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« 靑空に   山村暮鳥 | トップページ | 樂園   山村暮鳥 »

2017/03/19

À FUTUR   山村暮鳥

 

[やぶちゃん注:以下の「Á FUTUR」には、明らかに、虚心に読んでいても躓き、これは脱字ではないか? と思わせる箇所がある。そこには、また、不自然な半角ほどの空白が躓く「し」の直前に認められることオートマティスム(自動書法)としても「そのうごめく純白の無數の」が、ひらがなの「し」(「死」としか採れないが、ここをひらがなにする意図が判らぬし、ここで「死の影」を出してしまえば、後の続きの詩篇は如何にもで無化するように私には思われる)「の影」とは頗るジョイントが悪いことなどから、幾つかのネット上の資料を調べて見た結果、脱字であることが明白と判断し、ここは例外的にそれを「し」ではなく、「あし」の「あ」の脱字と判断した。彌生書房版全詩集は「し」のままであるが、例えば、現在の決定校訂底本の一つと考えてよい筑摩書房山村暮鳥全集を底本とした「青空文庫」版では「あし」であり、何より、初出誌のそれ(後掲)を掲げてある、アリエル氏のブログ「人生は野菜スープ(または毎晩午前0時更新の男)」の「現代詩の起源(5); 山村暮鳥『聖三稜玻璃』(ii)」でも「あし」である以上、これは脱字と断ずる以外にはないように思われることから、例外的に、

《あ》

として挿入することとした。悪(あ)しからず。あくまで、原詩集に拘って読まれるという方は、それがないものとしてお読みになられたい。]

 

 

À FUTUR

 

まつてゐるのは誰。 土のうへの芽の合奏の進行曲である。 もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。 永遠にうまれない畸形な胎兒のだんす、そのうごめく純白な無數の《あ》しの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讃美をかい探る。

 

わたしをまつてゐるのは、誰。

 

黎明のあしをとが近づく。 蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。 眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫えてゐる。 それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。 嵐よ。 わたしの幻想の耳よ。

 

わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやはらかな髮を梳る。 誰だ、わたしを呼び還すのは。 わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびてゐる。 靑に朱をふくめた夢で言葉を飾るなら、まづ、醉つてる北極星を叩きおとせ。 愛と沈默とをびおろんの絃のごとく貫く光。 のぞみ。 煙。 生(いのち)。 そして一切。

 

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。 わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。 いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましひ)。 汝(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。 汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。 靈魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしやれ)な獸の哲理を知れ。 翼ある聲。 眞實の放逸。 再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。

 

靡爛せる淫慾の本質に湧く智慧。 溺れて、自らの胡弓をわすれよ。 わたしの秘密は蕊の中から宇宙を抱いてよろめき伸びあがる、かんばしく。

 

わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。 そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちや)を愛す。 猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。 朦朧なる水晶のよろこび。 天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。

 

いたづらな蠱惑が理性の前で額づいた……

 

何といふ痛める風景だ。 何時(いつ)うまれた。 どこから來た。 粘土の音(ね)と金屬の色とのいづれのかなしき樣式にでも舟の如く泛ぶわたしの神聖な泥溝(どぶ)のなかなる火の祈禱。 盲目の翫賞家。 自己禮拜。わたしのぴあのは裂け、時雨はとほり過ぎてしまつたけれど執着の果實はまだまだ靑い。

 

はるかに燃ゆる直覺。 欺むかれて沈む鐘。 棺が行く。 殺された自我がはじめて自我をうむのだ。 棺が行く。 音もなく行く。 水すましの意識がまはる。

 

黎明のにほひがする。 落葉だ。 落葉。 惱むいちねん。 咽びまつはる欲望に、かつて、秘めた綠の印象をやきすてるのだ。 人形も考へろ。 掌の平安もおよぎ出せ。 かくれたる暗がりに泌み滲み、いのちの凧のうなりがする。 歡樂は刹那。 蛇は無限。 しろがねの弦を斷ち、幸福の矢を折挫いてしくしくきゆぴとが現代的に泣いてゐる。 それはさて、わたしは憂愁のはてなき逕をたどり急がう。

 

おづおづとその瞳(め)をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乘せた騾馬――記憶。世界を失ふことだ。 それが高貴で淫卑なさろめが接吻の場(シイン)となる。 そぷらので。 すべてそぷらので。 殘忍なる蟋蟀は孕み蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、歸らぬ鳩は眩ゆきおもひをのみ殘し。

