小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」 /「二つの繪」パート~了
彼の自殺
[やぶちゃん注:本書の「二つの繪」パートの最後で、昭和三一(一九五六)年の単行本「二つの繪」の「芥川の死」の原型。後者でも本章が「二つの繪」パートの最後である。但し、大幅な増補が成されてあり、一方で、芥川家女中の証言と称するものへの小穴隆一による批判箇所などは逆に完全にカットされている。]
非常に草臥(くたび)れた自分である。眠(ねむ)らうとして睡(ねむ)れぬ自分である。亡き者として彼を考へねばならぬ。自分自らの今後も考へてゆかねばならぬ。もう一度、もう一度の最後を彼と持ちたい。さうは考へながらに、自分の部屋を一步も出る事は出來なかつた自分である。
それ程に怖かつた自分は、二十三日の彼に遂に會ひ得なかつた。
七月二十三日の夜は、寝苦しい、眠れぬ夜であつた。(藤澤の町で買つた自分の目醒時計(めざましどけい)は何時(なんじ)を示(しめ)してゐたのであらう?)窓を開(あ)けて空を見上げた時は、二十四日の朝、まだはつきりとせぬ夜明け前であらた。――さういふ習慣のない自分が、窓を開けたまゝにして復(ま)た布團の上に寢てしまつてゐた。
呼ばれてゐる聲に自分は目を覺(さま)したのかも知れぬ。「何だか變なのです、どうもやつたらしいのです。」部屋の入口の障子に手をかけた査まゝ廊下に立つてゐてさう言つてゐる葛卷を自分は見た。「何? 今日は日曜ぢやないか。」隣室の人達に氣を兼ねて聲をのむでゐる葛卷に、自分はさう言つてゐた。
(彼は人々に對して、曾ては、面會日として定めてゐた。然し、その約束も彼の晩年に實際には消滅してしまつてゐた。今日は日曜日ではないか。さう葛卷に言つてゐた自分を、自分は不思議と考へる。日曜に自殺をしないといふ確信? があつたのは、客があらう日曜には人騷がせをするやうな事は、まづ無いものと見込んでゐたのであらうか)
「兎に角すぐ一緒にきて下さい。」
――自分を促(うなが)して、葛卷は部屋に這入(はい)らなかつた。
「本當にやつたのか。」
「どうもさうらしいのです。」
葛巻と自分は顏を見合せて、下宿の外でまたかう言つてゐた。
葛巻義敏が語るところに依れば、二人は同時に、伯母は下島へ、して葛巻は自分のところに知らせに走つたといふ。義足をつけたりなにかしてゐる時間だけ、自分の馳せつけ方は下島醫師よりも遲れてゐたと思ふ。
[やぶちゃん注:以下は全体が本文同ポイントでしかも四角い枠で囲われている引用。ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。記事中の「なかなか」の後半は底本では踊り字「〱」である。]
┌――――――――――――――――――――┐
│筆者森梅子さんは、芥川家の女中さんです。│
│この手記は、家庭の人としての芥川氏やそ │
│の自殺の前後の模樣を記したもので、氏の │
│人となりを窺ふ貴重な材料であり、その自 │
│自殺の眞相を知る一つの鍵でもあります。 │
│文章もなかなか巧みなものです。 │
└――――――――――――――――――――┘
こゝに、彼に關する記事の誤つた物の一例として、芥川氏の死の前後、森梅子(週刊朝日第十一卷第七號)を自分はあげておきたいのである。
[やぶちゃん注:丸括弧の書誌情報は底本ではポイント落ち。私はこの二人の女性も知らず、この記事は未見なので、小穴隆一の批判の当否は言えない。]
借りてこゝに示すが如く、「芥川氏の死の前後」なる一文を、梅子、春駒(はるこま)、姉妹二人を姉妹二人を駆使して得た週刊朝日の記者の鼻の先には、たゞ敏腕だけがぶらさがつてゐるのである。その妹梅子の話を種(たね)として、森春駒の才筆には巧なるものがある。――自分は、七時ごろ小穴樣がお出(いで)になり、先生の死の御顏を寫生していらつしやつた。なぞのところ、上手と思ふ。(芥川夫人に聞けば、「えゝあれはあの時、齒が痛いと言つて、宿に行つてて家(うち)に居りませんでした。」といふ女中梅子の描寫である。)
[やぶちゃん注:歯痛のために宿下がりをしていていなかったはずの女中梅子が居たことになっているというのである。因みにお分かりとは思うが、「週刊朝日の記者の鼻の先には、たゞ敏腕だけがぶらさがつてゐる」の皮肉は、芥川龍之介の辞世とされる自死後、下島空谷勲に与えられた短冊の名句、
自嘲
水洟(みづばな)や鼻の先だけ暮れ殘る
を利かせた皮肉である。]
「たうとうやつてしまひましたなあ。」
二本目の注射をすませた後(のち)の、丁度、注射器を取片づけかけるところの下島醫師は、突立(つゝた)つたまゝの自分にさう聲をかけた。
――その時お茶を貰つた。從つて、家人は取亂した姿ではなかつた。何日(いつ)かは死ぬ。彼のその豫告の期間が餘りにながすぎた事は、悉く、人の神經を草臥(くたびれ)させてゐたとも言へる。更に葛卷の言葉をもつて借りれば、彼は、自分が死んでも、すぐに知らせると小穴は周章(あは)てるから、なるたけゆつくり知らせろと言つてゐたといふ。死にゆく彼の心持さへ自分が考へる言葉だ。
「如何(どう)したものでせう。」
どちらでもよろしいやうに私(わたし)はします。と、言つてゐた醫師下島の言葉は、彼の死を病死として屆出(とゞけだ)すか、又は有儘(ありのまゝ)にこれを發表するかといふ尋ねであつた。下島が迷つたのは、自殺として發表するもよし。病死となすもよし。――死んだ者が書殘していつたこの文辭(ぶんじ)に依つたのであらうか?
