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2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」

 

  執念の轉化

 

 或家で僕を手討ちにしなければならぬことになつた。本當はそれほど大きな罪でもなかつたのであるが、この男を斬らぬと、人に對して義理の立たぬ事があつたので、已むを得ず刀の錆にせざるを得なかつたのである。僕は怨み且つ憤り、私は何も手討ちになるほどの罪があるわけではない、死後に祟りをなして、取り殺さずには置かぬといふ。その時主人は笑つて、その方にわしを取り殺すことが出來るものか。もし出來るといふなら證據を見せい、これから首を刎ねる時、その首が飛んで庭石に嚙み付いたなら、その方が祟りをなす證據としよう、と云つた。然るに刎ねられた首は、主人の云つた通り石に嚙み付いたから、家内の者の恐怖は一通りでなかつたが、祟りは一向にない。或人がその理由を尋ねたら、主人の答へはかうであつた。あの男は初め祟りをなして、わしを取り殺さうといふ心が切(せつ)であつたが、後には石に嚙み付いて證據を見せようといふ志が專らになつた、首を刎ねられる刹那には、己に祟りをなすことを忘れて居つたから、何事もないのだ。

 小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる。「小泉八雲全集」はその出所を記して居らぬが、多分右に擧げた「世事百談」の話に據つたものであらう。「世事百談」は天保十四年の刊本であるが、この話の先蹤と見るべきものが、享保十七年刊の「太平百物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:『小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる』これはKwaidan(一九〇四年)のDiplomacyDiplomacy:情勢を繊細且つ巧みに処理すること・公務の処理における賢明な行動・外交・外交的手腕・外交上の駆け引き・国家間交渉/他者との交渉上の駆け引き/如才なさ/礼儀の意。ラテン語で「旅券・公文書」を語源とする。原文を、英文のテクスト・サイトのこちらにあるものを一部に手を加えて示す。

   *

DIPLOMACY

IT HAD BEEN ORDERED that the execution should take place in the garden of the yashiki. So the man was taken there, and made to kneel down in a wide sanded space crossed by a line of tobi-ishi, or stepping stones, such as you may still see in Japanese landscape-gardens. His arms were bound behind him. Retainers brought water in buckets, and rice-bags filled with pebbles; and they packed the rice-bags round the kneeling man ― so wedging him in that he could not move. The master came, and observed the arrangements. He found them satisfactory, and made no remarks.
   Suddenly the condemned man cried out to him: 
"Honored sir, the fault for which I have been doomed I did not wittingly commit. It was only my very great stupidity which caused the fault. Having been born stupid, by reason of my karma, I could not always help making mistakes. But to kill a man for being stupid is wrong ― and that wrong will be repaid. So surely as you kill me, so surely shall I be avenged; ― out of the resentment that you provoke will come the vengeance; and evil will be rendered for evil."
   If any person be killed while feeling strong resentment, the ghost of that person will be able to take vengeance upon the killer. This the samurai knew. He replied very gently ― almost caressingly: 
"We shall allow you to frighten us as much as you please ― after you are dead. But it is difficult to believe that you mean what you say. Will you try to give us some sign of your great resentment ― after your head has been cut off?" 
"Assuredly I will," answered the man.
 
"Very well," said the samurai, drawing his long sword; ― "I am now going to cut off your head. Directly in front of you there is a stepping-stone. After 
your head has been cut off, try to bite the stepping-stone. If your angry ghost can help you to do that, some of us may be frightened. . . . Will you try to bite the stone?"
 
"I will bite it!" cried the man, in great anger ― "I will bite it! ― I will bite ―
There was a flash, a swish, a crunching thud: the bound body bowed over the rice sacks ― two long blood-jets pumping from the shorn neck; ― and the head rolled upon the sand. Heavily toward the stepping-stone it rolled: then, suddenly bounding, it caught the upper edge of the stone between its teeth, clung desperately for a moment, and dropped inert.
   None spoke; but the retainers stared in horror at their master. He seemed to be quite unconcerned. He merely held out his sword to the nearest attendant, who, with a wooden dipper, poured water over the blade from haft to point, and then carefully wiped the steel several times with sheets of soft paper…. And thus ended the ceremonial part of the incident.
   For months thereafter, the retainers and the domestics lived in ceaseless fear of ghostly visitation. None of them doubted that the promised vengeance would come; and their constant terror caused them to hear and to see much that did not exist. They became afraid of the sound of the wind in the bamboos ― afraid even of the stirring of shadows in the garden. At last, after taking counsel together, they decided to petition their master to have a Ségaki-service performed on behalf of the vengeful spirit.
 
"Quite unnecessary," the samurai said, when his chief retainer had uttered the general wish. . . . "I understand that the desire of a dying man for revenge may be a cause for fear. But in this case there is nothing to fear."
   The retainer looked at his master beseechingly, but hesitated to ask the reason of this alarming confidence.
"Oh, the reason is simple enough," declared the samurai, divining the unspoken doubt. "Only the very last intention of that fellow could have been dangerous; and when I challenged him to give me the sign, I diverted his mind from the desire of revenge. He died with the set purpose of biting the stepping-stone; and that purpose he was able to accomplish, but nothing else. All the rest he must have forgotten. . . So you need not feel any further anxiety about the matter."
   And indeed the dead man gave no more trouble. Nothing at all happened.

