小穴隆一「鯨のお詣り」(37) 「入船町・東兩國」
入船町・東兩國
[やぶちゃん注:「二つの繪」の「入船町・東兩國」の原型。挿絵は「二つの繪」版よりも大きいので、新たに底本のものをスキャンして掲げた。]
約束は約束で一度は僕の原稿も編輯局に提出せねばならない。しかし僕の原稿は、月報第一號、遲れても第二號にとの用意でノートしてゐたものである。從つて第二號に掲載された葛卷義敏君のお母さんの手紙、われわれになつかしいたのしいあの記事を讀んだあとにもつて、また自分が若干何か述べてゆかなけれならないといふ場合にきてしまつては、この原稿、僕自身では蛇足としか思へない。
[やぶちゃん注:「編輯局」本書刊行(昭和一五(一九四〇)年十月)の時期から見て、岩波書店芥川龍之介全集の、通称、第二次普及版全集(昭和九年十月から翌年八月に刊行。全十巻。元版より二巻増)のことであろう。
「葛卷義敏君のお母さんの手紙」「葛卷義敏君のお母さん」芥川龍之介の実姉ヒサ。私は未見。漱石全集のように、旧月報を纏めて一巻ににして新全集に別冊として附すぐらいの才覚は岩波にはないのだろうか? それ単独でも十分に売れると思うのだがなぁ。]
扨(さて)、昨日義(よし)ちやんよりのお言(こと)づけを老人達に申傳(まうしつた)へましたが何しろ昔の事で、すこしも覺えて居りません。築地入舟町(いりふねちやう)八丁目、番地は一寸(ちよつと)不明で御座いますが一番地ではなかつたかと思ふ位(くらゐ)で御座います。私は全然わからない事で何とも申上げやうも御座いません。
また本所は小泉町(こいづみちやう)十五番地で、國技館から半町ほど龜澤町(かめざわちやう)に向つて行つた反對がはで新宿に移る時に釣竿屋(つりざをや)にゆづつたとの事で向ふがはに大きな毛皮屋(けがはや)がありました。震災後の事は一寸わかりません。
尚(なほ)入舟町の方は近所で澤山(たくさん)外國人の家(いへ)があつた由。何でも聖路加(せいろか)病院の近くださうで御座います。
[やぶちゃん注:「聖路加(せいろか)病院」正確には読みは誤りで「せいルカ」が正しい。]
以上、ここに芥川夫人の手紙を無斷引用して、後(あと)は御承知の如く、東京市京橋區入舟町に生まる。母死んで本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。と、いふのが、芥川龍之介の履歷の一番初めのところ、それでこの一番始めのところから順々にカメラを活用させてみようかといふのが僕のプランであつた。けれども實際に當るそのしよつぱなに困惑してしまつたのは、現在の入舟町には五丁目までで八丁目がないといふことである。自分はいりふねばしのまん中で橋を渡る前と、渡つた後(あと)との二つの交番巡査を恨めしく思つた位(くらゐ)であつた。故に月報第二號に葛卷君のお母さんが書いた記事を手にしてこれを僕は珍重してゐる。
小泉町十五番地は震災後東兩國三ノ一・五となつてゐて、釣竿屋さんといふのはこれはまた非常に簡單に見つかつた。今日(けふ)は病氣で臥(ふ)せてゐるといふ主人が、昔その芥川家の正面の見とりと間どりの二圖をわざわざ畫(か)いて僕らに示してくれた。慾を言へばここに挿ん外觀の見とり圖は僕らのやうに4BでなくHB程度の鉛筆書きであるために、線がうすくて直接凸版(とつぱん)にはむつかしいのである。たどたどしい雅致(がち)のある筆跡を、やむを得ずペン畫のインキでなぞることとした。圖を珍重すれば不快ではあるが、多數の人々に紹介しようがためには詮方(せんかた)もない。
[やぶちゃん注:「4B」「HB」は底本では一字分の箇所に横書きとなっている。]
この繪どほりですが芥川さんの五葉(えふ)の松といつて、有名な松があつたのですが、それが畫(か)いてない。といふ芥川夫人の言葉はほほゑましくも聞いたのであるが、芥川家の跡を示しす石井商店の寫眞は、これまた芥川家の老人達に昔を想はせてよろしくないとも思ふ。恨むらくは當日一錢蒸汽(せんじやよき)に乘つてみる時間の持合(もちあは)せがなかつたことである。
[やぶちゃん注:「一錢蒸汽」芥川龍之介が昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(九日と十六日は休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して連載した「本所兩國」(小穴隆一が挿絵を担当した)の「一錢蒸汽」及び続く『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の章を参照されたい。リンク先は私の注及び草稿附電子テクストである。]
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