柴田宵曲 妖異博物館 「鼠遁」
鼠遁
寛文十年の夏、現世居士、未來居士といふ二人の幻術者が來て、種々の不思議を見せ、諸人を惑はしたことがある。その國の國主は、左樣の者が居れば諸人亂を起す基だと云つて、直ちに召捕り、磔刑に處するやうに命じた。その時兩人が、我等只今最期に及び申した、こゝに一つのお願ひと申すは、我等がこれまでに仕殘した術が一つある、それを皆樣に見せてから刑に就きたいと思ふ、かほどきびしく警固の人々が槍刀で取圍んで居らるゝことであるから、外に逃れるべき途もない、少し繩をおゆるめ下さい、と云ひ出した。警固の者どもも、靑天白日の下ではあり、少しぐらゐ繩をゆるめたところで、どこへ行けるものでもあるまいと油斷して、ちよつと繩をゆるめたと思ふと、未來居士は忽ち一つの鼠となり、磔柱の橫木に上つてうづくまる。現世居士は鳶になつて虛空に飛び上り、羽をひろげて舞つてゐる。この狀態は少しの問で、鳶はさつと落ちかゝり、鼠を摑んで行方知れずになつた。警固の者は今更の如く驚き、方々尋ねたけれども、繩は縛つたまゝ殘り、二人の所在はわからぬので、その場に出た警固の役人、足輕に至るまで、重いお咎めを蒙つた(老媼茶話)。
[やぶちゃん注:この原文は既に「飯綱の法」で注引用した。]
この話は國主とあるのみで、どこの出來事とも書いてないが、「虛實雜談集」では、これが豐太閤と果心居士になつている。太閤或時果心居士を召して、何か不思議の術を見せよと命ずると、白晝變じて闇夜となり、一人の女が現れて、太閤に向つて恨みを述べる。この女は木下藤吉郎時代に契つた者で、間もなく病死したため、誰にも話したことがなかつたのに、まざまざと昔の事を語るのに驚き、我が胸中の祕事を知つてゐるのは曲者である、かゝる者を生かして置いては、今後如何なる災禍を起すやも知れずと、近習を呼んで礫刑に行はしめる。その時自分はこれまで多くの術を行つたが、未だ鼠にならなかつたのが遺憾である、願はくは少し繩を弛め給へと云ひ、鼠になつて磔柱を搔き上ると、空から鳶が舞ひ下つてこれを摑み去る。「老媼茶話」は二人の居士が鼠と鳶を分擔するのであつたが、果心居士にはワキがない。一人二役を演じたものと見える。
[やぶちゃん注:「虛實雜談集」瑞竜軒恕翁(じょおう)作で寛延二(一七四九)刊。私は所持しない。なお、本話は先行する「果心居士」も参照されたい。
「ワキ」能の役方のそれを指す。次段参照。]
この話は支那氣分が濃厚である。「列仙傳」の超廓は永石公に道を學んだが、師から見ると幾分不安な點があつたらしい。遂に法に問はれさうになつた時、先づ靑鹿となり、次いで白虎となり、最後に鼠になつて捕へられた。永石公はこれを聞いて面會に行き、兵士に圍まれた中で逢ふことを許される。廓、前の如く鼠になったところを、自ら鳶となつて摑み去り、飛んで掌中に入るとある。これもシテワキが備はつてゐる。
[やぶちゃん注:「列仙傳」道教に纏わる仙人の伝記集。二巻。ウィキの「列仙伝」によれば、前漢末、楚王劉交の子孫である官僚劉向(りゅうきょう)が、昔、秦の大夫であった阮倉の『記した数百人の仙人たちの記録を』七十余人に絞り込んで『書き記したものとされている』ものの、『劉向が選したというのは仮託であり、後漢の桓帝以降に成立したものと見られている』とある。但し、ここに出る「超廓」の話は、現行の正本の「列仙傳」には載らず、調べて見るとこれは北宋の「太平廣記」の「方士一」に「列仙傳」(逸文か)からとして引かれる「趙廓」の話である。以下に中文サイトより加工して引く。
