小穴隆一「二つの繪」 「あとがき」 附 奥付 /小穴隆一「二つの繪」~了
あとがき
芥川は鵠沼で僕に、あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふことを二度三度言つてゐた。芥川はどたんばになつてから〔僕は養家に人となり我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。〕と書いてゐるが、この遠慮がちな言葉さへも、日頃のその話術や調のいい文章のかきざまのために、有りのままが有りのままにどれだけ人に受けとられてゐるであらうかといふことを思ふ。僕は年寄達と別世帶になつて暮らせなかつた芥川の氣弱い性質と、明治時代の人の躾といふものをいまさらに考へる。
芥川は支那旅行から歸ると僕に、二人で月二百圓あれば大きい家にゐてボーイをおいて暮らせるから、支那に行つていつしよに暮らさないかと言つてゐた。その時はまだ、旅行中にも度度死なうと思つたなどといふことは言はなかつたが、死ぬと言ふやうになつてからは、トラピストにはひりたいとか、□夫人の且那さんに手紙を書いて監獄にいれてもらふとか、巴里の裏街で生活するとか言ひ、一番おしまひの九州大學の先生の話といふのには一寸執着をみせてゐたが、これとても自分で、自分のやうな人間は人の先生となるなどの資格はない、とあきらめたやうに言つてゐた。この一寸惜しまれる九州大學の先生の口の話は、ことによると小島(政二郎)さんあたりが悉しいのではないかと思つてゐるが、芥川がしばらく年寄達と離れ、また文壇といふものからも離れて、東京でなく九州に妻子といつしよにゐたならば、或は芥川に芥川のいふ、あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふものがあつたのかもしれない。〔他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。〕と芥川は書いてゐるが、僕にはいづれにせよ芥川といふ人は、所詮古へのひとのやうな出家といふかたちにゆく人であつたとしか思へない。
僕はこの本のために今日までに活字にしたものに一應手をいれてみた。手をいれてみると、僕はまだなにも芥川について書いてゐないしといふ氣がするだけである。僕は現に、原稿を淸書してもらつた大河内(昌子)さんに「芥川さんの死體は解剖されたのですか、」「芥川さんののんだ藥はなんですか、」と聞かれて、その質問に非常な新鮮さをかんじてゐるのである。
昭和三十年十一月 小穴隆一
[やぶちゃん注:「□夫人」秀夫人。一説に芥川龍之介は実際に秀しげ子の夫である帝国劇場電気部主任技師の秀文逸(ぶんいつ)に真相を告白し、事なきを得たという説もないではない。
「悉しい」「くはしい」。
「九州大學の先生の口」私はこの事実は知らない。小島政二郎が、芥川龍之介が海軍機関学校を嫌って、小島が当時、講師をしていた慶応大学文学部教授招聘に動いたことは、既に注した。しかし、芥川龍之介が九州大学教授となったとして、「あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふものが」再生出来たか、と問われれば、芥川龍之介の自恃、その後の時代の現実、といったものを考えた時、「ノー」と言わざるを得ない。]
[やぶちゃん注:以下、奥付。ブラウザの不具合を考え、ポイント及び字配を無視した。]
昭和三十一年一月三十日發行
二つの繪 芥川龍之介の囘想
定價一三〇圓
著 者 小 穴 隆 一
發行者 栗 本 和 夫
印刷者 山 元 正 宜
發行所 中
央 公 論 社
東京都千代田區丸ノ内二ノ二
丸ノ内ビルディング五九二區
電話和田倉(20)一一二一番
振替口座東京三四番
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[やぶちゃん注:以下は、上記の下部に横書。]
(三晃印刷・毛利製本)
[やぶちゃん注:以上の上部に検印代わりの印刷された以下の「一游亭」(小穴隆一の俳号)がある。]