小穴隆一「鯨のお詣り」(26) 「二つの繪」(15)「友二三名について」
友二三名について
[やぶちゃん注:以下は「二つの繪」の「友人」の原型であるが、「二つの繪」でその次に独立章として配されてある「交靈術」も、ここにカップリングされてある。]
○ 恒藤恭(つねとうやすし)。その社會思想方面の問題では、彼が、兄事(けいじ)してゐた人の訪問を知つてはゐても、二人の間の話は全然一言(こと)も傳へる事が出來ない。何故ならば、一言もその話について彼は僕に語つてゐないからである。
○ 宇野浩二。この宇野の訪問の場合についても同然である。「何(な)に。宇野が來た?」と顏色を變へた彼を知るだけである。
○ 菊池寛(くわん)。夜の藤澤町の往來で、
「菊池は軍資金を出してやるから遊蕩(いうたう)しろと勸めるのだがね。如何(どう)だい、二人分の金を貰つて二人でこれから遊蕩を始めようか。」
さういふ彼と顏を見合せて、同時に吹出(ふきだ)した。遊蕩兒の素質は充分に持ち合せてゐたとしたところが下戸の二人である。
(菊地寛らしい親切とは思つた。)
○久米正雄 これは甚だ奇妙である。一日(じつ)、必要以上にSの話を始めた彼は、閨房に於けるSを語って後に、‥‥畢竟、無論今日の久米正雄が左樣であるといふのではない。血氣未だ定まらざる時の久米が、好きな女と對坐をして話をする、ただ單にそれだけで既に起こす生理的現象を、正直に芥川龍之介に話してゐた、それを物語つて、總ての男子が果皆左樣なものであるのか。と眞劍に返答を求められたのである。
――彼自身は、「自分にはそんなことはなかつたがね。」と言つてゐた。(其時に何故(なぜ)か僕は、昔、そのサムホール――小型油繪具箱――を久米と一緒に買つて房州に行つて、はがきに描(か)いて、夏目さんに送つたものだよ。といつてゐた彼の友、久米正雄の若き日の姿を目に浮かべてゐた。)
[やぶちゃん注:「Sの話を始めた彼は、閨房に於けるSを語って後に、‥‥」「S」は秀しげ子。「彼」は芥川龍之介を指すので注意。点線部は、後の「二つの繪」の「友人」の久米の項で、『芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つた』という、芥川龍之介の遺書の小穴隆一宛に出現する『秀夫人の』『動物的本能の烈しさは實に甚しいものである』に相応しい、閨房での激しい秀しげ子の行動として苛烈に復元されている。
「久米と一緒に買つて房州に行つて」大正五(一九一六)年八月十七日から九月二日まで芥川龍之介は久米正雄と千葉県一の宮の一の宮館に滞在している。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この間、『夏目漱石からは久米との連名宛を含め四通の書簡をもら』っており、夏目金之助宛芥川龍之介書簡としては滞在中の様子を綴った八月二十八日附一通が残る(旧全集書簡番号二二三。但し、これは手紙で絵葉書ではない)。この時の体験を元に「海のほとり」(大正一四(一九二五)年九月『中央公論』初出。以上のリンク先は私の古い電子テクスト)「微笑」(大正十四年十月十五日附『東京日日新聞』の『文藝』欄初出)こちらのリンク先は「青空文庫」のそれ。但し、新字旧仮名)が書かれた。]
○ 佐佐木茂索。新年號に近づく頃、文藝春秋で度々(たびたび)人をよこしていろいろ書かせるが、これは自分がこの頃(ごろ)書かないでゐる、それで困つてゐるだらうと思つて、みんなそれは佐佐木が心配して、菊池寛に話してゐて呉れてるんだらうと思ふんだがね。‥‥。」とまで言つてゐたその佐佐木に、彼が、