 

おお、欠伸(あくび)するのはせらぴむか。 黎明が頰に觸れる。 わたしのろくでもない計畫の意匠、その周圍をさ迷ふ美のざんげ。 微睡の信仰個條(クリイド)。 むかしに離れた黑い蛆蟲。 鼻から口から眼から臍から這込むきりすと。 藝術の假面。 そこで黃金色(きんいろ)に偶像が塗りかえられる。

 

まつてゐるのは誰。 そしてわたしを呼びかへすのは。 眼瞼(まぶた)のほとりを匍ふ幽靈のもの言はぬ狂亂。 鈎をめぐる人魚の唄。 色彩のとどめを刺すべく古風な顫律(リヅム)はふかい所にめざめてゐる。 靈と肉との表裏ある淡紅色(ときいろ)の窓のがらすにあるかなきかの疵を發見(みつ)けた。(重い頭腦(あたま)の上の水甕をいたはらねばならない)

 

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繫がれてゐる。そして懶(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。

 

[やぶちゃん注:太字箇所は総てが原典では傍点「ヽ」。句点の後の間隙は原典自体が有意に空いているため、敢えて再現した。本詩篇も前の「靑空に」と同じく『風景』の創刊号(大正三(一九一四)年五月一発行)に「肉體の合奏の進行曲」という題で発表し、白神正晴氏の「山村暮鳥年譜」によれば、後に「À FUTUR」と改題して本詩集に収録した散文詩とする。以下に先に細かな点を箇条で示す。

・第一段落の「廻つて」「讃美」の「廻」「讃」の字体はママ。

・第三段落の「あしをと」及び「顫えてゐる」の歴史的仮名遣の誤りはママ。

・第六段落の「秘密」及び後の第十一段落の「秘めた」の「秘」の字体はママ。

・第十三段落の「欠伸」の「欠」はママ。

・同第十三段落末の「塗りかえられる」の「かえられる」の歴史的仮名遣の誤りはママ。

 まず、冒頭に示したアリエル氏のブログ「人生は野菜スープ(または毎晩午前0時更新の男)」の「現代詩の起源(5); 山村暮鳥『聖三稜玻璃』(ii)」から、初出形を示したい。但し、アリエル氏のそれは新字であるので、取り敢えず漢字は本「聖三稜玻璃」に準じて概ね正字化してみた(行空けや記号はアリエル氏のそれを踏襲した)。なお、アリエル氏はを「A FUTUR」としておられるが、白神氏の上記記載から「肉體の合奏の進行曲」という題が正しいはずである。それを冒頭に置いてみた。但し、私は現雑誌を視認していないわけであるから、万一、誤りがあるのであれば、お教え願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。

 先に言っておくと、初出形には本「聖三稜玻璃」決定稿ではカットされた末尾二段落が存在する(リンク先を見て戴くと判るが、アリエル氏の表示の最後の部分には不審がある。但し、最後のところで氏が「(以下末尾2連『聖三稜玻璃』決定稿では削除)」と記しておられるので以下のように削除された二連を「末尾」(最後)に表示した)

   *

 

肉體の合奏の進行曲

 

まつてゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒のだんす、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讃美をかい探る。

 

わたしをまつてゐるのは、誰。

黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫へてゐる。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

 

わたしをめぐる悲しい時計のうれしい針、奇蹟がわたしのやはらかな髮を梳る。誰だ、わたしを呼び還すのは。わたしの腕は、もはや、かなたの空へのびてゐる。靑に朱をふくめた夢で言葉を飾るなら、まづ、醉つてる北極星を叩きおとせ。愛と沈默とをびおろんの絃のごとく貫く光。のぞみ。煙。生(いのち)。そして一切。

 

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましひ)。汝(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。靈魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしやれ)な獸の哲理を知れ。翼ある聲。眞實の放逸。再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。

 

靡爛せる淫慾の本質に湧く智慧。溺れて、自らの胡弓をわすれよ。わたしの秘密は蕊の中から宇宙を抱いてよろめき伸びあがる、かんばしく。

 

わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちや)を愛す。猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。朦朧なる水晶のよろこび。天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。

 

いたづらな蠱惑が理性の前で額づいた……

 

