小穴隆一「鯨のお詣り」(5) 「桃源」
桃源
[やぶちゃん注:本章は内容的に今は失われた花魁の太夫の礼式について記されており、非常に興味深いが、到底、私の手に負える内容ではないので、例外的に文字注以外は附さないこととした。言っておくが、私は京に疎く、ここに出る人名や屋号なども知らぬ。だから軽々に注は附さないということである。しかし、この分野の専門の方には貴重な記録であろう。その方が、満を持して注を附して下さるのを気長に俟つものである。なお、頭の唄はブラウザの不具合を考えて改行した。【2018年5月9日追記】ここで小穴を案内する「下鴨の幻華堂」(「幻華堂夫妻」とも出る)という人物は私自身、全く不明であったのであるが、本日、近代文学の研究者の方から、これは作家山田一夫であるという御指摘を戴いた。ネットで検索してみると、二〇一八年四月書肆盛林堂刊の「初稿 配偶――山田一夫モダニズム小説集 弐――」(片倉直弥編) の「第三部 エッセイ・短歌 他」の中に「幻華堂漫記」「幻華堂日記抄」という目次が見え、また、「ですぺら掲示板」の一考氏の「夢を孕む女 荷風と山田一夫 」という記事の中に、山田の作品集として昭和六(一九三一)年白水社刊の「夢を孕む女」、昭和一〇(一九三五)年岡倉書房刊の「配偶」が挙げられ、その装幀について、『『配偶』もまた前作品集』(「夢を孕む女」のこと)『と同じく一夫をして「華麗な底に渋味のある装幀」と言わしめた小穴隆一の手になる美しい木版画で飾られて』いる、とあるのを確認出来た(同記事には山田一夫の「夢を孕む女」の梗概が載り、その小説の中には「幻華荘」という邸宅が出ることも記されてある)。「はてなキーワード」の「山田一夫」によれば、明治二七(一八九四)年生まれで昭和四八(一九七三)年没の小説家・画家で、『京都の繊維問屋に生まれる。本名・孝三郎。同志社大学英文科卒』。大正五(一九一六)年に生家を相続』し、翌年に『ヨーロッパに留学』、『本業のかたわら』、『幻想的な小説を描き、また本名で絵や文学研究を行った』とある。御教授下さった方に心から御礼申し上げる。]
花の島原太夫(しまはらたいふ)さんの
道中藝妓(げいしや)仲居が出て招くか
やかやかやかやえらかやじや蛙(かはづ)
の聲と蚊の聲と寢られぬ廓(さと)の名
所かと太夫さんに聞いたらさうざますか
いかいかいかいえらか――じや
この唄は、備前擂鉢(すりばち)落すとわれるの替唄だといはれてゐます。御維新頃のものか、ともかく古い唄であるさうです。本の唄は、
備前捨鉢や落してもわれぬ津山(つやま)おかめ女郎衆(しう)は出て招くかやかやかやかやえらかやじや大黑柱が産(さん)すれば惠比須柱(ゑびすばしら)が腰を抱く出來たるその子が床柱かやかやかやかやえらかやじや。
であると聞きました。但し、このつやま、津山といふ字であるか如何(どう)かそこまでは知らぬと、鴨東(あふとう)の繩手新橋鹽野(しほの)のおかみさんも申します。大和建樹(おほわだたけき)が編者(へんしや)である日本歌謠類聚(につぽんかえうるゐしう)をみれば、薩摩國の盆踊唄のなかに、
洲山(すやま)おかめ女(ぢよ)はす山(やま)の狐尾(おを)振り尻振り人を振る
といふのがあります。つ山す山はかやかやとして、私(わたし)京育ちではありませんが、幼年時代に、びぜんすりばちおとすとわれる。かねのすりばちおとしてもわれぬ。と唄つて遊んだ記憶を持ちます。びぜんすりばちおとすとわれるゴロゴロゴロゴロドツシンといつて興(きよう)としてだうけた遊びでした。
[やぶちゃん注:太字「つやま」は底本では傍点「ヽ」。本章以降は「私」は読みを振らない総て、「わたし」と読んでいる。今までと異なるので、ここで注しておく。]
京都の島原は蚊の名所だといひます。私は知りませんが、少(すくな)くも廓(さと)のめぐりが田圃であつた昔はさもあらうと思はれます。
