小穴隆一「鯨のお詣り」(39)「河郎之舍」(2)「河郎之舍の印」
河郎之舍の印
[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河郎之舍の印」の原型。これも二種の印影をリンク先で掲げてあるが、本底本のものをここでは掲げておく。なお、前書などポイント落ちの箇所も総て本文と同ポイントで示した。また、短歌や俳句は底本では普通に並んでいるが、ここでは読み易さを考え、前後を行空けして示した。]
私は鬼趣圖をみてから歳月をおそろしく思つてゐる。既に私の頭もぼけてゐる。さうして、昔の何册かの游心帳は綴ぢもとれてしまつてゐる。自分の下手な歌や句のところはちぎり捨てて、ばらばらにしてあつた游心帳である。
河郎(かはらう)の舍(いへ)の主に奉る
河郎の陸(くが)をし戀ふる堪へかねて月影さやにヒヨロと立ち出づ 碧童
碧童ト了中ヲ訪フ途上
一つ傘に濡るる身柄(みがら)の默つた
[やぶちゃん注:「了中」は芥川龍之介の号の一つ。小穴隆一・小澤碧童・遠藤古原草らので「中」を皆が共有した号を作り、特にその内輪で盛んに用いた。なお、戸惑う方のために言っておくと、これは小穴隆一の句で、音数律を意識的に崩した当時、流行した新傾向俳句である。]
碧童さんの場合、碧童さんはいけすぎて困るのであるが、ここに昔の碧童さんと自分の筆跡を並べて寫しながらも、一盃いける人といけぬ者のちがひに、私一人は、感慨又感慨といつたわけである。然しながら、
行燈(アンドン)ノ灯影(ホカゲ)ヨロコビコヨヒシモ三人(ニン)ガアソブ燈影カソケキ
生(イ)キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノホカゲヨロコビ歌(ウタ)作リワブ
ムラムラニ黃菊白菊挿シアヘル河郎(カハラウ)ノ舍(イヘ)ノ夜(ヨル)ノヨロシモ
夜(ヨ)ヲコメテ行燈ホカゲヨロコベル三人ノモノ歌ヒヤマスモ
呉竹(クレタケ)ノ根岸ノ里ノ鶯(ウグヒス)ノ靑豆(アヲマメ)タべテ君ガヨロコブ
秋タケシ我鬼窟(ガキクツ)夜(ヨル)ノシジマナル三人ノアソビミタマヨヒカフ
シヅヤシス行燈ホカゲヨロベルウマ酒(ザケ)ノ醉(ヨヒ)身(ミ)ヌチメグルモ
幼(イト)ケナキコロヲ偲(シノ)ブハ行燈ノ燈影タノシミ寢(イネ)シ我(ワレ)カモ
行燈ノ燈影ヨロコブ酒蟲(サカムシ)ノアカ歌(ウタ)イカニ酒蟲ノ歌
白菊ノ花ノミダレヨ行燈ノホカゲニミレバ命(イノチ)ウレシキ
酒蟲(サカムシ)ノアカヨロコベル行燈ノ主(アルジ)寂シモ、とも書いてゐたこれらの碧童さんの醉筆(えうゐひつ)をたどつてゆけば、「悲しさのつと湧きにけりあんどうのほ影にありて酒蟲歌へる」といふ私自身の歌にもめぐりあひ、「書く會(くわい)をやらばや」の河郎之舍(かはらうのいへ)の主(ぬし)の姿、皆で淺草のどこぞで撮つて貰つた寫眞の中の颯爽たる我鬼窟の主(ぬし)、冠(かぶ)つた黑のソフトの上に箱庭の五重塔のやうな十二階をのせて、香取さんが作つた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた籐(とう)のステツキを手に持つた、燈光照死睡(とうくわうしすゐをてらす)なぞのらく書きをしなかつた時代の我鬼先生にも逢ふのである。
碧童さんの秋タケシ我鬼窟夜ノシジマナル、その我鬼窟に名護屋行燈、淺草で買つた五圓の南京皿(なんきんざら)にはちや柹(かき)、すゑものの杯臺(さかづきだい)(灰落しに使ふ)、和蘭陀茶碗(おらんだちやわん)を置いて、私はまた游心帳に押されてある河郎之舍(かはらうのいへ)の印について一寸述べてもみたい。
今日となつてみれば、體(たい)もそなへてゐないそれらのたはけ歌(うた)が、種々(しゆじゆ)の昔を私に物語つて呉れてもゐるのであるが、私は游心帳で昔の下手な少しばかりの自分の歌にも出會つた。小澤淸太郎が西德(にしとく)六代目忠兵衞、忠兵衞が碧童、仲丙(ちうべい)が篆刻家としてのその號であるが、その衷平(ちうべい)さんが、我鬼先生からまだ無心の手紙を貰つてゐない前に、私の游心帳に押してみせてくれた河郎之舍(かはらうのいへ)の印が、
「おこたちの運動愛會も雨なれば河郎之舍(かはらうのいへ)の印刻まれたまふか」で、
「河郎の陸(くが)をし戀ふる」ではないが、私はいまここに、河童はその河童の印にまで水に緣があるものかと知つて感歎してゐるのである。河郎之舍の印を刻上(きざみあ)げたその日、碧童さんは、夜ふけて淺草の五錢の木戸の舞姫? の安來節(やすきぶし)に、人を押しわけて大聲になつて和すかと思へば、またその三味線を彈(ひ)く盲(めしひ)の女がいく度(ど)か切れる糸をまさぐるに、おろおろと泣く、といつたたわけ歌の紹介が或は興(きよう)のあることかも知れないが、河郎之舍の印の話はたゞこれだけの話である。
[やぶちゃん注:「感歎してゐるのである。」のこの最後の句点の後に、読点がさらに打たれてあるが、誤植と断じて除去した。『「おこたちの運動愛會も雨なれば河郎之舍(かはらうのいへ)の印刻まれたまふか」で、』で改行されているのもママである。この狂歌は小穴隆一のものと思われる。歌の意味は「二つの繪」版の「河郎之舍の印」の最後に判るように書かれてある。
「西德(にしとく)六代目忠兵衞」小澤碧童はの生家は魚問屋であったが、八歳の時に祖父の元に養子に出された。祖父は「西德めぐすり」という目薬を作って生計を立てており、小澤はそれも継いだ。趣味人であったが故に多様な雅号を持っていたのである。]
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