小穴隆一「鯨のお詣り」(41)「河郎之舍」(4)「游心帳」
游心帳
[やぶちゃん注:「二つの繪」の「游心帳」の原型。前の「河童の宿」の冒頭注で述べた通り、ここには芥川龍之介が描いた河童を振り落す馬の絵と、久米正雄が対抗してフェイクした「芥川龍」のサインの絵が載るが、前と同様に本文でその絵について何ら、語っていない。しかも挿絵挿入に際して、原画その儘でなく、左を意識的に上げて入れてある、甚だ馬の蹴りの躍動感の消えてしまったものなので、これは特異的に前に既に掲げた、正立の原画を上に再掲することとした。読み易さを考え、詩歌は前後を一行空けた。前書がポイント落ちになっていたりするが、再現せず、同ポイントで示した。]
サミダルル赤寺(アカデラ)ノ前ノ紙店(カミミセ)ユアガ買ヒテ來(キ)シチリ紙(ガミ)ゾコレハ 我鬼
游心帳(いうしんちやう)には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、自分の祖母から矢立(やたて)を一つ貰つたことに始まつて、私は半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へて、これに游心帳と書いてっ㋼た。これが卽ち前期の物であるが、これは全く私一人だけの物で、多くは暮秋、豆菊は熨斗代(のしがは)りなるそば粉(こ)哉、などといふ自分の俳句の獨稽古(ひとりげいこ)のためにつかつてゐたものである。後期の物、これは半紙を二つ折にした物で、必ずしも私一人の物ではなかつた。この後期の物は第二册目あたりから碧童題(だい)衷平(ちうぺい)題とかなつて、碧童さんの筆(ふで)で游心帳が游心帖(いふしんてふ)、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうとも變つてしまつた。さうして何時(いつ)と知らず、私の游心帳は我鬼先生、碧童さん、淸兵衞(せいべゑ)さんの歌句(かく)、繪の用(よう)にまでなつてゐたのである。⦿河童と豚の見世物(みせもの)、明治二、三年洗馬(せば)に於いて二十人を容(い)るるほどの小屋掛(こやが)けにて瓢簞(へうたん)に長き毛(け)をつけたる物を河童と稱(よ)び見世物となして興行せる者あり。見料(けんれう)大人(だいにん)と小人(せうにん)との別あり。豚も見世物となる。――斯樣(かやう)な種類の聞書(もんじよ)のあるのが前記の物に屬し、久米さんの河童の繪(ゑ)まである賑やかな物は後期に屬する。サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ。長崎の長いちり紙(がみ)に添へて半紙に楷書紙(かいしよがみ)でも下に敷いたかのやうに行儀よく書かれてゐるたこの歌、これは勿論(もちろん)游心帳に書いてあつた歌ではない。『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少(すくな)くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好(よ)い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以(ゆゑん)である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰(となり)の笛(ふえ)」、大正九年より同十四年度に至る年代順の芥川さんと私の五十句づつの句、そのなかの自分の句、
長崎土産のちり紙、尋(ひろ)あまりなるを貰ひて
よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)
これを思出(おもひだ)させる歌なのである。
私は大正十二年の正月に右の足頸(あしくび)を脱疽で失くなした。私は松葉杖にたよるやうになつてからは、
偶興(ぐうきよう)
あしのゆびきりてとられしそのときは
すでにひとのかたちをうしなへる
あしのくびきりてとられしそのときは
すでにつるのすがたとなりにけむ
あしのくびきりてとられしそのときゆ
わがみのすがたつるとなり
かげをばひきてとびてゆく
といふ類(たぐひ)の詩をつくりだしてゐた。十二年震災の直後祕露(ペルー)に行く淸兵衞さんに餞別(せんべつ)として、私は私の紀念すべき矢立を贈つてしまつてゐた。