太夫は大名道具といふ言葉があります。私はこの言葉が含む内容を存じませんが、ゆくりなく角屋(すみや)の階上之(の)部、緞子(どんす)の間(ま)に於いて天井に一つ、一種の金具をみましたときに、これは大名がお泊りになつた時にその夜具を釣つたものだと、仲居に説明をして貰ひました。この仲居はんは、三十五年も角屋に働いてをるのださうです。病人でもない者が夜具を釣つてゐたとすれな、それは隨分重々しい夜具であつたことを想像します。太夫は大名道具、その當時は大名、豪客(がうきやく)でなければ手にあはぬ、江戸の吉原でいへばいりやまがたにふたつぼしのやうなもの、――であつたのどつしやろかといふ話です。
――一寸(ちよつと)話を逃げるやうでありますが、昨年の夏に、私は下鴨の幻華堂(げんくわだう)に誘はれて、
○舞妓
○島原}
○祇園}
○郷土風俗物賣女(きやうどふうぞくものうりをんな)
八瀨大原
白 川(白川女(しらかはをんな))
加 茂(の女)
畑(はた)の姥(うば)、梅ケ畑(はた)
[やぶちゃん注:二つの「}」は底本では二行に跨る大きな一つの括弧である。]
○石山
太秦(うづまさ)の贋隆寺(くわうりうじ)
(天平時代の作不空羂索(ふくうけんじやく)觀音の像)
西芳寺の林泉(りんせん)
愛宕(あたご)の下の淸瀧(きよたき)
龍安寺(りようあんじ)(相阿彌(そうあみ)の石庭)
○鷹ケ峰(光悦寺)
欲張つてこれだけを見學させてくれと賴んだのです。幻華堂は、舞妓(まいこ)、島原、祇園の華街風俗、つまり人物のはうは充分に引受けてくれましが、風景のはうをお留守にしてしまひました。其後(そのご)私は、今年の四月京都に行き、西芳寺(苔寺)を消し、更にこの七月は二十三もちがふ末の弟を連れてまた廣隆寺、龍安寺、を消してをります。
さて、隱詞(かくしことば)でタウゲン、昔からさういはれてゐるといふ島原、タウゲンとは武陵桃源のことでせう。太夫は大名道具ですか、原浩(はらひろし)及び圖師(づし)嘉彦兩工学士の「江戸時代傾城町と角屋の實測〕、角屋の〔波娜婀※女(はなあやめ)〕、岸田日出刀(ひでと)氏の〔島原の角屋〕、あとは繪葉書ブロマイドの類(たぐひ)を蒐集すればなかなかの學者となれるものを、松下英麿君は、ゑかきとしての印象記でもよろしい。何でもよろしい書け。といふ。うらめしいのは龍安寺廣隆寺であります。
[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。以下、読み難さを配慮し、漢詩の前後を一行空けとし、ルビは附さずに、その後に( )でそのルビに従った訓読文を附した(但し、個人的には従えない箇所が多い)。字空けは私の趣味で空けた。]
誰家玉笛暗飛聲 散人春風滿洛城
此夜曲中折楊柳 何人不起故園情
(誰(た)が家(いへい)玉笛か 暗(やみ)に飛ぶ聲
人(ひと) 散(さん)じ 春風(しゆんぷう) 洛城に滿つ
此の夜 曲中に楊柳(やうりう)を折る
何人(なんびと)か 故園(こゑん)の情を起こさざらむ
これは大雅堂の額の文字です。
ただいまでも、風來の客(きやく)はあげぬ。また散財はさせても藝人を太夫の客にはさせぬといふ角屋、客が藝人であるかないかを見破るのが藝妓の役と聞きます。岸田氏の文字を借用すると、「日本揚屋(につぽんあげや)建築として現存する本邦最古の遺構である。」角屋に幻華堂夫妻に伴はれたのは前に述べた昨年のことです。幻華堂は「かしの式(しき)」を見物させてくれたのです。角屋にあがつた人は、「枕一つをたのしみに。」の客であるとなしとは別にまた、一度はその部屋部屋を、こどもつさんの案内で見物するやうであります。こどもつさん、コドモシサンのこと、おちよぼをこどもつさんと呼ぶのは島原では角屋だけだと聞いてをります。