小穴隆一「鯨のお詣り」(80)「一游亭雜記」(11)「昔ばなし」
昔ばなし
1
「兵隊さんのおならはネトネトしてる」
喇叭(らつぱ)のリズムをとつて、斯(か)ういふ言葉を歌にしてゐる童(わらべ)の聲を垣根のそとに聞いた時に、わたしの心には卒然として、
「ちよこちよこ連隊十三聯隊、まら○○前へおーい」
と、いふ言葉が湧(わ)いた。
三十何年の前にもなる日露戰爭當時の佐世保、服部中佐の銅像がある軍港佐世保その街で、わたし達少年は舟越海軍少佐の子も品部陸軍大尉の子も、喇叭のリズムに合はせて、ちよこちよこ聯隊十三聯隊まら○○前へおーいを、息脹(いきふくら)めて歌つてゐたのである。
[やぶちゃん注:「まら○○」「○○」には子らの姓が入るのか。「まら」は男根の意か。好く判らぬ。識者の御教授を乞う。
「服部中佐の銅像」戦前にあった海軍中佐の銅像(昭和十八年頃の軍事物資不足による金属供出で消失したものであろう)。よく判らぬが、日清戦争の大沽砲塁の戦いで戦死した海軍指揮官の服部雄吉中佐のことか?
「舟越海軍少佐」日露戦争の第二艦隊司令部の参謀に船越海軍少佐というのがいるが、これか?
「品部陸軍大尉」不詳。]
2
當時の佐世保尋常小學校には唱歌室などはなく、樂器の何物をも持たない先生が手ぶらで教壇に立つて、まづ一小節を歌つては口うつしで萬事(ばんじ)わたし達に歌はせてゐたものである。諸君が歌つてゐる軍隊の行進を思浮(おのひうか)べてくれれば幸(さいはひ)である。先生は一小節ごとに手拍子足拍子で、「アヽ、コリヤコリヤ」と合(あひ)の手を入れた、日露の戰(いくさ)まつさかりの時故(ゆゑ)、教(をそは)つたものは軍歌の類と、美しき天然(てんねん)である。
「アヽ、コリヤコリヤ」
われら生徒は歌の興(きよう)酣(たけなは)なるにいたれば、机を叩き、床を蹴り、一小節ごとに聲を張上げてゐたのである。
3
何時(いつ)か、「アヽ、コリヤコリヤ」の先生、そのわたし達を受持つてゐた先生が去つて、何時か神戸から新任の先生が來た。
唱歌の時間、この紙戸から來た先生とて、樂器無しには無論(むろん)口うつし法であつた。神戸の先生にとつての最初の唱歌時間、先生の歌に、アヽ、コリヤコリヤといつせいに合(あひ)の手を入れた生徒達を先生は驚いたらしい。東京から來た生徒、卽ち、わたしも初めは不思議な土地だと思つてもゐたのである。
「皆(みんな)が何時もさういふことをいふのか。」
「ハイ。前の先生には左樣にして教(をそ)はつてをりました。」「アヽ、コリヤコリヤは下等だから止めなければいけない。」と、いつたやうな先生と生徒、三十何年前の古き時代の神戸の先生、その羊羹色(やうかんいろ)の服は、モーニング・コートであつた。
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