思遠人(ゑんじんをおもふ)、南米祕露(ペルー)の蒔淸(まきせい)遠藤淸兵衞に
獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ
後期の游心帳は九年から十一年の夏で終つてゐた物らしい。
[やぶちゃん注:「二つの繪」版では『後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。』と書き直している。]
すでに澄江堂なく、蒔淸も死す。小澤碧童とは相語らず。こゝに游心帳にある我鬼先生の筆蹟を拾ひ以下これを收錄して註を付する所以(ゆゑん)である。
[やぶちゃん注:「小澤碧童とは相語らず」小穴隆一が既に本書刊行の遙か以前から小澤碧童と疎遠になっていたことがここで明確に判明する。次の句群との間には一行空けが底本に存在する。]
秋の日や竹の實(み)垂るる垣の外
落栗や山路(やまぢ)は遲き月明り
爐(ろ)の灰にこぼるゝ榾(ほだ)の木(き)の葉かな
野茨(のいばら)にからまる萩(はぎ)の盛りかな
○ この帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には合掌の印がある。この合掌といふ字句は、一ころの我鬼先生が使つてゐたものであつて、碧童さんはこの合掌といふ言葉をことごとく珍重し印にまで刻(きざ)んでゐたものである。私はこの帳面に子規舊廬之鷄頭(しききうろのけいとう)を見て、我鬼先生に伴はれて折柴(せつさい)さんと主(ぬし)なき漱石山房を訪ね、碧童さんに伴はれて子規舊廬を見たるかと忘れてゐたことも思出した。
[やぶちゃん注:冒頭は実は底本では一字下げで「○この……」となっている。後の組み方から誤りと断じて特定にかく訂した。
次との間には一行空けが底本に存在する。]
天雲(あまぐも)の光まぼしも日本(ひのもと)の聖母の御寺(みてら)今日(けふ)見つるかも
○ この歌は齋藤さんの歌であらう。歌の傍(かたは)らに木立(こだち)を畫(か)き、藁葺小屋(わらぶきごや)を畫き、人の住む繪のらくがきがある。これも亦表紙はとれてゐる。この帳面に碧童さんの鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。
[やぶちゃん注:「二つの繪」版では齋藤茂吉のそれではなく、芥川龍之介の一首であると訂正されている。
次との間には一行空けが底本に存在する。]
君が家(いへ)の軒(のき)の糸瓜(へちま)は今日の雨に臍腐(へそくさ)れしや或(あるひ)はいまだ
笹(さゝ)の根の土乾き居(ゐ)る秋日(あきび)かな
○ 歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉(とんぼ)を畫(か)いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土(つち)の字(じ)を指(さ)してゐる。表紙は糸瓜の宿(やど)の衷平(ちうぺい)さんの手でゆうしんじようとなつてゐる。
[やぶちゃん注:次との間には一行空けがないが、これは改ページのための編集上の例外(小穴隆一の校正ミス)であるから、ここでは二行空けた。]
荒(あら)あらし霞の中の山の襞(ひだ)
○ この一句のほかに
うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな 南部修太郎
いかばかり君が歎きを知るやかの大洋(たいやう)の夕べ潮咽(しほむせ)ぶ時 南部修太郎
しらじらと蜜柑(みかん)花さく山畠(やまばたけ)輕便鐡道の步(あゆ)みのろしも 菊池 寛(くわん)
といふ我鬼先生の筆がある。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)、雨中(ウチウユ)湯ケ原(ハラ)ニ來(キタ)ル、道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ等(とう)の私の筆もある、次の游心帖大正十年晩秋湯河原(ゆがはら)ニテに連絡する物である。
[やぶちゃん注:作者名の位置は底本では二字上げ下インデントであるが再現していない。以下、同じなのでこの注は略す。
この部分は甚だ問題がある。底本では最初の芥川龍之介会心の一作と知られる句が、なんと!