机(つくゑ)龍之介が酒を酌(く)んでゐたのは、あれは翠簾(みす)の間(ま)でありませう。檜垣の間(天井)荒木檜垣組み、(障子)同斷、(襖(ふすま))蕪村筆夕立山水(小襖(こぶすま))長谷川等雲筆唐子遊びの畫(ゑ)、(額(がく))大雅堂書。私はここでこどもつさんに充分に手を伸ばして貰つて、その手の懷中電燈のあかりを明るくしてゐて貰ひました。私は書の眞僞を鑑別してゐたのではありません。私には大雅堂の物の眞贋の區別が出來ませうか。ただ誰家玉笛(たがいへのぎよくてき)と、大雅堂の書だといふ話に愉快を覺えて書寫しておいたのが御覽の如き詩なのです。
[やぶちゃん注:詩の前後を一行空けた。]
アル人(ヒト)男女(ダンヂヨ)ノ交リヲ問フ。
答へテ曰ク、男女ハ交ハルモノナリ。
大雅はアル人ではありません。答へテ曰クの禪師でもありません。それでありますから誰家玉(たがいへのぎよく)、笛暗飛(てきかやみにとぶ)、と三字づつにわつて行儀よくおだやかに丁寧に書いて渡したのだと思ひます。
[やぶちゃん注:以下の唄はブラウザの不具合を考えて改行した。前後を一行空けた。]
京の島原七つの不思議、這入口(はいり
ぐち)をば出口といひ、どうもないのに
道筋(だうすぢ)と、下(しも)へ行く
のを上(かみ)の町(まち)、上へ行くの
を下の町、橋もないのに端(はし)女郎、
社(やしろ)もないのに天神樣、語りも
せぬに太夫さん。
この唄も、花の島原太夫さんの道中、と同樣に、今は滅多に人の口の端(は)にものぼるものではなからうと思はれます。
島原の賑ひは、してまた角屋の壯觀は、新撰組か如何(どう)かは知れませんが、ともかく明治維新頃(ごろ)の豪傑が、その刀痕(たうこん)を柱にしるしてゐた時が終りでせう。少くとも、明治三十八年の四月、角屋で波娜婀※女(はなあやめ)(非賣品)の初版を發行した時あたりは、もはや末と申されぬのでありませうか、用もないことで別段聞きもしませんでした。
[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。]
「きつうよふといやすおきやくさんやらおいでやすとこつちやもふるいよわいもんどすさかいむりおへんしなあ、」
「おざしきのおさうぢがなかなかむつかつしをすなあ、」
「ふすまやらはらふのやつたら毛(け)のさいはらひではらへと御主人がおいやすのどつせ、」
「表具(へうぐ)やはんに月一ぺんみにきとくなはれとたのんどるのどすけれどなかなかきてくれはらしまへん、」
これが今日(こんにち)です。
「こつちやもふるいよわいもんどすさかい、」これが私の見た今日の角屋です。まことに、(日新(につしん)又日新)であります。各部屋部屋(へやべや)の岸駒(がんく)、峨山(がざん)、應擧、春甫(しゆんぽ)、蕪村の襖はみんな煤けきつた物であり、敗れ損じてをり、さうしてまたぼろぼろです。「襖から壁天井に至るまで角屋の部屋はみんな黑々と光つてゐる。」と岸田氏は書いてをります。しかし、如何(どう)も繪よりも建物の方は岩乘(がんじよう)です。天明以前のものだといふのですが。
珍しくもちやんと私のカメラに善く出合つた角屋の臺所口(だいどころぐち)の寫眞を、一枚ここに挿しいれておきます。臺所口はいへ見事なるものです。他は推して知るべしでせう。
世の中にはいろいろの學問があるものと思ひました。たとへば、緞子の間の疊は、自體京間)きやうま)の疊は大きいのですが、それよりもまたすこしたてがながいと、疊の方(はう)の人がいうてたといひます。緞子の間は二十何疊でせうか、(床(とこ))唐木(からき)一色(しき)、天井天竺織(てんぢくおり)、化粧棚地板(けしやうだなぢいた)龜甲形(きつかふがた)彫りつけ。とあるこの地板が二間(けん)の一枚板です。疊のたけがながい位(ぐらゐ)ですから二間は二間半の感じがあります。