「俺はもう佐佐木とは絶交だ。」
と、怒つた事がある。(佐佐木はそんな事は知らなかつた。)
何雜誌か、新聞に出てゐた廣告に、生きてしまつた人と 佐佐木茂索 の活字を朝起きぬけに見付けたからである。(讀まずに悉く自身のことと思込(おもひこ)んだのである。)
尤も、佐佐木茂索それ以前に鵠沼に來て、「ああたまらん。」そのたまらん話を彼に、一寸(ちよつと)聞かされてゐたのである。
○ 僕に對する。「○○○さんのためにも僕はO君の新秋を書いたよ。」と言つてゐた。
「ワーグネルが獨逸(ドイツ)一國に値(あたひ)するその名譽よりも、乏しいなかにもほの暖(あたゝか)い晩餐を欲してゐたその氣もちはわかるよ。」云々。これはミゼラブルな彼がミゼラブルな僕に「死ぬ話。」のついでに言つた言葉である。(但し自分は彼によつて引合(ひきあ)ひに出されてゐたワーグネルの不幸に對し、未だに恐縮しつづけてゐる者である。)
[やぶちゃん注:後掲される「M女」の章で、小穴隆一はこの「ワーグネル」は「ゲーテ」が正しかったと言っている。しかし、後の単行本「二つの繪」の「友人」では、やはり「ワーグネル」のままである。不審。]
以上のメモワールを書取つて自分は逡巡する。――さうして、エアーシツプを捨てて、五六日前に神戸の叔父が置いて行つて呉れた四本の葉卷を、寺子屋机(てらこやづくゑ)の上で撫でてゐる。四本の葉卷に四色の味があらう異つた四本である。
[やぶちゃん注:「エアーシツプ」国産煙草の銘柄。「たばこと塩の博物館」公式サイト内のこちらによれば(現物の画像有り)、明治四三(一九一〇)年に缶入り五十本で発売されたもので、この年に本邦上空を始めて飛行機が飛んだことに由来する名と伝えるとある。後に、十本入り小箱も発売された、とある。
「神戸の叔父」先行する「あをうなばら」を参照されたい。
「寺子屋机」百聞は一見に若かず。グーグル画像検索「寺子屋机」をリンクさせておく。私は納得。]
この〔鵠沼〕に、常例を破って、「梅・馬・鶯」の裝幀を佐藤春夫に賴んでゐた氣持ちの彼。
[やぶちゃん注:「常例を破って」芥川龍之介の後期の単行本の装幀は、その殆んど小穴隆一に託していることを「常例」と言ったもの。
次の段落以降が、「二つの繪」版では「交靈術」として独立章を成すものの原型となる。]
藤澤劇場に奇術、交靈術、オペラコミツクの一座が掛つた時があつて、それを見物に蒲原春夫(かんばらはるお)と僕を伴(ともな)つて行つた彼が、交靈術の實演に取掛(とりか)かる前に當つて觀客一同に、靈魂の不滅を説き來たり説き去る、而してその演じよう術の如何に高遠(こうゑん)な道に根ざしたものであるかを、演説しつづけてゐた猛獸使ひの如き面魂(つらだましひ)の座長に對しては、死にぬことばかり考へてゐた彼の奮激おく能(あた)はざるものがあり、座長が見物席よりさくらを呼ぶのを見るに至つて遂に、「歸へりに酒を飮ませるから君が出ろ。」と傍はらの佐賀縣人蒲原に命じ、蒲原が躊躇するに及んではこれを叱咤して舞臺に送つた時の彼の相貌(靈魂不滅を信ぜぬ彼とても「俺が死んだら大雨を降らせてやる。」とその家人に言ひ、「俺が死んだらあの世で君を護つてゐてやるよ。」等の言葉を僕に吐いている。)
