柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」 (1)
[やぶちゃん注:本話は特異的に長く、注も長くなったので、分割して示す。]
天狗の誘拐
天狗にさらはれた話は、江戶時代の書物にいろいろあるが、その内容は必ずしも一樣でない。「甲子夜話」に記されてゐるのは、東上總の農夫の子で、後に松浦邸内の下男になつた者の話であるが、この男は子供の時分天狗に連れて行かれた經驗を持つてゐる。七歲の時祝ひに、馬の模樣を染めた著物を著て、氏神の八幡宮に詣でたところ、その社の邊で山伏に誘はれ、それきり行方不明になつた。子供の事ではつきりわからぬが、八年ばかりたつた時、前の山伏が、お前の身はもう不淨になつたからと云つて、相州の大山に置いて行かれた。里人がそれを見付け、腰の札に記された國郡等により、宿(しゆく)送りで家に歸つた。不思議な事には、七歲の時に著て出た馬の模樣の著物は少しも損じてゐなかつたさうである。爾來三年は家に居つたが、十八歲の時、前の山伏が迎へに來て、また連れて行つた。この時は背に負ひ、目を瞑つて居れと云つて、帶の如きものが眉にかゝると思つたら、風の音の中を行くやうで、やがて越中の立山に著いて居つた。こゝに天狗界に關する種々の見聞が記されてゐるが、長くなるから省略する。
[やぶちゃん注:「宿送り」は既注であるが、再掲しておく。特別な身分の者や行路病者などを、町内の自身番や宿(しゅく)役人などの責任に於いて、順に隣りの正規宿へ送り届けるシステムを指す。
以上は「甲子夜話卷之七十三」の第六条「天狗界の噺(はなし)」である。柴田がカットした部分も含め、総て以下に示す(これぞ、私の注の本領発揮たる所以である)。《 》部は原典の欄外注記、【 】は割注。一部に参考底本(平凡社東洋文庫版一九七八年刊。但し、新字体)版組の関係上、二箇所で改行の有無が不明な箇所があったが、前後の記載法と内容から、孰れも改行した。
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我邸中の僕に、東上總泉郡中崎村《泉ノ郡ハ『和名鈔』ニ云。上總ノ國夷灊(イシミ)郡。灊ハ『說文』ニ水出テ二巴郡宕渠一ニ西南シテ入ㇾ江ニ。○中崎村ハ、同書ニ云ク。同郡長狹(ナカサ)。蓋シ此處》の農夫源左衞門、酉の五十三歲なるが在り。この男嘗天狗に連往れたりと云。その話せる大略は、七歲のとき祝に馬の模樣染たる着物にて氏神八幡宮に詣たるに、その社の邊より山伏出て誘ひ去りぬ。行方知れざるゆゑ、八年を經て佛事せしに、往ざきにて前の山伏、汝が身は不淨になりたれば返すと云て、相州大山にさし置たり。夫より里人見つけたるに、腰に札あり。能く見れば國郡其名まで書しるせり。因て宿送りにして歸家せり。然るに七歲のとき着たりし馬を染たる着物、少しも損ぜざりしと。これより三ケ年の間はその家に在しが、十八歲のとき嚮の山伏又來り云ふ。迎に來れり。伴ひ行べしとて、背に負ひ目を瞑(ネム)りゐよ迚、帶の如きものにて肩にかくると覺へしが、風聲の如く聞へて行つゝ、越中の立山に到れり。この處に大なる洞ありて、加賀の白山に通ず。その中塗に二十疊も鋪らん居所あり。ここに僧、山伏十一人連坐す。誘往し山伏名を權現と云ふ。又かの男を長福房と呼び、十一人の天狗、權現を上坐に置き、長福もその傍に坐せしむ。此とき初て乾菓子を食せりと。又十一人各口中に呪文を誦する體なりしが、頓て笙篳篥の聲して、皆々立更りて舞樂せり。
かの權現の體は、白髮にして鬚長きこと膝に及ぶ。溫和慈愛、天狗にてはなく僊人なりと。かの男諸國を𢌞れる中、奧の國は昔の大將の僊となりし者多しと。
又伴はれて鞍間、貴船に往しとき、千疊鋪に僧達多く坐しゐたるに、參詣の諸人種々の志願を申すを、心中口内にあること能く彼の場には聞ふ。因て天狗議す。其の願は事當れり。協へつかはすべし。某は咲ふべし。或は癡愚なり迚、天狗大笑するも有り。又は甚非願なり。協ふべからずとて、何にか口呪を誦すること有るもありと。
又諸山に伴はれたるに、何方にても天狗出來て、劍術を慣ひ兵法を學ぶ。かの男も授習せしとぞ。又申樂、宴歌、酒客の席にも伴なはれ往しと。師天狗權現は每朝天下安全の禱とて勤行せしと。
又或時、昔一谷の合戰の狀を見せんと云こと有しときは、山頭に旌旗返翻し、人馬の群走、鯨波の聲、その場の體、今何にも譬へん方なしと。妖術なるべし。
