航海の前夜第四篇 月夜 山村暮鳥
月夜
おもひ惱む逍遙の砂の上、
踏みておぼえる蹠の疊のほとぼり。
あ、あ、接吻(キツス)に頰と頰のよる時、
眼を閉てひろびろとはてなき
海上を見給へ。
汐の囁めき――。あかき灯――。
いま此の情緒を柔らげる、
喘息(あへぎ)、
悲哀(かなしみ)、
白き肌と淫唄(ざれうた)は、
さながら忘れ殘したる物語より。
歡樂に抱かれ眠るふところより
靑い瞳の微笑む如く、……
月夜となれば我が心、――(花にほふ窓に)
やつれた女の顏のみゑがき歡ぶ。
[やぶちゃん注:「航海の前夜」五篇の第四篇。「踏みて」の「踏」及び「灯」は底本のママとした。前者は私自身が「蹈」という字形を生理的に好まぬというプライベートな理由卯から、「灯」はしばしば作家によって「燈」と区別して用いられることがあるからである。前者は悪しからず。
「蹠」は私は何故か「あうら」と反射的に読んでしまうが、一般的ではないので、「あしうら」と暫くは読んでおく。]