――さうして蒲原は結局、心理狀態が適さぬ者として、舞臺から追返(おひか)されてきたものえだるが、その蒲原を歸途遊廓に伴込(つれこ)み登樓して、宿泊帳に彼自らが署名して(假名(かな)であつた。)金子(きんす)を支拂ひ、蒲原一人をそこに留(とゞ)めて早々に退去したあの彼、蒲原をして恐怖を感じさせてゐた彼、して翌夜(あくるよ)復(ま)た、夫人と僕とを伴れて前夜の藤澤劇場に一座を見物した彼の心理、或は「沙羅(さら)の花」以來「支那游記」に至るまでの彼の著書の、表文字(おもてもじ)を書いてゐた妹(いもうと)尚子(ひさこ)が危篤で歸京する僕を藤澤驛まで送つてきた彼、――町で一束の薔薇を呉れた彼。――改札口では二人とも淚を浮かべて別れた。――自分が溜息と共に東京へ向つて動き出した車内を見廻した時に、前方の車のはうから見覺えのある顏が笑ひながら步るいてくる。(全くその時はさうしか感じなかつた。)それがその人間が先刻(さつき)別れた芥川龍之介であつた事や、走りつづける汽車の内(なか)で、如何(どう)しても奧さんに申譯(まうしわけ)がないから、「直ぐ降りて鵠沼へ歸つてくれ。」といふ自分と、「一晩でも君と離れるのはいやだ、」と、ふて腐れて座席に橫たはつてしまつた彼、結果、痔の痛みに堪へかねて、自分も大船か橫濱かの區別の記憶は失つてゐるが、どちらか、そこで泣顏をして一人で下車して鵠沼へ戾つた、左樣な彼。又は、もつと日常の些細な事に、當時の彼の姿を再現すべく重要ではある役割の言葉を書落(かきおと)してゐる。――自分はそれを認めながらここに書落す。――
[やぶちゃん注:最後に意識的書き落とすこととするという内容は、或は「二つの繪」の「交靈術」のこのシークエンスの最後に記してある小穴隆一の芥川龍之介に対する印象、『一見颯颯とした趣きのあつた芥川のああいつたあまえつ兒のやうなところは、生れるときにもつてついた宿命のやうなものによるのか、芥川にはやはり芥川が言つてゐた姉さん女房いつた女房がよかつたのであらうか、麻素子さんあたりには、僕に夫人をベタぼめにほめてゐたやうにほめてゐたものか、多分多少のちがひもあらうかと思はれる』を指すのかも知れぬ。]
又、自分と前後して鵠沼に移住してゐた彼の弟新原得二(にひはらとくじ)、(この人も今では故人となつてゐる。)この人物について、彼に及ぼし、加ふるに當時彼の姉の夫で鐡道自殺してしまつた西川辯護士、等々(とうとう)にもぶつかつてゆかなければこの〔鵠沼〕は噓である。然しながら、この方面の事に關しては、昭和二年七月二十四日の朝には死體となつてゐた彼が、前日の二十三日朝に、「俺はお前が可愛いあら、お前から先に殺してやる。」と勝手で顏を洗つてゐた葛卷の頭上に、出齒包丁を逆さにして擬したといふその彼が、可愛がつてゐた甥の少年、今日(こんにち)の葛卷義敏に依つて當然書かるべき性質のものであるとも考へられる。
故に自分は逡巡する。
(自分は再びここで破れかぶれの古手帳を擴(ひろ)げてゐる。)
[やぶちゃん注:「自分と前後して鵠沼に移住してゐた彼の弟新原得二」今まで注するのを忘れていたが、芥川龍之介の異母弟(実母フクの妹フユとの間の子)新原得二は大正一五(一九二六)年九月上旬に一家で鵠沼に移住してきている。元々関係の良くない弟であったから、龍之介にはいらぬ煩いの種となってしまったのであった。因みに小穴隆一の鵠沼移転はそれに先立つ一月ほど前の同年七月末であった。
『「俺はお前が可愛いあら、お前から先に殺してやる。」と勝手で顏を洗つてゐた葛卷の頭上に、出齒包丁を逆さにして擬した』この衝撃の内容は、そのシークエンスから考えても葛巻義敏自身が語らない限り知られ得ないことであるが、よく知られている事実とは私には思われない。葛巻がこの恐るべきホラー染みた事実について語っているという話も私は聴いたことがない。それは私の不学であり、そのような葛巻の叙述があるのであれば、どうか御教授下されたい。]
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