又世に木葉天狗と云者もあり。彼境にてはハクラウと呼ぶ。此者は狼の年歷たるがこれに成るとぞ。定めし白毛生ぜし老物なるべければ、ハクラウは白狼なるべし。
又十九歲の年、人界へ還す迚、天狗の部類を去る證狀と兵法の卷軸二つを與へ、脇指を帶させ、袈裟を掛けて歸せしとぞ。
始め魔界に入しとき着ゐたりし馬の着服、幷に兵法の卷軸と前の證狀と三品は、上總の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は今に所持せりと。予未ㇾ見。
又或日奉納せし卷物を社司竊に披き見しに、眼くらみ視ること協はず。因て其まゝ納め置しと。卷物は梵字にて書せりと。
又天狗何品にても買調る錢は、ハクラウ【白狼なり】ども薪など採り賣代なし、或は人に肩をかし抔して、その賃を取聚め、この錢を以て辨ずるとぞ。天狗は酒を嗜むと云。
又南部におそれ山と云高山あり。この奧十八里にして、天狗の祠あり。ぐひん堂と稱す【ぐひん、『合類集』云。狗賓ハ、俚俗ノ所ㇾ言。天狗ノ一稱】。この所に每月下旬信州より善光寺の如來を招じ、この利益を賴でハクラウの輩の三熱の苦を免れんことを祈る。そのときは師天狗權現その餘皆出迎ふ。如來來向のときは炬火白晝の如しと。
又源左衞門この魔堺にありし中、菓子を一度食して、常にもの食ふことなし。因て兩便の通じもなしと。
以上の說、彼僕の所ㇾ云と雖ども、虛僞疑なきに非ず。然ども所ㇾ話曾て妄ならず。何かにも天地間、この如き妖魔の一界あると覺ゆ。
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原典の「僊人」は仙人と同音同義であろう。]
子供を連れて行くのは誘拐し易いためと思はれるが、同じ「甲子夜話」には四十一歲でどこかへ誘はれた男の話がある。兩國橋のあたりで氣持が惡くなつたといふだけで、如何なる者に誘はれたかも不明だけれど、氣が付いた時は信濃の善光寺の門前に立つて居つた。兩國橋の邊に行つたのが三月五日で、氣が付いたのは十月二十八日だから、半年以上經過してゐる。衣類はばらばらに破れ裂け、月代(さかやき)は伸びて禿のやうになつて居つた。幸ひ故鄕の知人に出遭つたので、その人と一緖に江戶へ出たが、歸つて後も五穀の類は食はれず、薩摩芋だけ食つて居つた。厠に上る每に木の實の如きものが出たが、それが止むと穀食に還つた。この誘拐者を天狗らしく感ぜしめるのは、最後の穀食を嫌ふ一條である。これも上總の男で、松浦家の馬丁か何かであつたらしい。あまり似通ぎてゐるから、或は同一人ではないかといふ氣もするが、それにしては話の内容が一致せぬ。しばらく別人として置く。
[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷之三」の二十七条目の「上總人足、天狗にとられ歸後の直話」である。
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予が厩に使ふ卑僕あり。上總の產なり。此男嘗天狗にとられたると聞ば、或日自ら其ことを問に、奴云ふ。今年五十六歲、さきに四十一の春三月五日の巳刻頃、兩國橋のあたりにて心地あしく覺たる計にて、何なる者より誘れたるも曾て不ㇾ知。然して十月廿八日のことにて、信濃國善光寺の門前に不圖立居たり。それまでのことは一向覺ず。衣類は三月に着たるまゝ故、ばらばらに破さけてあり。月代はのびて禿の如なりし。其時幸に、故鄕にて嘗て知し人に遭たる故、それと伴て江戶に出たり。其本心になりたる後も、食せんとすれば胸惡く、五穀の類は一向食れず。たゞ薩摩芋のみ食したり。夫より糞する每に木實の如きもの出て、此便止、常の如くなりてよりは、腹中快く覺て穀食に返しとなり。然れば天地間には人類に非るものも有るか。
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京都西洞院武者小路に宇兵衞といふ銀工があつた。享保十二年七月十四日の暮方、西陣に用事があると云つて出たきり歸らぬので、兩親をはじめ皆心配してゐると、三日目の五ツ時(午後八時)頃、無事に戾つて來た。彼の語るところによれば、あの日一條戾り橋のところで一人の僧に逢つた。前々から懇意の人のやうに會釋して、そなたは日頃大峯へ參りたい念願であつたが、何とこれから參詣なさらぬか、同道しよう、といふ。云はれるまゝに連れ立つて、東堀河を南へ下り、黑川又四郞といふ名高い狂言師の家の前に出た。