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2017/02/06

小穴隆一「鯨のお詣り」(12) 「二つの繪」(1)「二つの繪」

 

 二つの繪 

 

[やぶちゃん注:以下の冒頭添書きは底本ではポイント落ちで二字上げ下インデントである。クレジットと署名の位置もブラウザの不具合の関係上、有意に上げてある。] 

 

 あはれとは見よ。

 自分は娑婆(しやば)にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで燒かれた後(のち)の□□□を、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。

        昭和七年秋      隆一

 

 

        二つの繪 

 

Kujiramimikaibutu

 

〔差畫(さしゑ)參照〕

 ――実に未だにではあるが、ぼろ服を身につけてゐた僕は芥川龍之介に「君も今度何かの都合のよろしい時には黑背廣と縞ズボンをつくつておくことだねえ。」と言はれてゐた。故にこれを昭和六年に欺於いて確かにつくり自分は始めて身につけた。

(彼が死んでから既に五年後の事である。)

 貧乏畫家である僕に、芥川龍之介は、貧困時に於ける谷崎潤一郎の不敵の精神を説いて力を與へてゐた。彼の死六年を經て、ここに自分は、確かに不敵の精神を抱いて、「二つの繪」を書いてはゐる。

 芥川龍之介の二つの繪に依つて自分は、彼の二つの繪の間(あひだ)に結びつらぬいてゐるミゼラブルなる姿を描たい。一方また自分は「二つの繪」に對して、「芥川龍之介の書齋」を考へてゐる。拔群の氣象(きしやう)を持つた人間、小説家芥川龍之介は、「芥川龍之介の書齋」に於いて、これを詳らかにしたい。しかしながら、自分は文筆の士ではなく、バルザツクの力を欲しいと思ふばかりでゐる。人、或は「二つの繪」を僕の物として認めやう。が、幼少、小學時代に於いて彼が宰領し發行してゐた𢌞覽雜誌「日の出」に始まつて一高時代(?)神田で一枚の「ウイリアム・ブレーク」の複製を發見して、金參圓の全財産を投じたがために、新宿まで步いて歸らなければならなかつた昔(そのブレイクの繪は後に彼の考案による畫架(ぐわか)にのせて死ぬまで二階の書齋の壁に掛けてあつた。)繪畫(くわいが)に依ればロートレツク、フエリシアン・ロツブス、ゴヤ、レムブラント――セザンヌ、パブロ・ピカソ、――ルドンに移つてゐた間(あひだ)の傾向を簡單明瞭にして、自分は指示出來得ると信ずる者であるが、その作家として立つた彼、ならびに、その作品、思想を論ずる事に及んでは未だ自分は無力である。今後と雖も恐らくは同然であらう。僕はここに佐佐木茂索・堀辰雄、葛巻義敏の三人を置いて考へる。しかし、自分の愛するこれら三人の人々は氣の毒ではあるが文明人でしかない。(どれだけこの三人の力の合併を空想して僕は待つたか自分はいま愛するこの三人に對してだけでも再びミゼラブルなる芥川龍之介の姿を現出させよう。この無法を許せ。)

 二つの繪の、巨大な耳を持つた怪物の繪は大正十四年十月四日湯河原中西屋旅館に僕を招いた時に座の紙をとつて彼が描き示したものである。さうして未熟にも自分はその彼の眞意が奈邊(なへん)にあるかを照察(せうさつ)し得なかつた。ただ詳かにし得たものは自分の紀行文のために五日芥川龍之介體量(たいりやう)十二貫五百、本人腦味噌一貫五百、體量十一貫と稱す。だけのものである。しかし彼が後日(ごじつ)支那旅行中に幾度か死をねがつてゐると言つてゐた事を書き及べば、歸國直後である湯河原溫泉で示したその繪は彼の當時の姿を寫す自畫像である、彼が犯した唯一つの過失に、如何に苦しみ、また如何に告白したものかと迷つてゐたその彼の姿をここに髣髴せしめるものがあるであらう。

 一つの星が飛んで消えてしまつてゐる北斗七星の繪は、相州鵠沼海岸伊(い)二號當時の僕の借家に於いて彼が描き示した物である。

「この繪がわかる?」

「わかるよ。」

 言葉がそこに交されはしたが、大正十五年の秋では、最早僕らは小穴隆一芥川龍之介で言葉を交はさずとも意は通じてゐたのである。

 

[やぶちゃん注:これは後の単行本「二つの繪」の冒頭の「二つの繪」と同題であるが、異なる作として読み、比較した方がよい程に、全く叙述が違うので注意されたい。リンク先と比較しつつ、お読み戴きたい。

 私はこの冒頭添書きの伏字について、後の単行本「二つの繪」の「家ダニは御免だ」で、小穴がこれに言及した際、先般、

君のやうに、死んで燒かれた後のしやりを、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて喰らふ種類のフアンは一人も持つてゐない。

と読み換え推定をしている。「しやり」は「舎利」で遺骨である。大方の御批判を俟つものではある、と注した。今もその意識は変わらない。

「〔差畫(さしゑ)參照〕」本章の挿絵は上記に掲げた一枚だけで、終りで言及する星が一つ飛んで六つしかない絵(リンク先は単行本「二つの繪」版で掲げた別ソースからのそれ)は次の「自殺の決意」に挿入されている。今回、耳の怪物の絵は底本の香を偲ぶために敢えて同底本のものを複写した。既に「二つの繪」の方で掲げたものこれは同一の原画の別ソースのカラー画像であるから、比較されるのも一興である。