古來の風習して揚屋には自(みづか)らを藝娼妓(げいしやうぎ)を抱ゆることなし、藝娼妓を抱ゆるものを別に小方業(おきや)と稱す。と波娜婀※女(はなあやめ)にもあるやうに、こつたいが角屋にごろごろとしてゐるといふわけのものではありません。廓(くるは)の中では太夫のことをこつたいと呼びます。昔の面影、それはどこか田舎の街道筋の古道具屋の店のなかか、どこぞのぼろぼろのなかからでも拾つた、やまと錦繪(にしきゑ)のやうなものでせうか。日新又日新すべては破れ損じてをります。客もまたタイル張りです。起握天下權(おきてはにぎるてんかのけん)ではありません。仰(あふ)げ大空(おほぞら)綠(みどり)をふんででありませう。取殘(とりのこ)されたぼろぼろのなか、私はただそこに、昔の繪師の微塵も搖るがぬ執着とその再現力に感じいつてゐた次第です。西洋の學問、人體(じんたい)及び遠近法を知らなかつ昔の繪師の眞(しん)迫眞の一手はおそろしいものです。
[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。]
太夫の體は、でつ尻(しり)鳩胸(はとむね)に仕立てあげるとか、京都在住の日本畫家が、言つてをりました。通常の人では勿論、藝妓でも、太夫の衣裳を着けてその姿の味をだすといふことは一寸むづかしいわけです。
太夫は十二名しかゐぬやうです。つまらぬことを申上げます。昨年の京都日日新聞の記事によると、江戸の吉原、兵庫の福原とともに昔から世に傾城三原街(げんがい)として區切られた一劃(くわく)、京島原の登錄娼妓總數が六百一名だといひます。
「面白の花の都や。」扇の間、この部屋に出る道具は、火鉢、烟草盆、燭臺等(など)に至るまで扇形になつてゐると、廓(くるわ)の老妓しげが語つてゐました。靑貝(あをがひ)の間は總建具殘らず靑貝です。「かし」「かしの式」? 一寸差(さしゑ)を御覽下さい。右の方の人物は見物客で幻華堂夫妻とお思ひ下さい。
――客は正面の席に坐す。末社は左右に列す。さて赤前垂(あかまへだれ)の仲居の心利(こころき)きたるもの一人盃臺さかづきだい)に盃をのせ、座敷の入口より一二間あなたに控へゐる。又その向うに一人硯と紙を持ち控へゐる。是は太夫天神の名を記すなり。さて太夫にても天神にても障子の外に彳(たゝず)む時、この禿(かむろ)さんかへと妓の名を呼ぶ。その時仲居かしておくれといふ。いづれも一調子高し。時に太夫しとしとと立出でて、盃臺の前に立ち=臺に突當る程なり=裲襠(うちかけ)の中程を右の方(はう)帶の結び目の下へかいこみ据(すわ)りながら左の裾を折りて左の方へ一尺ばかり寄りて斜(なゝめ)に据(すわ)る此時仲居彼(か)の盃臺を太夫の前にツと押しつけ何屋(なにや)の誰(たれ)さんと高聲(たかごゑ)に呼ぶなり。その時太夫しとやかに盃を取りあげ客の方を見て、持ちたる盃をばつとと臺の上へおく仲居その盃臺を一尺hなかりツと客の方へ押しやり。又高聲に誰さんと妓の名を呼び臺を元の所へおくとき、太夫ツと立ちて歸る。その所作至つてしとやかなるものなり。何人にても所作同じ。
と瀧澤馬琴はその羈旅漫錄の中に記してゐるさうです。
あんた‥‥太夫はん
あんた‥‥太夫はアーんといふ仲居の聲が、黑々と光つた部屋のなかにひびくのですが、さあ、ひびくといふよりはこもるといつたが正確でせうか。はちほんの簪(かんざし)を挿した太夫のながさきが燭臺の間にぴらぴらとします。簪と花簪は區別があります。又ながさきは長崎と書くのでせうか、唐人の風を移した簪でせう。太夫のいろいろとある髷形(まげがた)に錦祥女(きんしやうぢよ)といふ髷があります。
こつたいおさかづき
このあと、こつたいおめしかへの聲があがります。