宇兵衞と又四郎とはかねて親しい間柄で、將棋の仲間である。わしはこゝに待つてゐるから、中へ入つて將棋二三番さしておいでなさい、三番とも勝つやうにわしが祈念して進ぜる、と僧が勤めるので、宇兵衞は心得て案内を乞うた。又四郞の方では、夜中突然の訪問を多少不審に思つたやうであつたが、將棋と聞いて直ちに盤に向ふ。京中で二三のさし手と云はれる又四郞が、先づ平手、次に角落ち、更に飛車落ちで、三番立て續けに負けてしまつた。それから大峯をめぐり、吉野から伊勢に出、奈良、初瀨、龍田、法隆寺を一覽し、今度は東國の方を見物させよう、と云つて步いて來ると、向うから緋の衣を著た老僧が、五六十人も僧を隨へてやつて來る。老僧は此方の僧を見るなり、お前がその人を取り隱した爲、兩親の悲歎は一通りでない、早くもとのところへ還すがよい、と頭から叱り付けた。此方は一も二もなく恐れ入つて、老僧一行の姿が見えなくなるのを待ち、それでは故鄕へ歸らせよう、と云つて一二町步いたと思ふ間もなく、こゝは一傑西の洞院ぢや、こゝまで來ればもう案内せずともよからう、と云ひ捨てたまゝ、どこかへ行つてしまつた。氣が付いて見れば慥かに一條西の洞院の辻なので、直ぐ家に歸つたといふのであるが、一座の者は一人も宇兵衞の言葉を信じない。今宇兵衞の話した名所古跡は、十四五日もかゝらなければ見物出來ない、それを三日で步いたなどといふのは、多分狐に化かされたのだらう、と云つて取り合はぬ。宇兵衞は大峯で共に登山した人、東大寺で逢つた人等の名を擧げ、それらの人が下向したら、聞いて見ればわかる、と主張する。果して彼が云ふ通りであつた。宇兵衞の遍歷は僅か三日間であつたが、その間に何か天狗から學び得たらしく、醫者の療治の叶はぬ病人などは、彼に加持せしめれば立ちどころに不思議の效驗があるので、宇兵衞の家は貴賤群集する盛觀を呈した。「雪窓夜話抄」の著者は、これを武者小路新町に住む名古屋玄二といふ人から聞いて、委しく書き留めてゐる。
[やぶちゃん注:「享保十二年」一七二七年。原典(後注参照)の条の擱筆に『享保丁未の事なり』とあるのによる。
「黑川又四郞」不詳。
以上は「雪窓夜話抄」の「卷六」にある「天狗に誘はれて名所巡覽の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]
正德年間の話で、江戶神田鍋町の小間物屋の丁稚が、手拭を持つて錢湯へ出て行つたと思ふと、暫くして裏口に佇む者がある。誰だと咎めたら、今し方錢湯へ出かけた丁稚が、股引草鞋の旅姿で、藁苞(わらづと)を杖にかけてゐる。主人は驚いた樣子も見せず、先づ草鞋を解いて足を洗へ、といふ。丁稚は畏まつて足を洗ひ、臺所の棚から盆を出して來て、苞から出した野老(ところ)を積み、これがお土產でございます、と云つて差出した。今朝はどこから來たのかと聞くと、秩父の山中を今朝出ました、永々留守に致しまして、さぞ御事缺けでございましたらう、といふ返事である。愈々不審になつて、一體いつ家を出たのだと云へば、十二月十三日の煤掃(すすはき)の晩でございます、それから昨日まであの山に居りまして、每日お客の御給仕を致しました、お客は皆御出家ですが、昨日の話に、明日は江戶へ歸してやらう、土產に野老を掘るがいゝ、といふことで、これを掘つたのでございます、と答へた。倂しこの家では丁稚が煤掃の晩から姿を隱したことを誰一人知らなかつた。恐らく錢湯へ出かけるまで、誰かが身代りを勤めてゐたのであらう。話はこゝに至つて妖氣を帶びて來る。丁稚はその時十四五歲であつた(諸國里人談)。
[やぶちゃん注:「正德年間」一七一一年から一七一五年。先の享保の前。柴田にしては珍しい梗概の落としがあって、原典(後掲)では丁稚(でっち)が銭湯に行った日を『正月十五日』と明記してある。即ち、丁稚の本体が失踪していたのは二十九日或いは三十日(旧暦の正一ヶ月分)の間であったことがこれによって判る。
「神田鍋町」現在の東京都千代田区神田鍛冶町三丁目。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「藁苞(わらづと)」藁を編んで物を包むようにしたもの。そこから転じて「土産物」の意ともなった。
「野老(ところ)」ここは「山芋」のこと。
「御事缺け」「ことかけ」は「ことかき」と同じで「必要な物を欠くこと」の意であるから、ここは御不自由(をおかけしたこと)の謂い。
