小穴隆一「鯨のお詣り」(38)「河郎之舍」(1)「鬼趣圖」
河郎之舍
鬼趣圖
[やぶちゃん注:「二つの繪」の「鬼趣圖」の原型。挿絵は既に「二つの繪」のそちらで掲げたのが本底本の図である(新しい「二つの繪」版は当該写真の印刷が惨たらしいまでにひどかったからである)。ここでも再掲しておく。]
私は最近、十三年ぶりで、上根岸(かみねぎし)の小澤忠兵衞を訪ねた。さうして忠兵衞卽ち碧童さんが持つてゐた、箱書に鬼趣圖(きしゆづ)芥川小穴兩氏合作としてある物をみたののであるが、訪ねざること十三年、相知つて二十八年、私の十代、二十代、三三十代にかけて樂しかつた碧童さんその人に家に、この今日(こんにち)一卷(くわん)となつて所藏されてゐた鬼趣圖の倪小隆(げいせうりう)であつた私ですら、家に歸つた後(のち)に昔の游心帳を再びとりあつめながら、
龍之介隆一兩先生合作
鬼趣圖をみてよめる狂歌
ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞(しま)のきものの男(を)の子なりけり
うばたまのやみ夜(よ)をふけてからかさの舌(した)長々し足駄(あしだ)にもまた
と認(したゝ)めた、碧童さんの達筆に出合ふまではなかなかに安心が出來ぬ思ひをしたことであつた。
[やぶちゃん注:前書の「龍之介隆一兩先生合作」と「鬼趣圖をみてよめる狂歌」は底本ではポイント落ちで、しかも後者は前者よりさらに小さい。或いは、原本である小穴隆一の雑記帳(他者との寄せ書き帖でもあった)「游心帳」の文字の大きさを再現してあるのかも知れない。
「十三ぶり」本書でこう書き出しているということは(実は後出の昭和三一(一九五六)年の「二つの繪」の「鬼趣圖」でも「十三年ぶり」である)、意外な事実を我々に示していることに気づく。即ち、芥川龍之介の生前、龍之介も交えてすこぶる睦まじく会していたこの二人が、実に芥川龍之介自死後、一度も小澤碧童の家を訪ねていないという事実である。家を訪ねていないだけで、親しい交友は続いていたととれぬことはないが、しかし、どうも怪しい。小穴隆一は本書刊行前後から芥川家ともやや疎遠になっていた感じがするのであるが(先の「○○龍之助」のような危うい話を芥川の遺族が不快に思わないはずがない)、それだけでなく既に実はこうした龍之介を介して知り合っていた連中とも縁遠くなっていたというのが、事実なのではなかろうか? そこには本書のような芥川龍之介の詩生活の暴露的内容を持った朦朧文体のエッセイを、嘗ての知友たちも快く思っていなかったからという理由もあるのではあるまいかと私は思うのである。因みに、小穴隆一は本書刊行時は四十六歳(故龍之介より二歳下)、小澤忠兵衛碧堂(本名は清太郎)は芥川龍之介の知友では最も年嵩(故龍之介より十一年上)で当時で五十九であった。
「倪小隆」小穴隆一の漢名雅号。
「うばたまのやみ夜をふけてからかさの舌長々し足駄にもまた」の一首は「二つの繪」の「鬼趣圖」では、
うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた
となっている(「二つの繪」版はルビはない)。これは私は「ふけて」は誤植で、後出の「はけて」が正しいと断ずるものである。そもそも「闇夜を更けて」は表現としておかしいからであり、「はけて」は即ち、「ばけて」であり、
烏羽玉の闇夜を化けて唐傘の舌長々し足駄にも又
で腑に落ちるからである。大方の御批判を俟つものではある。次の本文は続いているが、ここは敢えて一行空けとする。]
鬼 趣 圖
奉書の卷紙といふものはタケが六寸五分と聞いてゐるが、それよりも七分五厘せまい卷紙に畫(か)きひろげられたる物、鬼趣圖は我鬼先生と一夜何を物語つて共(とも)に碧童さんにこれを畫(か)き送つたものか、すくなくとも當時の碧童さんと私との間には、何らかのこの鬼趣圖をなしたについては一場(ぢやう)の物語りがあつた筈ではあらうが、大正九年といへば、十九年も前のことであつて、二昔(むかし)の後(のち)に相語つて互にわけのわからぬ物なのである。私にわかつたことといへば、鬼趣圖は、駒込9・12・21の消印で送られてゐて、ろくろ首、うばたまの狂歌がある游心帳には四君子、寒椿、早梅(さうばい)等(など)の碧童さんと私の繪があるといふことだけにすぎない。
[やぶちゃん注:「大正九年といへば、十九年も前のことであつて」この計算が厳密なものとすれば、この作品内時制は昭和一四(一九三九)年ということになる。最初の小澤邸再訪の「十三年」とは齟齬しない。小穴隆一が小沢邸を訪ねたのは芥川龍之介が亡くなる前の年のことであったということになるだけのことである。]
碧童さんの所藏する鬼趣圖は、「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ。」と言つてゐた澄江堂主人の、一つ目の怪、のつべらぼう人魂の類(たぐひ)の物ではなく、「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君。」と言つてゐた我鬼先生のものであつて、同じ妖怪が畫(か)いてあつても妖怪にどことなく愛嬌があつた頃の物であるが、雲田子(うんでんし)、雲田子といへば私は、鬼趣圖の十日ほど前に、ボクは今(いま)王煙客(わうえんきやく)、王廉州(わうれんしう)、玉石谷(わうせきこく)、惲南田(うんなんでん)、董其昌(とうきしやう)の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭(どうてい)萬里(ばんり)の雲煙(うんえん)を咫尺(しせき)に收めたと云ふ形(かたち)だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲(さめず)の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷(いりや)の兄貴(あにき)も勿論つれ出すさ、「雲田屋我鬼兵衞(くもだやがきべゑ)」の手紙を貰つてゐたのである。この二十枚といふ小説が「秋山圖」であつたのは勿論のことであるが、當時の私はまだ甌香館集(おうかうくわんしふ)と補遺畫跋(ほゐがばつ)のなかに記秋山圖始末(きしうざんづしまつ)があることしらそれを知らなかつたのである。
[やぶちゃん注:「雲田子」芥川龍之介の漢名雅号。
「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ。」「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君。」という二つの芥川龍之介の台詞は、「二つの繪」版の「懷舊」の方で生かされてある。
「澄江堂主人の、一つ目の怪、のつべらぼう人魂の類」「一つ目の怪」と「のつべらぼう」は既に掲げたが、再掲しておく。芸がないので、序でに「人魂」と「からかさお化け」も出そう。
総て、例の中央公論美術出版の小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に載るものである。]
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