柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の姿」
天狗の姿
天狗の話は澤山あるが、明かにその姿を見た者は存外少い。山中で出會つたり、誘拐されたりした話を見ても、大體は山伏姿である。「梅翁隨筆」その他に見えた加賀國の話のやうに、たまに天狗らしい風體の者があると思へば、それは金を欲しがる贋天狗で、傘を持つて上から飛び下りることは出來るが、飛び上ることは曾てならぬといふ心細い手合であつた。
[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」のそれは「卷之五」の「加賀にて天狗を捕へし事」である。柴田は贋天狗の笑い話なので、妖異に当たらぬものとして本文では少ししか語っていないので、ここは一つ、お慰みに、吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示そうぞ。頭の柱「一」は除去した。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを推定で附した。本文の「いわく」はママ。
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加州金澤の城下に堺尾長兵衞といふて數代の豪家(がふけ)あり。弥生(やよひ)半(なかば)の頃、まだ見ぬかたのはなを尋(たづね)んとて、手代小ものめしつれて、かなたこなたとながめけるに、ある社(やしろ)の松の森の方より羽音(はおと)高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あなおそろしやとおもふ間もなく、この者の居(ゐ)たる所へ飛來(とびきた)るにぞ、今ひき裂(さか)るゝやらんと、生(いき)たる心地もなくひれふしけるに、天狗のいわく、其方にたのみ度(たき)子細あり。別儀に非ず。今度(このたび)京都より仲ケ間(なかま)下向(げかふ)に付(つき)、饗応(きやうわう)の入用(にふよう)多き所、折ふしくり合(あは)せあしくさしつかへたり。明後日晝過(すぎ)までに金子三千兩此所(ここ)へ持參して用立(ようだつる)べしといふ。長兵衞いなといはゞ、いかなるうきめにや逢(あは)んと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速(さつそく)承知(しやうち)過分なり。しからばいよいよ明後日此處(ここ)にて相待(あひまつ)べし。もし約束違(たが)ふことあらば、其方(そのはう)は申(まうす)に及ばず、一家のものども八裂(やつざき)にして、家藏(いへくら)ともに燒(やき)はらふべし。覺悟いたして取計(とりはから)べしといひ捨て、社壇のかたへ行(ゆき)にける。長兵衞命(いのち)をひろひし心地して、早々我家に歸り、手代どもへ此よしをはなしけるに、或は申(まうす)に任(まか)すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいわく、たとひ三千兩出(いだ)したりとも、身(しん)だいの障(さは)りに成(なる)ほどの事にあらず。もし約束をちがへて家藏を燒はらはれては、もの入(いり)も莫大ならん。其上(そのうへ)一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替(かふ)べきにあらず。三千兩にて災(わざはひ)を轉じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申(まうし)けるゆへ、亭主元來其(その)心なれば、大(おほい)に安堵(あんど)し、此(この)相談に一決したり。されば此(この)沙汰(さた)奉行所へ聞えて、其(その)天狗といふものこそあやしけれ。やうす見屆けからめ取(とる)べしと用意有(あり)ける。扨(さて)その日になりければ、長兵衞は麻上下(あさがみしも)を着(ちやく)し、三千金を下人に荷(にな)はせ、社の前につみ置(おき)、はるか下つて待(まち)ければ、忽然と羽音高くして天狗六人舞(まひ)さがり、善哉(よきかな)々々、なんぢ約束のごとく持參の段(だん)滿足せり。金子(きんす)は追々返濟すべし。此返禮には商ひ繁昌寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申(まうし)きかせ、彼(かの)金を一箱づゝ二人持(もち)して、社のうしろのかたへ入(いり)ければ、長兵衞は安堵して、早々我家へ歸りける。かくて奉行所より達し置(おき)たる捕手(とりて)のものども、物蔭に此体(てい)をみて、奇異のおもひをなしけるが、天狗の行方(ゆくへ)を見るに、谷のかたへ持行(もちゆき)ける。爰(ここ)にて考(かんがへ)みるに、まことの天狗ならば三千兩や五千兩くらひの金は、引(ひつ)つかんで飛去(とびさ)るべきに、一箱を二人持(もち)して谷のかたへ持行(もちゆく)事こそこゝろへね。此うへは天狗を生捕(いけどり)にせんとて、兼(かね)ての相圖なれば、螺貝(ほらがひ)をふき立(たつ)るとひとしく、四方より大勢寄(より)あつまり、谷のかたへ探し入(いり)、六人ながら天狗を鳥(とり)の如く生捕にして、奉行所へ引來(ひききた)れり。吟味するに鳥の羽、獸(けもの)の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、實の天狗にてはあらず。されば飛下(とびくだ)ることは傘(かさ)を持(もち)て下るなれば自由なれども、飛上(とびあが)る事とては曾てならずとなり。扨(さて)是(これ)をば加賀國にて天狗を生捕たるはなしは末代(まつだい)、紙代(しだい)は四文(しもん)、評判々々と午(うま)の八月江戸中をうり歩行(ありきゆき)しは、此(この)事をいふ成(なる)べし。