   *

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「はかりごと」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認することが出来る。

 なお、本作は、偏愛する平井呈一氏(一九六五年岩波文庫版及び一九七五年恒文社刊「小泉八雲作品集」)・上田和夫氏(一九七五年新潮文庫刊「小泉八雲集 怪談・骨董 他」)は孰れも「かけひき」で、私の小学校時代の小泉八雲原体験書である一九六七年角川文庫版田代三千稔氏訳「怪談・奇談」では「はかりごと」で、講談社学術文庫版「怪談・奇談」の平川祐弘氏訳では「策略」となっている。柴田の謂う、その訳標題は、第一次の小泉八雲全集(一九二六年第一書房刊)での田部隆次の訳「術數」を指しているものと思われる。因みに、小泉八雲直弟子のその田部氏の同作の訳(先の全集版と全く同じかどうかは不明だが、表題は同じく「術數」である)は、後の一九五〇年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」に載り、「日本の名作名文ハイライト」の「電子テキスト」のこちらPDF版)で入手出来、読める。

 柴田が指す「世事百談」のそれは「卷之三」に載る「欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散ず」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 欺て寃魂を散ず

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因となれる如く、狂氣するものも金銀(きんぎん)のことか。色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云(いふ)を、さにあらず、家業(かげふ)といへども殺生(せつしやう)の報(むくひ)はあることゝて、庭なる露しげくおきたる樹(き)をゆり見よとこたへけるま1、やがてその木(こ)の下(もと)に行(ゆき)て動(うご)しければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云やう、怨みのかゝるもその如く云(いひ)つけたる人よりは太刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや。諺(ことわざ)にも盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩(なは)とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話(はなし)あり。何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、指(さし)たる罪なかりしが、その僕を斬(きら)ざれば(ひと)人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人その僕を手討(てうち)にせんとす。僕、憤り怨(うらみ)て云(いふ)、吾(われ)さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟(たゝ)りをなして、必(かならず)取殺(とりころ)すべしと云(いふ)。主人わらひて汝(なんぢ)何(なに)ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや。といへば、僕、いよいよいかりて、見よとり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の證(しよう)もなし。今その證を我に見せよ。その證には汝が首を刎(はね)たる時、首飛(とん)で庭石に齧(かみ)つけ。夫(それ)を見ればたゝりをなす證とすべしと云(いふ)。さて首を刎(はね)たれば、首飛びて石に齧(かみ)つきたり。その後(のち)何(なに)のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、僕初(はじめ)にはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切(せち)なり、後には石に齧(かみ)つきてその驗(しるし)を見せんとおもふ志(こゝろざし)のみ專(もは)らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)たるによりて祟(たゝり)なしといへり。

   *

「天保十四年」一八四三年。

「享保十七年」一七三二年。

「太平百物語」菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。大坂心斎橋筋の河内屋宇兵衛を版元とする。五巻五十話。目次の後には後編を後に出す旨の記載があり、真正の百物語にするつもりがあったかなかったか知らぬが、後編未刊である(よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない。リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附))。以下は同書の「卷一 四 富次郎娘蛇に苦しめられし事」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。挿絵も添えた。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに添え、必ずしも参考底本には従っていない。事実、原典が歴史的仮名遣を誤っている部分もあるからである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「步(ほ/あゆみ)」は原典の読みルビと左ルビとしてある意味風添書きを示したもの。

   *

       四 富次郎娘蛇に苦しめられし事
 

Mtomijiroumusumehebi

 越前の國に富次郎とて代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持ちたる人有り。此富次郎一人の娘をもてり。今年十五歳なりけるが、夫婦の寵愛殊にすぐれ、生れ付きもいと尋常にして、甚だみめよく常に敷島の道に心をよせ、明暮れ琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。或る時、座敷の緣に出(いで)て庭の氣色を詠めけるに、折節初春の事なれば、梅に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

  わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

   風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや聞きて、「げにおもしろくつゞけ給ふものかな。御身の言の葉にて、わらはもおもひより侍る」とて、取りあへず、