「どちらでも」
醫師として職業上の不正を犯せ、とは言えぬ自分の答(こたへ)であつた。自殺? 病死? いづれの形式をとるべきかは、馳付(かけつ)けた久保田万太郎の顏を見た時に、おのづと決定した自分は、文壇の人々では、比較して近所に住む久保田の顏を第一に見たとしてゐる。
[やぶちゃん注:小穴隆一特有の変に捩じれた表現はママである。]
E十號の畫布に、木炭で、芥川龍之介の死顏(しにがほ)の下圖(したづ)をつけてゐた。
繪具を着(つ)けるの?
着けないの?
彼の長子比呂志は、さう心配して畫架(ぐわか)のまはりをうろついてゐた。雜記帳と鉛筆を持出してきて、自分でも自分のやうに寫(うつ)したかつたのであらう、眠れるその父の枕頭に立つてうろうろとしてゐた。
[やぶちゃん注:「E十號」キャンバス・サイズに「E」というのは聴かない。単行本「二つの繪」の「芥川の死」の方では正しい人物サイズの『F十號』となっている。この「E」は「F」の誤植であろう。]
づかづかと檢屍官一行が彼の枕邊(まくらべ)に來た頃には、「死んだ後(のち)、若(も)し口を開(あ)いてゐるやうであつたら、なるべく開いてゐないやうに賴むよ。」と、言つてゐた日頃の彼を勘考(かんかう)して、その彼の顏の構造を、じつくり見なほして寫す餘裕が持てた自分であつた。「出(で)つ齒(は)でせう。だから眠つてゐると口をあいてゐるんです。」といふのが彼の顏に對する、愛すべき葛卷の批評である。往年、自分が二科會に出品した「白衣(びやくい)」の時には、西洋の文人、自身の一家一族の人の寫眞に至るまで、どつさり見せて、やつぱり、立派に畫(か)いて呉れ、と言つた。「白衣(びやくい)」とは彼が名付けた題である。處士(しよし)といふ意であると説明してゐた。
[やぶちゃん注:「白衣(びやくい)」二箇所で「びやくい」(現代仮名遣「びゃくい」)とルビを振っているが、これは誤りで、「はくい」と読まねばならない。単行本「二つの繪」に追加された随筆「月花を旅に」の最後の注で小穴隆一自身が、
註「白衣」芥川は、白衣といふ畫題をつけて、びやくと讀まないで、はくいと讀んでくれたまへ、處士といふ意味があるのだといつてゐた。
と附言しているからである。ではここで小穴隆一は何故間違えたんだとのたもう御仁も有るかも知れぬが、そういう方は、泉鏡花のように自分で原稿にも丁寧にルビを振った作家は近代以降では実はごく少数派で、ルビは多くの場合、校正者の宰領に任されていたことを御存知ないか。発表が総ルビでも芥川龍之介の自筆原稿ではルビはまず少ない。堀辰雄は最初の岩波の元版全集の編集者として、ルビを総て廃除するという強い提案をしたが、編集会議で斥けられてしまっている。彼が何故、そんな主張をしたのか? ルビは多くが作者の与り知らぬ、余計なものだったからである。ここも勝手に校正者がそう振ってしまった可能性を排除出来ないであろうし、後の「月花を旅に」での追記を見ても、小穴隆一は一貫して「白衣」を「はくい」と読んでいたと考えることに何等の齟齬はないのである。]
其儘(そのまゝ)に、と言つて警察の人は、彼を寫す自分の仕事に對して妨(さまた)げはしなかつた。
一應は點檢されてゐる芥川の體(からだ)を、固まりかけたと橫目で見た。部屋は雨氣(うき)で暗かつた。自分で彼が建增(たてま)した書齋兼寢室は、晴天の日でも明(あかる)くはない。あの部屋では平生(へいぜい)頭(あたま)を北にして寢てゐたやうである。
「幸(さいはひ)に、今日(けふ)は日曜で夕刊は休みだし、新聞には明日(あす)になるだらう。」
さう語りあひながらわれわれは彼の友達が皆集(あつま)るのを待つてゐた。(愛宕山の人である久保田万太郎はじめ、誰(だ)れもラヂオに思ひおよばなかつたと思ふ。自分は後(のち)に、東北に居てラヂオで彼の死を知つたといふ人の話に、さうかと感心した。)。文壇の人なほ三四を見る頃には、意外に速い新聞記者の訪問をわれわれは受けた。日曜日といふ潛在意識は、警視廰(?)に遊びに出かけて行つた者が、偶然にも、變死人(へんしにん)としての芥川龍之介を知つたといふ。日日(にちにち)(?)の記者によつて崩れ返つた。
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