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2017/02/19

柴田宵曲 妖異博物館 「乾鮭大明神」

 

 乾鮭大明神

 

 岡田士聞の妻が安永六年に奧州の旅をして「奧の荒海」といふ紀行を書いた。北から來て廣瀨川、名取川を渡り、武隈明神に詣でた後のところに、からさけ大明神の事が記されてゐる。昔松前に赴いた一商人が乾鮭を持つてゐたが、行程の長いのに思ひ煩ひ、乾鮭を松の枝に掛け、この處の主となれ、と戲れて立ち去つた。暫くたつてこの魚が光りを放つのを奇瑞とし、土地の人が神と崇めるに至つた。この神が生贄(いけにへ)を好むため、所の歎きになつて居つたが、或人不審してこれを窺ひ、古狸の仕業と判明したとある。

[やぶちゃん注:「岡田士聞」河内の出身の儒者岡田鶴鳴(寛延三(一七五〇)年~寛政一二(一八〇〇)年)の字(あざな)。代々、幕臣水野家に仕え、河内片野神社神職も兼ねた。彼の妻となった「奥の荒海」の作者小磯逸子は、京出身で、右大臣花山院常雅の娘敬姫の侍女っであった。敬姫は松前藩藩主に嫁いだが亡くなり、安永六(一七七七)年に京都へ帰る途中の事柄を日記にしたものが「奥の荒海」だという(小磯逸子については、msystem氏のブログのこちらの記載に拠った)。以上の箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのちらの画像で視認出来る。]

「怪談登志男」にあるのは飛驒の話で、黐繩(もちなは)に雁が一羽かゝつたところへ、越後より通ふ商人が四五人通り合せて雁を取り、代りに馬につけた乾鮭をかけて去る。これを見て獵師が先づ不思議がり、それからそれと話は大きくなつて、から鮭大明神の社造營となつた。翌年の春、越後の商人が歸りがけにこの社を見、去年は無かつた筈だと里人に尋ね、はじめてその由來がわかる。商人等顏を見合せて笑ひ出し、その乾鮭は自分達が掛けて行つたのだ、神樣でも何でもないと立ち去つた。信仰忽ち崩れ、社は毀たれたが、これには生贊だの、古狸の仕業だのといふ怪談めいた事は一切書いてない。

[やぶちゃん注:この話は後で柴田も挙げているように明らかに中国の説話由来である。これ、授業でやったわ! 木の股の洞に水が溜まったところに魚の行商人が悪戯に売れ残った鰻(原文は「鱣」)を投げ入れて立ち去った。後から来た男がその鰻を見つけて、こんな所に鰻がいるはずがない、これは霊鰻だということになり、社(やしろ)が出来、栄えた。暫くして、先の行商人がそこを通り、件の霊験譚を耳にし、それを取って調理して食ってしまい、見る間にその社は廃れた、という話である。調べたところ、これは宋の劉敬叔の志怪小説集「異苑」(但し、一部は明末に発見されたものの増補と考えられている)の「卷五」の以下であった。

   *

○原文

會稽石亭埭有大楓樹、其中空朽。每雨、水輒滿溢。有估客載生鱣至此。聊放一頭於朽樹中、以爲狡獪。村民見之、以魚鱣非樹中之物、咸謂是神。乃依樹起屋、宰牲祭祀、未嘗虛日。因遂名鱣父廟。人有祈請及穢慢、則禍福立至。後估客返、見其如此、卽取作臛。於是遂

○やぶちゃんの書き下し文

 會稽の石亭埭(せきていたい[やぶちゃん注:堤の名であろう。])に大楓樹、有り。其の中(うち)は空朽(くうきう)なり。雨ふる每(ごと)に、水、輒(すなは)ち滿溢(まんいつ)す。估客(こきやく[やぶちゃん注:行商人。])の生鱣(せいせん[やぶちゃん注:生きた鰻。])を載せて此に至る有り。聊(いささ)か一頭を朽樹(きうじゆ)の中に放ち、以つて狡獪(かうくわい)を爲す。村民、之れを見て、魚鱣(ぎよせん)は樹中の物に非ざるを以つて、咸(みな)、是れ、神なりと謂ふ。乃(すなは)ち、樹に依りて屋(をく)起(た)て、牲(にへ)を宰(をさ)めて祭祀し、未だ嘗て虛日(きよじつ)あらず[やぶちゃん注:供養しない日はなかった。既にして大盛況となっていることを指す。]。因りて遂に「鱣父廟(せんぽべう)」と名づく。人、有りて祈請し、穢慢(ゑまん[やぶちゃん注:穢れのある行為や、祭祀を怠ること。])に及べば、則ち禍・福、立ち至る。後に估客、返りて、其の此(か)くのごときを見て、卽ち、取りて臛(あつもの)と作(な)す。是(ここ)に於いて遂に絕ゆ。