  春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝になきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠じられければ、此娘聞きて、「實(げ)によくいひかなへさせたまひける哉」と、互に親子心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小蛇(こへび)壱疋(いつぴき)するするといでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上るほどに、「あらおそろしや」と内(うち)にかけいれば、蛇も同じく付いて入る。人々あはて立ち出でて、杖をもつて追ひはらへども、少しもさらず。此娘の行く方にしたがひ行く。母人(はゝびと)大(おほ)きにかなしみ、夫(をつと)にかくと告げければ、富次郎大きにおどろき、從者(ずさ)を呼びて取り捨てさせけるに、何(いづ)くより來たるともなく、頓(やが)て立ち歸りて娘の傍(そば)にあり。幾度(いくたび)すてゝも元のごとく歸りしかば、ぜひなく打ち殺させて、遙かの谷に捨てけるに、又立ち歸りてもとの如し。こはいかにと切れども突けども、生き歸り生き歸りて、なかなか娘の傍を放れやらず。兩親をはじめ家内の人々、如何(いかゞ)はせんと嘆かれける。娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果て、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱山伏ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞き給ひ、不便(ふびん)の事におぼし召し、富次郎が宅に御入(おい)り有りて、娘の樣體(やうだい)、蛇がふるまひをつくづくと御覽あり、娘に仰せけるやうは、「御身(おんみ)座を立ちて、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行くべし」と。仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たす)けられ、二十步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、蛇も同じくしたがひ行く。娘とまれば、蛇もとまる。時に長老又、「こなたへ」とおほせけるに、娘歸れば蛇も同じく立ち歸る所を、長老衣の袖にかくし持ち給ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此蛇が敷居をこゆる所をつよくおさへ給へば、蛇行く事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り木刀に喰ひ付く所を、右にひかへ持ち給ひし小劍(こつるぎ)をもつて、頭を丁(てう)ど打ち落し給ひ、「はやはや何方(いづかた)へも捨つべし」と。仰せにまかせ、下人等(ら)急ぎ野邊(のべ)に捨てける。其時長老宣(のたま)ひけるは、「最早此後(のち)來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ兩親のなげきおもひやり侍るなり。今よりしては心やすかれ」とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏し拜みけるが、其後は此蛇ふたゝびきたらず。娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事かぎりなし。「誠(まこと)に有難き御僧(おんそう)かな」とて、聞く人感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では全体が一字下げ。]

評じて曰く、蛇木刀に喰ひ付きたる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび娘に付く事能(あた)はず。是れ倂(しか)しながら知識(ちしき)の行なひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一箇(いつこ)に限らず萬(よろづ)の事におよぼして、益ある事少なからず。諸人よく思ふべし。

   *]

 越前國に住む富次郎といふ分限の一人娘が、庭の梅の花を見て歌などを詠んでゐる時、時ならず這ひ出た小蛇に魅入られた。幾度取り捨てさせても歸つて來る。是非なく打ち殺させて、遙かの谷に捨てさせたが、立ち歸ることに變りはない。兩親はじめ家内の人々は深く悲しみ、娘はこれがために次第に弱つて、命も危くなつた。諸寺諸社への祈禱、山伏や聖(ひじり)の呪(まじな)ひ、あらゆる手段を講じて見たけれど、更に驗らしいものが見えず、今は死を待つばかりとなつた時、永平寺の長老が富次郎の宅に來られ、つぶさに樣子を見屆けた上、娘に向ひ、御身座を立つて向うの方に步み行くべし、と命ぜられた。娘は瘦せ細つた身を起し、漸う人に扶けられて二十步ばかり步くと、蛇も同じやうについて行く。娘が止まれば蛇も止まる。今度は此方へと命じ、娘が歸るに從つて蛇も歸るのを、長老は衣の袖に隱し持つた一尺餘りの木刀で、蛇に敷居を越えさせず、強く押へてしまつた。蛇は先へ進むことが出來ないので、木刀を遁れようとしたが、愈々強く押へられて、詮方なさに木刀に喰ひ付いた。その時長老、小劍を以て首を打ち落し、早くどこへでも捨てよと云ひ、下人等が急ぎ野邊に捨てたのを見て、もうこの後來ることはない、御安心あれと挨拶して歸られた。果して蛇は再び來ず、娘も日を經て本復したから、一同よろこぶこと限りなく、感淚を流して長老を有難がつた。

「太平百物語」はこの話に特に評を加へて、蛇は木刀に食ひ付くうち、暫く娘の事を忘れた、その執心の去つたところを首を打ち落したから、再び娘に取り付くことが出來なかつたのである。名僧智識の行ひで、凡慮の及ぶところでないが、この理はこれだけに限らぬ、萬事に及ぼして益あることが少くない、諸人よく思ふべしと云つてゐる。評の意は僕を手討ちにした主人の言葉と同じであるが、二つの話を比較すれば、「太平百物語」の方が遙かに面白い。單に殺す者が人間と異類との相違があるだけではない。一方はそれほどの罪でないのを殺すといふのが不愉快である上に、祟りをなすならば證據を見せよなどと云ひかけ、僕の心の轉化を試みたのは、小泉八雲の名付けた通り「術數」に墮してゐるからである。永平寺の長老は最初から娘の命を救ふために來り、理窟らしいことは一言も云はず、自ら刀を揮つて蛇首を斷じ去つた。前の僕に若干の同情を寄せる者と雖も、この蛇を憐れむ餘地はあるまいと思はれる。尤もこの蛇は何度も殺されてゐるのだから、亡靈になつてゐるわけであるが、その恐るべき執念を木刀の上に轉ぜしめ、徐ろに首を落したのは、活殺自在な禪僧の所行と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:これは私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のように思われる。白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である。]

 この話は兩方とも時代が書いてない。書物の刊年から見て、百年以上の距離があることは慥かである。

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