『小説家芥川龍之介は、「芥川龍之介の書齋」に於いて、これを詳らかにしたい』小穴隆一の言い回しに馴れないと勘違いされる向きもある箇所なので、老婆心乍ら、述べておくと、これは、これから書く条や章の中に「芥川龍之介の書齋」というのがあるということ、では、ない。小穴隆一は『私は今から、この「二つの繪」のパートで、小説家としての芥川龍之介を、常に芥川龍之介生前の往時の「芥川龍之介の書齋」を常にイメージしながら描き出そうと考えている』と言っているのである。

「バルザツクの力を欲しい」フランスを代表する小説家オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)は、例えば短編「知られざる傑作」(Le Chef-d'œuvre inconnu 一八三一年)で老天才画家の悲劇を描いたように(本作には、かのピカソが強く魅了された)、音楽や絵画への高い審美眼を持ち合わせていた。小穴隆一はここでそれを反転させた力を我に与えよ、と言っているのであろう。

『小學時代に於いて彼が宰領し發行してゐた𢌞覽雜誌「日の出」』正しくは肉筆回覧雑誌の名称は『日の出界』である。但し、本書刊行時の芥川龍之介全集(第二次)にはこの回覧雑誌所収の初期文章――現在の岩波新全集では「大海賊」「実話 昆虫採集記」「冒険小説 不思議」「ウエールカーム」「(ここまでは執筆は推定で明治三五(一九〇二)年。芥川龍之介十一歳)「彰仁親王薨ず」「春の夕べ」「つきぬながめ」(以上三篇は推定明治三十六年筆)の七篇を所載――は、岩波の旧全集に載っていないから、当時の読者はこの回覧雑誌の名さえ知らないはずである。思うに、小穴隆一はこれを、その原本を当時所持していた葛巻義敏を通して読んだか知ったものと思われる。何故なら、葛巻が昭和四三(一九六八)年になって岩波書店から刊行した「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に、うやうやしくも初めて「大海賊」「昆蟲採集記」(一と二があるが、二は現行の新全集にすら載っていない)「彰仁親王薨ず」「春の夕べ」が掲載されているからである。こういう部分に私は葛巻義敏は勿論のこと、小穴隆一に対しても、そのスノッブな厭らしさをプンプン感ずるのである。

『一高時代(?)神田で一枚の「ウイリアム・ブレーク」の複製を發見して、金參圓の全財産を投じたがために、新宿まで步いて歸らなければならなかつた昔(そのブレイクの繪は後に彼の考案による畫架(ぐわか)にのせて死ぬまで二階の書齋の壁に掛けてあつた。)』これは後の単行本「二つの繪」の橫尾龍之助で、『芥川の二階の書齋は、地袋の上にも本がのせてあつたが、小さい額緣に入つた五寸五分に七寸位の、ヰリアム・ブレークの受胎告知の複製があつたので、僕がそれをみてゐると、芥川は、「それは神田の地球堂で三圓で買つたのだが、歸りの電車賃がなくて新宿まで步いて歸つた。」(當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた、)當時の三圓といふ値段は額緣付きの値段と思ふが、芥川はその受胎告知の畫を、晩年わざわざ給具屋に卓上畫架を誂らへてこしらへさせ、その上にのせてゐた。部屋の隅で、暗いところにあつたから、ちよつと氣がつかなかつた人があるかもしれない。部屋にかける壁がなかつたからといへばそれまでであるが、わざわざその畫のために、卓上畫架を註文して造らせてその上にのせてゐた芥川の氣持を思ふと、芥川の淋しさといふものが何か考へさせられる』と詳述している。

「フエリシアン・ロツブス」フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)はベルギーの画家。エッチングやアクアチント技法の版画家として知られる。ウィキの「フェリシアン・ロップス」によれば、最初は『戯画絵師として名声を得た』が、一八六四年に『晩年のシャルル・ボードレールと出会い』、『一生忘れることのできないほど強烈な印象を受け』、ボードレールの「漂着物」の『口絵を描いた。この本は、フランスの検閲で削除された』「悪の華の詩」を『集めたもので、当然ながら、ベルギーで出版された』。『ボードレール、ならびに、ボードレールが表現した芸術と関わることで、ロップスは、テオフィル・ゴーティエ、アルフレッド・ド・ミュッセ、ステファヌ・マラルメ』『といった作家たちからの賞賛を得た。ロップスは象徴主義・デカダン派の文学運動と関係を持ち、そうした作家たちの詩集にイラストを描いた。詩の内容同様に、ロップスの作品も、セックス、死、悪魔のイメージが混在する傾向が強かった』とある。なお、この前後の小穴隆一の謂い方は、近代(当時の現代)絵画の流れを芥川龍之介の感性的変化過程に応用指示した表現としてすこぶる興味深いものである。私は概ね、小穴隆一の評価に賛同出来る。特に私の偏愛する「ルドン」を最後に持っていっているのには激しく共感出来る

「十二貫五百」四十六キロ八百七十五グラム。

「一貫五百」五キロ六百二十五グラム。

「彼が犯した唯一つの過失」言わずもがな、秀しげ子との不倫関係。但し、「唯一の過失」であるかどうかは私は疑問に思っている。それは秀しげ子ともそうだし、別の女性との情交の猜疑という意味ででも「疑問」だという謂いである。]

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