こつたいおめしかへ
これで式は經ります。部屋調度すべて夏冬同一と聞きます。
汚れて油繪具の黑を塗つたうな光りの世界に式が行はれます。かしとは江戸ではひきつけのことなり。おひけとは京都ではいはぬ。おめしかへといふ。すべて斯樣な註釋はみんな鹽野のおかみさんにたづねたことでした。
かしの式の所作は、盃を持ち盃を置いて體(からだ)をそらしてじつと客の顏を見る、その時のウインク一つで客の心をとらへるのだといふのですが、ウインクといふ言葉は鹽野のおかみんが使つてゐたのです。こつたいのつツつつときまるその型(かた)は、いつ誰が定めたものか、尋常ながら微妙の注意をふくんであみ出されたものと思ひました。型の上手下手は、金絲(きんし)の袿襠(しかけ)よりも、また蠟燭のひかりに浮ぶ釵(かんざし)、ほの白い顏貌(かほかたち)よりも、大事のやうに見うけました。
太夫の服裝は、おひけになつてからのに風情があるのではないでせうか。おひけになつてからの略式、冬は縞(しま)のかいどりに縞の著物きもの)といふ話です。
[やぶちゃん注:以下の文はブラウザの不具合を考えて改行した。以下の署名は底本では五字上げ下インデント。]
小 太 夫
秋の夜(よ)長々しとは申せど分きて夕(ゆ
ふ)べなどは語る程なき別れ誠(まこと)に
かねて淺らぬ夕べの御現も辛(つら)き御か
へさにいたりて何事も空(あだ)なること情
けなく かしこ
[やぶちゃん注:最後の「かしこ」は本文に接続した続き仮名(合略仮名)で記されてあるが、正字化した。次の末尾も同じ。]
「昔しの遊女は詩歌管絃連俳茶香(さかう)鞠(まり)庖丁(はうちやう)碁(ご)雙六(すごろく)等(とう)に達せしものにて云々」と記してゐるのが既に德川の時代の書物です。
吉 野
よし左(さ)らばこのままよくも遠ざかれ我
は別れの又も憂(う)からんとは人の身の上
にこそ かしこ
遊女吉野が傳は曲亭馬琴も亦書いてをります。
私共は灰屋紹益(はいやせうえき)ではありません。
投節(なげぶし)けいせい、の
君はつらくと恨みはせまじ。心がらなる身の憂きを。
この方(はう)が餘程氣が樂であります。投節唱歌は貞享元祿の頃京都からはじまつて三都に流行した小唄です。
ゑうて枕す美人の膝を。せめて握るぞヨイヨイ。天下の權(けん)を。ヲヽサ
ヤツチヨロサンダイ
ををさやつちよろさんだい節といふもの御存知でせうか。日淸戰爭、丁度私共の生まれ當時あたりのものでせうか。一寸差畫(さしゑ)を御覽下さい。
花琴は太夫であるさうです。繪も花琴(くわきん)のでせう。實物を見ると醉眠美人膝起握天下權(ゑうてはねむるbじんのひざおきてはにぎるてんかのけん)。これが一遊女の筆(ふで)であるがためにでせうか、張(はり)きつた明治の時代、盛りあがるこころだてがあつて、可愛(かはい)らしい物です。勿論、これには、讃をしてゐる風流な相棒(あひぼう)があります。圍(かこひ)の間(ま)にあつた掛軸です。
しげが小首を傾けて、「左ぎつちよの三味線でもない。糸の音締(ねじめ)が下(した)が二本、上が一本のところ、繪ではあべこべでこんな三味線はなーい。撥もない。」といつてをりました。「何いつてがやんだい。」私は生憎斯樣な言葉の京言葉を知りませんが、花琴その者が生きてゐたとしたら存外、「大きの御世話。」とにらんだことでせう。
[やぶちゃん注:「花琴(くわきん)」最初の「花琴」にはルビがない。]
先輩木村莊八(しやうはち)は、居ながらにして天下古今(ここん)の風俗になかなか明るいやうです。私は銀座の夜店で購((か)つた「新よし原細見」明治物の一册、ただそれだけを大事にして、なかの寫眞について仲居としげに、一々江戸と京都の相違をたづねてみました。彼女等(ら)はです。あまり多くを指摘しませんでした。さうして、「新よし原細見」を珍しげにみてをりました。