何といふ痛める風景だ。何時(いつ)うまれた。どこから來た。粘土の音(ね)と金屬の色とのいづれのかなしき樣式にでも舟の如く泛ぶわたしの神聖な泥溝(どぶ)のなかなる火の祈禱。盲目の翫賞家。自己禮拜。わたしのぴあのは裂け、時雨はとほり過ぎてしまつたけれど執着の果實はまだまだ靑い。

 

はるかに燃ゆる直覺。欺むかれて沈む鐘。棺が行く。殺された自我がはじめて自我をうむのだ。棺が行く。音もなく行く。水すましの意識がまはる。

 

黎明のにほひがする。落葉だ。落葉。惱むいちねん。咽びまつはる欲望に、かつて、秘めた綠の印象をやきすてるのだ。人形も考へろ。掌の平安もおよぎ出せ。かくれたる暗がりに泌み滲み、いのちの凧のうなりがする。歡樂は刹那。蛇は無限。しろがねの弦を斷ち、幸福の矢を折挫いてしくしくきゆぴとが現代的に泣いてゐる。それはさて、わたしは憂愁のはてなき逕をたどり急がう。

 

おづおづとその瞳(め)をみひらくわたしの死んだ騾馬、わたしを乘せた騾馬----記憶。世界を失ふことだ。それが高貴で淫卑なさろめが接吻の場(シイン)となる。そぷらので。すべてそぷらので。殘忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、水仙はなぐさめなく、歸らぬ鳩は眩ゆきおもひをのみ殘し。

 

おお、欠伸(あくび)するのはせらぴむか。黎明が頰に觸れる。わたしのろくでもない計畫の意匠、その周圍をさ迷ふ美のざんげ。微睡の信仰個條(クリイド)。むかしに離れた黑い蛆蟲。鼻から口から眼から臍から這込むきりすと。藝術の假面。そこで黄金色(きんいろ)に偶像が塗りかへられる。

 

まつてゐるのは誰。そしてわたしを呼びかへすのは。眼瞼(まぶた)のほとりを匍ふ幽靈のもの言はぬ狂亂。鉤をめぐる人魚の唄。色彩のとどめを刺すべく古風な顫律(リヅム)はふかい所にめざめてゐる。靈と肉との表裏ある淡紅色(ときいろ)の窓のがらすにあるかなきかの疵を發見(みつ)けた。(重い頭腦(あたま)の上の水甕をいたはらねばならない)

 

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繫がれてゐる。そして懶(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。

 

おお、日本。私は汝(そなた)のために薔薇の戴冠式を踵の下で祝するぞ。汝は童話の胸に凭れた騾馬か。

わたしを待つのは汝ではない。それは見えぬ彼女だ。彼女と相見るところの現實の中心、おお、爪立てる黎明のゆびさき。大空を楯としてわたしと夢のながい凝視、それが、又、無始無終の刹那を創り、孤獨の無智への飛躍をする。

 

   *

 或いは、削除された二連は「騾馬」(らば)の叙述からは、現在の最終連の前にあるのかも知れぬ。そのうちに図書館で筑摩書房版全集を調べてみようとは思っている。

 

 以下、禁欲的に語釈する。

À FUTUR」フランス語で「未来に」「将来於いて」の意。音写するなら「ア・フュトゥール」。

「蠧魚と小さく甦る」「蠧魚」は「しみ」。紙魚のこと。「蠧魚と」なって「小さく甦る」の意。

「逕」「みち」或いは「こみち」と訓ずる。前者でよかろう。

「殘忍なる蟋蟀は孕み蝶は衰弱し、」現行では「殘忍なる蟋蟀は孕み、蝶は衰弱し、」と「孕み」の後に読点が打たれている。まあ、あった方がより良くはある。

「信仰個條(クリイド)」単なる一般名詞としての“creed”は「宗教上の信経・信条・信念・主義・綱領」などの意であるが、恐らくここは“the Creed”でキリスト教の中で西方教会(カトリック教会・聖公会・プロテスタント)における基本信条の一つである「使徒信条・使徒信経」(ラテン語:Symbolum Apostolicum/英語:Apostles' Creed)を指している。これはラテン語原文の冒頭の語をとって「クレド」(Credo)とも呼称される。信条本文は参照したウィキの「使徒信条にあるので参照されたい。]

 

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