小穴隆一「二つの繪」(58) 「奇怪な家ダニ」(2) 蟲殺し
蟲殺し
芥川家の家ダニ、その名は葛卷義敏である。
七月の二十四日、日曜日であるにもかかはらず(昭和二年芥川が死んだ七月二十四日もまた日曜日である)、文化部のK君がきて、問題は一應社會部で取扱つてから、文化面にまはしたはうがよろしからうといふので、僕はその意見にまかせた。二十五日の朝には、T新聞社社會部Tの名刺を持つたT君がきて、T君の白己紹介によれば、T君もまた芥川の愛讀者だといふが、刊行中の全集の一册と、筑摩の文學全集に挿んであつたといふ月報、社名を書いた大學ノートを持つて僕の前に坐つた。
T君の調べでは、葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ、その西川氏ともまた死にわかれとなつてゐるので、僕は、葛卷の母親は、葛卷氏とは離婚、その後西川氏にかたづいたが、その西川氏が自殺、つづいて芥川の自殺で、それで北海道に行つて、またもとの葛卷氏といつしよになつたので、今日、葛卷氏に死にわかれでもして、鵠沼にゐるのであるかどうかはそれは知らぬ。芥川の實家は、新宿に牧場を持つてゐたので、獸醫の葛卷氏と結婚した次第だが、その葛卷氏は、牧場で牛を購ふその金をごまかしたといふので、離婚になつた人と聞いてゐると、家ダニが自分の系圖まで立派にしてゐるのを感心しながら説明しておいた。それに、吉田精一といふ男は、葛卷の手さきででもあるのか、昔、空谷老人(故下島勳)が何か雜誌で僕をやつつけてゐる、それに返事も書けなかつたではないか、と得意氣に嘲けつてゐるが、芥川の遺書に(十五卷一七七頁參照)〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕といふのがあつたから、先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて、私はどちらにでもしますがといつたもので、それをそのままに僕が「二つの繪」に書いたところが、醫者が商賣であつた老人のはうの身になつてみれば、たまつたものではなかつたらう、たちまち事實無根と僕に吠えついてゐたので、吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりで、僕が坪田讓治の「子供の四季」の新聞さしゑで、背景のたねをとりに日野までゆかうと(「虎彦龍彦」の時であつたかも知れない)、荻窪から省線に乘つて吊皮にぶらさがつたら、空谷老人が僕の前に坐つてゐて、いきなり「あなた義ちやんと奧さん(芥川夫人)のこと知つてゐますか」といひだしたので、知つてゐると話をおさへると、「私は奧さんを毆りましたよ」といつた。こちらは野郎昔二枚舌を使ひやがつてたくせにと思つてゐるのに、向ふは何年ぶりかで會つたものだから、昔どほりなつかしがつて、武藏境と高圓寺とでは目の前に住んでゐるもののやうで、泊つてゆけもないものだが、降りて泊つてゆけ泊つてゆけと誘つてゐたものだ。とにかくこの老人の口で、あちこちに流聞が擴がつてゐる。皆がダニをやつつけてしまはうといふ氣は持つてゐながら、話がどうしても芥川家のことに觸れるので困るのだ。が、僕らが合ことばのやうに、芥川家の恥だからいはぬといつてダニに我慢してゐる、これはおそろしいことだとT君に教へた。
[やぶちゃん注:「七月の二十四日」これら「奇怪な家ダニ」は一応(内容は先行する章とダブりが甚だ多い)、本底本(昭和三一(一九五六)年一月刊)で追加して書かれたものであるから、これは前年昭和三十年七月二十四日と読める。事実、その日は日曜である。
「文化部のK君」後に「社會部」とあるから、新聞社であるが、社も実名も不詳。
「T新聞社社會部T」最もダブる「橫尾龍之助」では『東京新聞社社會部の田中義郎君』と丸出しにしている。こういう小穴隆一の書き方が頗る気に入らぬ。以下、残りの章にも出るイニシャル伏せのそれらは、判るものも判らないものの原則、注さないこととする。
「葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ」「橫尾龍之助」の回と同じ間違いを犯している。後で同じ葛巻と再婚したと書いている自己矛盾に小穴隆一は全く気づいていないのである。
「十五卷一七七頁參照」当時最新の新書版全集のそれであろう。以下、この注は略す。
「子供の四季」昭和一三(一九三八)年一月から『都新聞』に連載された、坪田の最高傑作とされる作品。小穴隆一は確かに本作の挿絵や単行本の装幀を担当している。
「虎彦龍彦」坪田譲治の小説で、昭和一六(一九四一)年から翌年にかけて発表。小穴隆一はやはり確かにこの挿絵を担当している(単行本装幀は中川一政)。]