私にとつてはつきりとしたことは、白地の裲襠(うちかけ)といふものは、關東からはいつた物だと聞いてゐ説を疑問としただけでした。また角屋が別に特別保護建造物であるわけのものではないといふことでした。
しげが裲襠の名をいろいろあげてゐたなかに、はつきり、「印度(インド)の天鵞絨(ビロード)」と言つてゐたその言葉を面白く思ひました。
印度の天鵞絨といつたものがあるのか如何(どう)か、また印度の天鵞絨か阿蘭陀(オランダ)の天鵞絨か、織物についてもその點私は甚だ無學でありますが、「印度の天鵞絨」といふ言葉ははれやかでした。
[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]
遊客の招聘(しらせ)擧れば太夫は直ちにそ
の揚屋まで夜具を運ぶ。昔は定紋つきたる葛
籠(つづら)に入れて運びしものの由なれど
も今は同じ定紋つき黑塗の長持となれり、長
持の取手(とりて)には太夫の名を記したる
駒形の札(ふだ)を結ぶ。
この駒形の札といふのが、四六判五百頁の書物よりも大きいのです。これがカタカタと鳴つて行交(ゆきか)ふ夜深けの風情は格別の物と聞きます。また説明を待つまでもなく、この長持が角屋の玄關の脇に、山のやうに高く重ねあげられた時の、その夜の壯觀は今日(こんにち)の者にも想像し得られるところです。然し、長持を遊ぶ習俗も、十幾年とか前に全く絶えてゐるさうです。祇園花街に住む鹽野のおかみさんも、歳去(としさ)り時移るこの姿を、「ははあ、」と感心してをりました。
角屋の入口には、今日でも古めかしい長持が三つ竝べて置いてあります。私はこれに腰を掛けて、臺所口がレンズを向け、先程御覽に入れた寫眞を撮つたのです。
玄關上り口の正面の壁に、昔そのままの刀掛があります。今日の客は、これに携ふるそのステツキをかけて、愉快とはしませんでせうか。
私はもうこれで今日のこの島原と角屋のお話を終りとさせて頂きます。あれも寫しておけ、これも寫しておけと、鹽野のおかみさんが、折角いろいろと氣を配つてくれたのですが、寫眞はまだ初心であり、いつも使用してゐるフヰルムをやめて、なまじ舶來のフヰルムを使つたばかりに、露出表をながめながら、その計算も間違へて、殆ど全部寫しそこねてしまひ、また話のはうも如何もうまくゆきません。
廓(くるわ)のことは廓の人に限るやうです。
鹽野のおかみさんですら、出口の柳のところで摩違(すれちが)つた女を、太夫だ、一人で歩いてゐるところは珍しいから撮つておけと言つてゐましたが、仲居としげの話では、太夫はけつして一人歩きはせぬ。太夫のやうな髷(まげ)に結つてゐたのならそれは白人(はくじん)であらう。(おくりこみの娼妓)白人の普通の娼妓で、太夫以外は絶對に齒を染めてゐないから、その區別はわかる。と説明されて恐縮してゐたやうなものです。
[やぶちゃん注:以下の追記は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]
追記。石井琴水(きんすゐ)氏の「傳説の都」の中に、「歷世女裝考(れきせいぢよさうかう)」からとして、御齒黑――近衞帝前の時代に於ける玉藻前(たまものまへ)の傳説以來、宮中に奉仕する公卿(くげ)や局方(つぼねがた)が皆(みな)鐡漿(かね)をつけるのは、人か狐狸(こり)(狐狸等(とう)の化生(けしやう)の物は、これがつかずと云ふ)かを區別する、その一定(てい)の標識であつたが、それが何時(いつ)しか一般民間の女房達の間に行はれたといふことが引用されてあつた。
« 小穴隆一「鯨のお詣り」(4) 「あをうなばら」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(6) 「山鉾のおもちや」 »