   *

 「怪談登志男」は「かいだんとしおとこ」(現代仮名遣)と読み、寛延三(一七五〇)年刊の慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)著の怪談集。私の好きな怪談集で、いつかは全文を電子化したいと考えている。以上は「卷之三」の冒頭にある「十二 乾鮭の靈社」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。]

 

 田中丘隅が妻の實家を訪ふに當り、川狩りをしてギヽウといふ魚一尾を獲た。これを携へて道を急ぐうち、或山中で獵師の張つた網に雉子がかゝつてゐるのを見付け、姑への土產にはこの方がよからうといふので、雉子を取つて代りにギヽウを置いて行つた。そのあとに來た獵師はこれを見て大いに驚き、水に住む魚が山の中の網にかゝるのは不思議だと云ひ出し、陰陽師に占はせた結果、これは山神の祟りである、速かにこの魚を神に祭るべし、といふことになつた。ギヽウ大明神の岡は忽ち出來上つたが、たまたま大風雨があつたので、村民は神變と心得て、神前に湯花を捧げ、神樂(かぐら)を奏する。この間に乘ずる謠言などもあつて、騷ぎは次第に大きくなつた。丘隅はこの事を聞き、ギヽウ大明神の祟りは某が鎭めよう、どんな事があつても驚いてはならぬぞ、と戒めた上、祠を毀つて燒き、ギヽウを燒いて食つたのみならず、神酒まで飮んで歸つて行つた。村民はびつくり仰天し、山神の祟りを恐れたが、その後何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「田中丘隅」江戸中期の農政家・経世家(政治経済論者)田中休愚(きゅうぐ 寛文二(一六六二)年~享保一四(一七三〇)年)の別名である(同じく「きゅうぐ」と読むか)。ウィキの「田中休愚」によれば、『武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる』。『平沢村の名主で絹物商を兼業する農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる』。『子供の頃から「神童」の誉れが高かった休愚は、兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となる。その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の田中源左衛門家』『で暮らすようになる。これが縁で東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いで』、宝永元(一七〇四)年四十三歳の時、『川崎宿本陣名主と問屋役を務め』、宝永六(一七〇九)年には『関東郡代の伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿の経営に変えることで、付近の村の村民が人足に駆り出されることがないようにし、同時に川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築』いた。正徳元(一七一一)年五十歳に『なった休愚は猶子の太郎左衛門に役を譲り、江戸へ出て荻生徂徠から古文辞学を成島道筑から経書と歴史を学』んだ。享保五(一七二〇)年、四国三十三ヵ所巡礼から帰宅した彼は、『自分が見聞きしたことや意見等をまとめた農政・民政の意見書』民間省要の執筆を開始』、翌六年に『完成させる(田中丘隅名義)。『民間省要』を上呈された師の成島道筑は、当時関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に献上。時の将軍・徳川吉宗は、大岡と伊奈忠逵を呼んで休愚の人柄を尋ねた後』、享保八(一七二三)年に『休愚を御前に召』した。当時六十二歳に『なっていた休愚は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について自身の意見を述べ』、『この一件で休愚は支配勘定並に抜擢され』、十人扶持を『給され、川除(かわよけ)普請御用となる。荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水の改修工事、相模国(神奈川県)酒匂川の浚渫・補修などを行』った。『富士山の宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて』三十人扶持を給されて三万石の『地の支配を任される』。享保一四(一七二九)年七月には遂に代官となり、『正式に大岡支配下の役人として、地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち』三万石を支配、殖産政策にも携わって、同年中には『橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)から櫨(ろうそくの原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている』という。『死後、子の田中休蔵が遺跡を引き継ぐ。なお、休愚の急死は、六郷用水の補修で世田谷の領地を突っ切ったことで、伊奈家から大岡に苦情があったため、切腹したとされる伝説も残っている』という。

「ギヽウ」古くから食用とされた川魚である条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps こと。和名はオノマトペイアで、彼らが水中で腹鰭の棘と基底の骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す(陸の人間にも聴き取れる)ことに由来する。また背鰭・胸鰭の棘が鋭く、刺さるとかなり痛いので注意が必要である。]

