小穴隆一「鯨のお詣り」(49)「影照斷片」(7)~幻の作品集「泥七寶」!
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私の關係した範圍では、出版されようとして出版されなかつた二種の本が彼にある。一つは平安朝物ばかりを集めた「泥七寶(どろしつぱう)」、これはその見返しの繪、箱、扉の文字までが木版に出來上りながら、不幸にして版元玄文社そのものが廢滅(はいめつ)してしまつたので、本とはならなかつたものである。もう一つのは切支丹(きりしたん)物ばかりを集めた物で、このはうはどことの約束であつたのか、ただ私がはそのために、一度東洋文庫に石田幹之助さんを訪ねて、慶長版の切支丹本(ぼん)を見せて貰つた記憶があるばかりである。これが大正十五年五月のことで、泥七寶は同十四年の話と思ふ。(カツトは泥七寶の扉の文字。尚子筆。縮寫)
[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分は底本ではポイント落ち。
「泥七寶」この語自体は「どろしっぽう」或いは「でいしっぽう」と呼ばれる七宝焼きの技法の一種で、ウィキの「七宝焼き」によれば、『独特の釉薬(多くは不透明の釉薬)を用いて焼いた平安時代ないし桃山末期から見られる古来の技法。透明な釉薬は西洋では東ローマ時代から見られるが、東洋では不透明な釉薬を用いたものが多い。それら、ワグネル』(Gottfried Wagener 一八三一年~一八九二年:カタカナ音写は「ゴトフリート・ヴァーゲナー」が近い。ドイツ出身の「お雇い外国人」であるが、当初はアメリカのラッセル商会の石鹸工場設立参加のため来日したが(その事業は不成功となって廃案となった)、その後に政府に雇われた「お雇い外国人」としては特異なケースである。京都府立医学校(現在の京都府立医科大学)・東京大学教師・東京職工学校(現在の東京工業大学)教授などを勤め、陶磁器やガラスなどの製造を指導、明治の工学教育に大きな功績を残した。ここはウィキの「ゴットフリード・ワグネル」に拠った)『により透明釉薬が発達する以前の七宝器や釉薬を、総じて泥七宝と呼ぶ。あるいは、日本では古来にも平田七宝のように透明感のある作もあるため、それらを区別して、単に泥七宝と呼ぶにふさわしい濁りのある釉薬を用いた作を泥七宝と呼ぶ場合もある。また、初期の尾張七宝の釉薬のことを泥七宝と呼ぶ場合や、京都では鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼んでおり』、『その定義は定まっていない』とある。翻って、この幻の作品集「泥七寶」の部分は「二つの繪」でカットされてしまっている。またここで小穴隆一は「泥七寶は同十四年の話と思ふ」と述べているが、これは大正十三年の誤りである。鷺只雄氏及び宮坂覺年譜の大正一三(一九二四)年五月二日(宮坂氏は『五月二日頃』と推定)の箇所に(以下、引用はの写真は、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)より)『玄文社から王朝物の短編集『泥七宝』を出すことになり、装幀(表紙、扉、見返しで四〇円)を小穴氏に依頼する。小穴は五月一六日までに仕上げるが、玄文社が倒産したため、刊行されなかった』とあるからである。鷺・宮坂年譜ともに収録予定の作品への言及はない。何となく、芥川龍之介の死後の昭和一一(一九三六)年に野田書房から限定百七十部で出版された「地獄變」(本文・越前産特漉・小穴隆一題字・帙入)みたようなもんかなぁなどとは感じたりする。「泥七寶」! 何を集録したであろう?! ああっ! 欲しい!(なお、芥川龍之介の作品では大正一三(一九二四)年六月発行の雑誌『隨筆』に掲載された、「春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐる」に、『八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七寶の靑に似てゐる』と「泥七寶」が登場している。
「尚子」既出であるが「ひさこ」と読む。小穴隆一の実の妹。小穴隆一の仕事を手伝い、芥川龍之介作品集の装幀用の字を隆一はしばしば彼女に書かせた。数え十三で夭折した。]
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