小穴隆一「鯨のお詣り」(27) 「二つの繪」(16)「手帳に依る、1」
手帳に依る、1
手帳に依る、1に於いて自分は大正十五年四月十一日〔昭和元年〕より翌昭和二年花見頃に至る、丁度一年間になる日數があり、ジグザクに動く彼を追つて、夫人及び葛卷、僕の生活も亦ジグザクに動いてゐたのである。この四人の動靜を描き、彼の胸像を彫刻してゆきたい。――然し自身のこの樂しみにも似かよふ彫刻は、「二つの繪」を描く現在では、さして必要ではない。――而して萬一、二册の古手帳が彼を主としたノートの手帳にあつたものならば、讀者に示す貴重の材料となつたであらうが、惜しむべし、この手帳は僕のものであつて、彼のものではなく、然も今日(こんにち)檢(あらた)め見る、大半の頁(ページ)は毮(むし)りとられてゐるものであつた。
[やぶちゃん注:これは「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」の原型。但し、ここで小穴隆一は章題を「手帳に依る、1」としているにも拘わらず、実は本書の「二つの繪」パートはもとより、その後の部分にも「手帳に依る、2」を標題とするものは存在しない。不審であるが、小穴特有の気まぐれで、「2」を書くつもりが、やめてしまったものらしい。それがやはり不満足であったものか、「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」では凡そ二倍強の分量に記載が増えている。
以下の日記本文はカタカナ漢字交じり、日記の底本ルビも概ねカタカナで振られてある(従って、ひらがなの読みの部分は本書での小穴の書き添えであって日記本文でないことが判る。それが機能するように一部の読みを意識的に入れてある)。太字は再現。]
大正十五年四月十一日、日
八百屋ノ店サキニモハヤ夏ミカンヲミル(他は省略。)
――十八日、日、雨
夜、田端
蒔淸ノ壺ノナホシヲ田端ニ渡ス
蒔淸へノ禮ヲアヅカル
六月六日、日、朝 雨 午後ハフラズ
蒔淸ト田端ニユク
――八日
春陽堂ノ番頭、芋粥、戯作三昧ノ裝幀ノ用(ヨウ)デキタル
龍之介先生、義(ヨツ)チヤン鵠沼行(ユキ)ハガキ
(五月三日 「アグニノ神(カミ)」ノサシヱ二枚渡ス。とあるは、改造改版 三つの寶(たから) の進行遲々たるものありしを示す。同十八日、東洋文庫ニきりしたん本(ボン)ヲ調べニユク。――これは某書肆(しよし)が彼のきりしたん物を和本にて出版せんとする目論みに依る。)
六月二十二日、火、曇
龍之介先生ヨリ手紙(鵠沼(くげぬま))
(あづまやに一人で滯在してゐた芥川が、クソ蠅(ばへ)を何匹(なんびき)か呑下(のみくだ)してゐた頃なり。)
七月二十六日、月、晴
改造高平(タカヒラ)キタル リンカク校正ワタシ
(この頃は彼にも僕にも風雨(ふうう)樓(ろう)に滿つるの趣(おもむき)があつて、僕は大いに金の必要を感じてゐた。ここで當時の自分として出來るだけの前借(ぜんしやく)(貮百圓?)を改造高平に賴み、要求だけの金を受取つた。
十二月三十一日、日
鵠沼ヨリ上京東片町(ヒガシカタマチ)ニ來タル 三十日尚子(ヒサコ)死ス。年十三
(東片町は亡父が一時代住んでゐた所。)
[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「手帖にあつたメモ」で注したが、この曜日の「日」は「金」の誤り。]
昭和二年一月四日、火
告別式 火葬
田端泊
○○サン(M女(ヂヨ))ヲミル
[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「手帖にあつたメモ」では『平松サン』と伏字を外しており、『芥川に平松麻素子さんを紹介された日』と附記してもいる。]
――一月五日、骨(コツ)アゲ
ヒル田端ニ寄リ ヨル鵠沼ニカヘル
(六日、夜(ヨル)藤澤ノ花屋ニ義(ヨツ)チヤントユキバラ十五本三圓。この六日間で思出(おもひだ)すのは、もう一晩泊れといふ彼に別れて鵠沼に歸つた僕自身の姿である。ずるずるに實際では、既に鵠沼は引上げ(ひきあ)げてしまつてゐた彼ではあつた。空(あ)けてゐる鵠沼の彼の借家に一人で留守番をしてゐた葛卷義敏は、むしろ、一人留まつてゐる僕のために、田端から彼がよこしてゐた者である。)
――七日、金、雨
ばらニ着手
ヨツチヤン歸京
塚本サンノオツカサン
夜(ヨル)時事ノ記者、西川氏ノ件(ケン)。
(彼の姉、葛卷の母の夫、西川辯護士の鐡道自殺で朝のうちに、葛卷は新原(にいはら)と共に歸る。塚本のオツカサンは芥川夫人の母なり。多分、この日も夕飯の菜(さい)を持つてきて呉れた事ならん。)
一月三十日、日
芥川サンノ原稿「なぜ?」ハ奧サンニオ渡シシタ
(芥川夫人は鵠沼に置いてあつた荷の中から差當(さしあた)つて必要な品物、子供の着物かなにか、それを取りに田端から一寸見えた。)
二月十三日、日
田端、遠藤二人ヨリ手紙
月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク
――二十日、日、クモリ朝雪
田端泊(ドマリ)
二十一日、月、ユキ、田端泊 二十二日、火、田端泊 雪 ホンブリ。クゲヌマ。
五月二十一日
新聞ノ差畫(サシヱ)ハハジメテナリ東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ「本所兩國」芥川龍之介十五日分 余ノ差畫、今日(コンニチ)掲載ノブンニテ終ル 畫料(グワレウ)百五十圓
手帳には昭和二年二月二十四日より五月二十日迄、八十五日間の、その我等の消息といふものが悉(ことごとく)皆落ちてゐて分明にされてはゐない。が、この間に、彼、夫人、葛卷、僕、この四人が依然として互(たがひ)にその人々を信じ、各(おのおの)助け合つてはゐながもも、何故又、その各人互に疑心(ぎしん)をさしはさむ傾向に導かれやうとはしたのか。――
少くとも僕にあつては答へる。
嵐(あらし)はある。やがて一本の樹(き)が必ずそこに倒れる颱風(たいふう)のなかに立つて、あのぼそぼそとしてそれを語る芥川龍之介の「死ぬ話。」あれは毒だ。僕の聴覺を今日まで完全に歪(ゆが)みたるものにしてゐるそれだ。‥‥
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