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武昌趙廓、齊人也。學道於呉永石公、三年、廓求歸、公曰、子道未備、安可歸哉。乃遣之。及齊行極、方止息、同息吏以爲法犯者、將收之。廓走百餘步。變爲靑鹿。吏逐之。遂走入曲巷中。倦甚。乃蹲憇之。吏見而又逐之、復變爲白虎、急奔、見聚糞、入其中、變爲鼠。吏悟曰、此人能變、斯必是也。遂取鼠縛之、則廓形復焉、遂以付獄。法應棄市、永石公聞之、歎曰、吾之咎也。乃往見齊王曰、吾聞大國有囚、能變形者。王乃召廓、勒兵圍之。廓按前化爲鼠、公從坐翻然爲老鴟、攫鼠而去、遂飛入雲中。
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「集異記」に見えた茅安道はすぐれた術士であつた。二人の弟子に隱形洞視の術を授けたが、術未だ熟せず、韓晉公に捕へられて殺されさうになつた。安道これを聞いて救ひに行くあたり、永石公と全く同じである。晉公は繩も弛めず、白刃の下に弟子と相見ることを許した。安道は公の左右に水を乞うたが、公は水遁の術を行はんことを恐れ、固く與へようとしない。安道は公の硯に近づき、その水を含んで二弟子に吹きかけると、二疋の黑鼠に化して庭前に飛び出す。安道は忽ち大きな鳶となり、兩方の足に一疋づつ鼠を摑んで、虛空遙かに舞び去つた。晉公は驚駭を久しうするのみで、如何ともすることが出來なかつた。この場合は役者が一人殖えてゐるが、二弟子の立場は全く同じだから、ワキヅレと見てよからう。
[やぶちゃん注:「隱形洞視」現代仮名遣で「いんぎょうどうし」と読んでおく。姿を隠す術と、相手の表情からその心を既に読み取る術のことか。
「集異記」は「集異志」とも表記し、晩唐の陸勲撰になる志怪・伝奇小説。全二巻あったが完本は伝わっていない。以上もやはり「太平廣記」の「方士三」に「茅安道」として載るその逸文である。前と同様に引く。
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唐茅安道、廬山道士、能書符役鬼、幻化無端、從學者常數百人。曾授二弟子以隱形洞視之術、有頃、二子皆以歸養爲請。安道遣之。仍謂曰、吾術傳示、盡資爾學道之用。即不得盜情而衒其術也。苟違吾教。吾能令爾之術、臨事不驗耳。二子授命而去。時韓晉公滉在潤州、深嫉此輩。二子徑往修謁、意者脱爲晉公不禮、則當遁形而去。及召入、不敬、二子因弛慢縱誕、攝衣登階。韓大怒、即命吏卒縛之、於是二子乃行其術、而法果無驗、皆被擒縛。將加誅戮、二子曰、我初不敢若是、蓋師之見誤也。韓將倂絶其源、卽謂曰、爾但致爾師之姓名居處、吾或釋汝之死。二子方欲陳述、而安道已在門矣。卒報公、公大喜、謂得悉加戮焉。遽令召入、安道龐眉美髯、姿狀高古。公望見、不覺離席、延之對坐。安道曰、聞弟子二人愚騃、干冒尊嚴。今者命之短長、懸于指顧,然我請詰而愧之、然後俟公之行刑也。公卽臨以兵刀、械繫甚堅、召致階下、二子叩頭求哀。安道語公之左右曰、請水一器。公恐其得水遁術。固不與之。安道欣然、遽就公之硯水飲之、而噀二子。當時化爲雙黑鼠、亂走於庭前。安道奮迅、忽變爲巨鳶、每足攫一鼠、冲飛而去。晉公驚駭良久、終無奈何。
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