 

「百家琦行傳」は丘隅の話を傳へた後に、「風俗通」の話を掲げてゐる。その話は先づ田の中で麞(くじか)を拾ひ得たことに始まる。これを澤の中に置いてどこかへ行つたあとに、魚商人が通りかゝり、商賣物の鮑魚(ほしうを)を麞に換へて去る。麞を置いた男は、その俄かに鮑魚と變じたのを神異とし、鮑魚神と祭られるに至る。數年たつてから前の魚商人が來て、これ我が魚なり、何ぞ神ならんやと云ひ、祠に入つて鮑魚を持ち去つた。順序は田中丘隅の話と同じである。鮑魚神の話は「怪談登志男」にも引いてあつた。

[やぶちゃん注:「百家琦行傳」「ひゃっかきこうでん」(現代仮名遣)は八島五岳著。五巻五冊。天保六(一八三五)年自序で弘化三(一八四六)年刊。以上は「卷之四」の「田中丘隅右衞門」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「風俗通」後漢末の応劭の「風俗通義」の略称。諸制度・習俗・伝説・民間信仰などに就いて記す。以上のそれは「怪神」の中の「鮑君神」である。中文サイトより加工して示す。

   *

謹按、汝南鮦陽有於田得麇者、其主未往取也。啇車十餘乘經澤中行、望見此麇著繩、因持去。念其不事、持一鮑魚置其處。有頃、其主往、不見所得麇、反見鮑君、澤中非人道路、怪其如是、大以爲神、轉相告語、治病求福、多有效驗、因爲起祀舍、眾巫數十、帷帳鍾鼓、方數百里皆來禱祀、號鮑君神。其後數年、鮑魚主來歷祠下、尋問其故、曰、此我魚也、當有何神。上堂取之、遂從此壞。傳曰、物之所聚斯有神。言人共獎成之耳。

   *

「麞(くじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis(一属一種)。体長 七十五~九十七センチ、体高約五十センチメートル。雄の上犬歯が長く、牙状(この歯は下顎の下方にまで達する)を呈することが名の由来。川岸の葦原や低木地帯に小さな群れを成して棲息する日中活動性の鹿である。「風俗通義」の「麇」は近縁種のノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus

「鮑魚」「はうぎよ(ほうぎょ)」で、これは魚の種を指すのではなく、広く塩漬けにして保存食とした魚の加工品を指す。]

 

 支那にはこの類の話が多く、「太平廣記」などにも、「異苑」「抱朴子」等からいくつかの話を擧げてゐる。民間信仰の起りにはかやうのものが多いから、强ひてからさけ大明神を以て支那渡りとするにも當らぬが、魚の祭られる一點は同一系統に屬すると云へるかも知れぬ。たゞ「太平廣記」にある話は悉く魚ではない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」宋の太宗の勅命によって作られた、稗史(はいし:中国で公的な正史の対語で、民間から集めて記録した小説風の歴史書を指す)・小説その他の説話を集めた李昉(りぼう)らの編に成る膨大な小説集。五百巻。九七八年成立。神仙・女仙・道術・方士以下九十二の項目に分類配列されており、これによって散逸してしまった書物の面影を今に知ることが出来る貴重な叢書である。

「抱朴子」「はうぼくし(ほうぼくし)」は晋の道士葛洪(かっこう)の著作。三百十七年に完成した。内篇は仙人の実在及び仙薬製法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を大系化したものとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関わる評論。]

 

 貞享三年の「其角歲旦牒」にある

  干鮭も神といふらし神の春   仙化

といふ句も、から鮭大明神に因緣あるらしく思はれるが、これだけでは十分にわからぬのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:句と俳号の字配は再現していない。

「貞享三年」一六八六年。

「歲旦牒」「歳旦帳(帖)」のこと。月の吉日を選び、連歌師・俳諧師が席を設けて門人と歳旦の句を作って「歳旦開き」に披露するため、前年中に歳暮・歳旦の句を集めて板行した小句集。これを出すことが俳諧師の面目であり、門下を拡大する必須行為でもあった。

「仙化」(生没年未詳)「せんか」と読む。直接の蕉門の門人。芭蕉庵で行われた句会を元にした貞享三(一六八六)年閏三月板の「蛙合(かわづあはせ)」を編している。この集中で、かの蕉風開眼とされる「古池や蛙飛びこむ水の音」に対し、「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」の句をものしており、別号も青蟾堂(せいせんどう)である。]

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