を看破するなど、他の書に見えぬ特質に觸れてゐるのが面白い。

[やぶちゃん注:「享保十一年六月二十二日」グレゴリオ暦一七二六年七月二十一日。

「續蓬窓夜話」筆者不詳(識者の御教授を乞う)。しかし、個人サイト「妖怪館」掲示板に、奇特な方が本書について享保十一年跋とし、しかも実に幸せなことにこの部分の原文を掲げて呉れている(引用元を示して呉れていたらもっと良かったのだが)。何時もの通り、恣意的に漢字を正字化して引かさせて戴く。【二〇二三年八月十七日追記】作者は「矼(こう)某」で享保十一年跋。写本しかないようである。筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(二〇〇八年刊)の「引用書目一覧表」に拠った。

   *

「六月廿三日は紀州弱山湊の蛭兒祭なり。昔しはこの日必ず牛の賣買ありて、牛ども多く湊の濱邊に集りける故、世の人皆湊の牛祭とも云ひしが、近年はいつとなく牛も來らずなりたり。この祭の時節は酷暑の砌なれば、河邊にて水浴する者多くて、動もすればこの日の前後溺れて命を失ふ者多し。享保丙午六月廿二日の晩方、嶋田氏何某の子、年十八なるが、暑氣を凌がんとて近所の子供四五人を引つれ、小野町の濱邊に出て大船の掛りて在る邊の小船を彼方此方と打渡りて涼み居けるが、何とかしけん、船より船へ移るとて、蹈みはづして海へ落ちけり。所しも深かりければ、敢なく沈み入りけるほどに、從ひ行きたる子供、やれやれといへども、何とすべきやうもなく居たる内に、父母の宿近ければ、人々追ひ追ひ蒐來り、水練を入れて死骸を被き上げ、先ず濱にて色々術を盡しけれども、終にその驗なし。力無くて戸板に載せて家に歸り猶醫者を呼び聚聚て療治しけれども、その甲斐なく遂に空しくなれり。これより前に、この子の沈みたつあたりに有りける大船の船頭の語りけるは、頃日濱にて子供の水を浴び居けるを、何心なく見居たるに、その中に小坊主の一人有りけるをつくづくと見れば、疑ひもなく但馬にて見たりし小坊主なり、彼は人間には非ず、正しく河童なるが、何としてかこの浦へは來りけん、これをば知らで同じやうに水浴する子共の、命を取られんこそ不便なれと思ひ、急ぎ湊の濱にり、子共の水浴することを制し玉へ、我れ但馬の河童のこの浦へ來るを、たしかに見付けたりと云ひければ、子を持ちたる者ども大きに驚き、やがて濱邊に走り出て、子共を皆水より呼上げける。さて何とて但馬より來りし事を知れりやと問へば、船頭が云ひけるは、我れ但馬の浦に船を掛けて居し時、この小坊主切々船へ來りて物を乞ひけるが、その物言ひ人と違ひて、始めは聞ゆるやうにて跡はなし、たしかに河童と見たるゆゑ、兎角だましすかして日を經たり、彼はその心飽までかしこき者にて、その心を先に覺り、譬へば今度來る時この橈にて打つべしと思ふに、早その心を知て傍へ寄らず、その方はその橈にて我れを打たんと思はるゝやと云ふ。明日は船を出すべしと心に思ひ居れば、早その心を知りて明日は定めて出船ならんと云ふ。とかく人の心を先きに知る事、鏡の如し。これを知りながら惡しくもてなせば、必ず仇をなしてその害多し、とかくだますには如かじと思ひ、色々とすかし置きたりしが、今またこの浦へ見え來れり、これを思へば河童はなしと思ひて必ず油斷すべからずと語りける。その後間もなく嶋田氏の子、廿二日の晩溺れて死しけるが、親の家は小野町なるゆゑ、間もなく被き上げけれども、臟腑腸胃を悉く引出して、腹中空になりて有りけるよし、偖はこの船頭が語りたる河童の業ならんかと、人々疑ひあやしみける。その後もこの年は處々にて溺死する者多かりければ、皆この河童の業ならんかと、あやしみ疑ふ人多かりし。

   *

この話柄も、河童に読心能力があること、積極的に遊行(ゆぎょう)することなど、河童の生態学に於いて、見逃せない記載がある。]

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