以上は「諸國里人談」の「卷之二」「四 妖異部」の「雇二天狗一」(天狗に雇はる)の一条。以下に示す。「調市」(「ちょういち」→「丁一」→「丁稚」)は「でつち」の当て字。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを振り、直接話法を鍵括弧として改行、句読点も追加した。
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正德のころ、江戶神田鍋町(なべちやう)小間物(こまもの)商ふ家の十四五歲の調市(でつち)、正月十五日の暮かた、錢湯へ行(ゆく)とて、手拭など持出(もちいで)けり。少時(しばらく)して、裏口に彳(たたず)む人あり。
「誰ならん。」
と、とがむれば、かの調市なり。股引草鞋(ももひきわらぢ)の旅すがたにて、藁苞を杖にかけて、内に入(いり)けり。主人、了(さと)き男にて、おどろく體(てい)なく、
「まづわらんじを解(とき)、足をすゝぐべし。」
といへば、かしこまりて足をあらひ、臺所の棚より盆を出し、苞をほぐせば、野老なり。これを積(つみ)て、
「土產(みやげ)なり。」
とて出(いだ)しぬ。主人の云(いはく)、
「今朝(けさ)はいづかたよりか來れる。」
「秩父の山中を今朝出(いで)たり。永々(ながなが)の留主(るす)、御事かけにぞ侍らん。」
といへり。
「いつ、家を出たる。」
と問ふに、
「旧臘(きうらう)十三日、煤(すす)をとりての夜(よ)、かの山に行(ゆき)て、きのふまで其所(そこ)にあり。每日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物(ちんもつ)を給はる。客はみな、御出家にて侍る。きのふ、仰せつるは、明日は江戶へかへすべし。家づとに野老をほるべし。」
とあるによつて、これを掘(ほり)ける、など語りぬ。その家には此もの、師走(しはす)出(いで)たる事を曾(かつ)てしらず。其(その)代(しろ)としていかなるものか化(か)してありけると、後にこそはしりぬ。其後何の事もなく、それきりにぞすみける。
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「旧臘」「臘月」は旧暦十二月の異名。去年の師走の謂い。]
これと似たやうで違ふのが、「黑甜瑣語」にある秋田の話で、雄猿部(をさるべ)といふ深山の楠の梢に、百姓作之丞といふ者の屍が倒しまにかゝつてゐる。高い山の岨(そば)から深い谷へ垂れさがつた木なので、杣や木樵でも近寄ることは出來ない。たゞ遠くから見て、それらしいと云ふに過ぎなかつた。作之丞の家は無事に殘つて居つたが、或時昔の作之丞が突然歸つて來た。彼の物語りによれば、自分が四十歲に近い頃、山深く爪木を伐つてゐると、一人の大男がやつて來て、何か一つ二つ話すうちに、お前は過去が見たいか、未來が見たいかと云ひ出した。過ぎ去つた事は話にも聞けますが、行く末の事は壽命がなければ見られぬと思へば、ひとしほなつかしうございます、と答へたら、それでは今お前の命を縮め、八十年後に再生せしめて、更に三十年の壽命を與へよう、さうすれば百年後の世界が見られるわけだ、と云つて自分を見詰めた眼色の恐ろしさは何とも云ひやうがない。魂が消えるやうになつて、ひたすら詫言を云つたけれど、何事も宿業の致すところだ、と云つて自分は卽座に縊られてしまつた。その後の事は固より何も知らぬが、此間ふと氣が付いて見ると、例の大男が側に居つて、自分を仰臥させ、絕身を按摩してくれた上、今こそ許して歸す、長い間木の上で苦しかつたらう、と云ひ、歸る道を敎へてくれた。その山を出れば雄猿部の頂きであつた。山の木立、里の住居も變つたやうだが、自分の里に間違ひはない、と云つた。家人も訝しく思ふものの、過去の話をすれば悉く證據がある上に、前に見えた梢の屍が見えなくなつてゐるので、家の先祖として敬つたといふ話である。作之丞はそれから三十年たつて、正德の未に病死したといふから、彼が怪しい大男に逢つたのは百餘年前の勘定になる。
[やぶちゃん注:「雄猿部」現在の秋田県北秋田市七日市(なぬかいち)地区に「雄猿部川」という川名を現認出来る。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。
以上は「黑甜瑣語」の「四編卷之三」の「雄猿部の尸(かばね)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]