荒(あら)あらし霧(きり)の中(なか)の山(やま)の襞(ひだ)
となっている(ルビを総て再現)。こんな句形の草稿は知らないし(あるとしたらトンデモなくヘンな新発見句となる)、そもそもが「二つの繪」版では「霧」は知られる通り、「霞」(かすみ)となっており、他の周辺人のこの句についての記載も総て「霞」であり、こんな字余りもおかしく、「荒あらし」い「山の襞」に対称される景観としての「霞」は不易の文字(もんじ)であり、単純にイメージしても、霧の中の山襞では話にならない。特異的に――ひどい誤植とむごいルビ(読み)・小穴隆一の致命的校正ミス――断じて訂した。
「うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな」この南部の一首は「二つの繪」版では、
うす黃なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも 南部修太郎
と末尾が「かも」となっている。私は若嫌いであるが、ここは「かな」より「かも」の方が遙かによい、とは思う。
「ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ」この小穴隆一の一首は「二つの繪」版では、
ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ
で、「花合歡(ねむ)」は「はなねむ」と訓じていると良心的に解釈するならば(そちらで注したが、ルビ位置に不具合がある)これは音数律から、
ひかた吹(ふ)く/
花(はな)合歡木(ねむ)の下(した)/
もろこしの/
みやこのてぶり/
あが我鬼(がき)は立(た)つ
で、この一首はなかなかに趣のあるよい一首である《はず》である。「合歡木(がうか)」は雅趣もヘッタクレもないヒドい読みであり、しかも音数律もケツマクリの無視で、話にならないと私は思う。これは小穴隆一自身の短歌であるから「元はこうだったんだ!」と言われれば、「ハイ、そうですか。ひどい歌だね!」としか私は応じられぬ。「二つの繪」版でかく訂したのは、ヒドさに遅きに失して小穴が気づいて改作したものか、或いは、やはり、遅きに失してヒドい校正ミスに気づいて訂正したものか、今となっては「藪の中」である。私は校正者が次の一首で「合歡(がうか)」の読みを振っているのを見て、お節介をして、前の一首にも同じルビを組んでしまったのではないか、と実は密かに疑っているのである。
「雨中湯ケ原ニ來ル」句の前書。
「道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ」新傾向俳句であるから音数律の崩れは問題ない。問題なのは「二つの繪」版では、
道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ
となっている点である。この「テ」のあるなしでは叙景は全く違うのだ(私は若い頃は自由律俳句の『層雲』に参加していた)。小穴隆一は「二つの繪」版では、あろうことか、自分の一句だからと言って――掟破りに――「游心帳」に書いてある通りではなく――改作してしまったのではなかったか? 因みに自由律時代の私ならば、
――本来の「道バタ赤クツイタ柹ニ步テタ」の方が自然で厭味がなく遙かにいい
と言うであろう。「タ」には主体者のこれ見よがしな意思が働いている。句を創るために――まさに「ためにする」行為として「歩く」行為がなされている厭らしさが滲み出てしまう――と評するであろう。
次との間には一行空けが底本に存在する。]
草靑(くさあを)む土手の枯草(かれくさ)日影(ひかげ) 我鬼
曼珠沙華(まんじゆしやげ)むれ立(た)ち土濕(つちしめ)りの吹く 我鬼
家鴨(ひる)眞白(ましろ)に倚(よ)る石垣(いしがき)の乾(かは)き 我鬼
○ 一層瘦せて支那から歸つてきた我鬼先生に招ばれて碧童さんと私は、首相加藤友三郎が居たといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪(と)へば、外面(がいめん)の暗い秋霖(しうりん)の長髮(ちやうはつ)をなでてゐた。これが碧童さんの其時の句である。
山に雲(くも)下(お)りゐ赤らみ垂るる柿の葉 我鬼
たかむら夕べの澄み峽路(かひぢ)透(とほ)る 我鬼
游心帳に書いてはないがこの二句も、時雨(しぐれ)に鎖(とざ)されてゐた三日間の私共の動靜を傳へた隨筆「游心帳」(大正十年十一月、中央美術)に收錄してゐるものである湯河原、よし私はここに碧童さんの、峯(みね)見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來(き)しいづこ友の屋(や)、の歌をみようとも、
芋錢(うせん)をなげく 小杉 放庵
牛久沼(うしくぬま)河童の繪師の亡くなりて唯(たゞ)よのつねの沼となりにけり
私は「文藝日本(にほん)」創刊號で讀んだこの放庵先生の歌に教へらるるところあらねばならぬのである。
[やぶちゃん注:この小杉放庵未醒の一首と添書きは「二つの繪」版ではカットされている。因みに、小川芋銭は昭和一三(一九三八)年に七十歳で亡くなっている。小杉は芥川龍之介と親しくはあったし、小穴・小澤・遠藤の布施弁天旅行と小川芋銭の連関性を小穴は既に述べてはいる。しかし、如何にも小穴らしい朦朧エンディングで、「何が言いたいの?」とツッコミたくなるような、コーダらしからざるヘンなコーダである。カットした理由もそれに筆者自身が気づいたからなんであろう。]