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「甲子夜話」にあるのは深山幽谷でも何でもない、江戸は根岸の話である。千手院といふ眞言宗の寺に、大きな樅の木があつたが、朝の五ツ時(午前八時)頃、その枝間に腰をかけてゐる者がある。顏赤く鼻高く、世にいふ天狗といふ者そつくりであつた。目撃者は數人あつたといふが、あとも先もない。全く繪に畫かれたと同じ存在である。
[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全巻所持するが、探すのが面倒なので、発見し次第、追記する。悪しからず。【2018年8月9日追記:調べてみたところ、「甲子夜話卷之七十」の天狗の長い記載の最後に、「根崖」(ねぎし)で「喬木の梢に」「グヒン」(天狗のこと)のような「白首高鼻巾鈴の人」が居たのを見たという婦人の談が載るが、「千手院といふ眞言宗の寺」「樅の木」「朝の五ツ時」という記載はない。他にダブって書いているものか? 不審。】]
そこへ往くと「雪窓夜話抄」の記載は大分特色がある。因幡國の頭巾山は昔から魔所と呼ばれ、寶積坊權現の社が山上に在つた。そこの神主田中主税重矩といふ人が、享保十一年六月十八日に登山して、神前に一七日の斷食をした。二十三日の申の刻(午後四時)時分、神前に三四間ぐらゐある大石が三つ四つ重ねてあるのにもたれ、ひとり煙草をのんでゐると、遙かな谷底より大夕立の降つて來るやうな音がする。一天雲なく、雨の降りさうな樣子もないので、風の音かと見るのに、木の葉一つ搖がうともせぬ。そのうちにもたれてゐた石の上に、ひらりと飛び下りる人影があつた。主税とは五六尺の距離だから、手に取る如く鮮かに見えたが、相對すること半時ばかり、一語も發せず、左右を見𢌞すこともなく、立つたまゝ主税をぢつと見詰めるだけである。その眼つきにも人を憎むやうなとこ
ろはない。やがて人形を絲で引上げるやうな風に、七八間も空中に騰つたが、その時仰ぎ見て、はじめて兩翼のあることがわかつた。翼は背中で合せたやうになつてゐるので、石上に立つ間は少しも見えなかつた。翼は背中で左右にひろがり、前の方へ俯向いたかと思ふと、隼落しに谷底へ落ち込んだ。その時にも大夕立のやうな羽音が聞えたさうである。
[やぶちゃん注:「因幡國の頭巾山」「ときんやま」で、鳥取県鳥取市にある三角山(みすみやま:「三隅山」とも書く)の別名。「襟巾山」とも書き、「とっきんざん」とも読む。標高五百十六メートル。山頂には三角山神社がある。
「寶積坊權現」「ほうしゃくぼうごんげん」(現代仮名遣)と読むと思われる。ウィキの「三角山」によれば、『三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰・修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた』。『山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている』。『このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ』。『祭神は猿田彦大神である』とあり、この「峰錫(ほうしゃく)」は「寶積」と音通であるからである。また、猿田彦神はしばしば天狗の形象と相似する点でも親和性が強いと言える。
「田中主税重矩」「たなかちからしげのり」の読んでおく。
「享保十一年」一七二六年。
「三四間」五メートル半から七メートル強。
「五六尺」一・五~一・八メートル。
「半時」約一時間。
「七八間」十二メートル半強から十四メートル半ほど。
ここ以下の話は「雪窓夜話抄」の「卷下」の「卷六」巻頭にある「因州頭巾山に天狗の飛行(ひぎやう)を見る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]
この時主税の見た姿は、面體などは常の人に變らず、一尺二三寸もあらうといふ長い顏で、五月幟に畫いた辨慶のやうな太い目鼻であつたが、殊に口の大きいのが目に付いた。眼光はぎらぎらして凄まじく、目と目を見合せることは困難であつた。筋骨逞しく赤黑く、髮は縮んで赤い。木の葉のやうなものを綴つて身に纏つてゐたとおぼしく、それが膝頭まで垂れてゐた。自分の心は常よりしつかりしてゐて、別に恐ろしいとは思はなかつたが、五體は全くすくんで手も足も動かぬ。既に空中に飛び上り、眞逆樣に谷へ落ち込んだと思つたら、はじめて夜の明けた心持になり、手足も縛られた繩を解かれた如く自由になつた。こゝに至つて漸く、只今目のあたり拜んだのが寶積坊であつたらうと考へ及んだ、といふことであつた。
[やぶちゃん注:「一尺二三寸」三十七~三十九センチメートル。]
主税が頭巾山の頂上で一七日斷食をすると聞いて、その安否を氣遣ひ、わざわざ登山した醫者があつた。恰も天狗の姿を見た日の五ツ(午後八時)頃、主税が大きな洞穴に引籠つて、火を焚いてゐるところへやつて來たので、今日の話などをしてゐると、夜半頃になつて、また谷の方から大きな羽音が聞えて來た。今度は晝の經驗があるので、思はず身の毛よだち、身を詰めて二人とも洞中に屈伏してゐたが、この時は地には下りず、遙か空中を翔り過ぎた。數百疋の狼が聲を合せたやうな、大きな聲で咆哮し、空中を通る時、山に響き谷に應(こた)へ、大地も震ふばかりであつたけれども、少しの間でそれもやみ、山は閑寂たる狀態に還つた。一日に二度不思議を見聞したわけである。
[やぶちゃん注:先のリンク先を見て貰うと判るが、原典では医師の来訪の前の部分に別の伝聞が挿入されており、しかもその直後に『(中畧)』とあって医師来訪後の夜の話があるから、原話はもっともっと長いことが判るのである。]