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2017/03/07

柴田宵曲 妖異博物館 「提馬風」

 

 提馬風

 

[やぶちゃん注:「提馬風」本文の第三段落に出るが、そこでは「だいばふう」とルビする。馬を襲う怪風の名。

 なお、柴田が本章で主に拠っている「想山著聞奇集」の「頽馬の事」は非常に長いので、本章の原典注は最後に纏めて附すことにした。合わせて浅井了意の「伽婢子」(「御」をか冠さないのが正式)の方も(こちらは短い)そう処理した。語注は従来通り、各段落末に附した。]

 

 頽馬(だいば)といふものは「想山著聞奇集」に委しい説明がある。著者三好想山は下男の吉松といふ美濃の男からいろいろな話を聞いた。吉松は馬方渡世をしてゐた爲、馬の事に通じて居り、頽馬と云はずにギバと稱して居つた。ギバは玉蟲の如き黃金色の小さな馬に乘つた女で、猩々緋の衣服を纏ひ、金の瓔珞を冠つてゐる。それが切紙鳶のやうにひらひらと落ちて來ると、此方の馬は異常な聲でいななく。ギバの乘つた小さな馬が前足を馬の口に當て、後足で馬の耳から鬣の方を蹈まへ、馬の顏にひしと抱き付く時、ギバが馬上でにつこり笑ふと等しく、その姿は消え失せる。此方の馬は右の方へ三度𢌞つて斃れ、それなりになつてしまふ、といふのである。不案内の馬士(まご)は大概これでやられてしまふが、心得た者は馬土半纏なるものを帶なしにはおつてゐて、ギバが馬の首に取付いた途端、半纏の右袖だけを脱ぎ、左の袖は口綱へ通したまゝ、ギバ諸共(もろとも)馬の首にかぶせ、馬が右へ𢌞らうとするのを、強ひて左へ向け、脊筋の一點へ針を打つ。さうすれば助かる、といふ話であつた。

[やぶちゃん注:「頽馬(だいば)」柴田と「想山著聞奇集」は「だいば」と濁っているが、ウィキの「頽馬」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、それは「たいば」と清音である。『本州や四国各地に伝わる怪異。馬を殺すといわれる魔性の風で、馬を飼う地方では非常に恐れられていた』と始まり、『頽馬は路上を歩いている馬を突然にして死に至らしめてしまうという。倒れた馬は、口から肛門にかけて太い棒を差し込んだかのように肛門が開いているといい、馬の鼻から魔物が入り込んで尻から抜け出すために起こる怪異といわれた』。『浅井了意の著書「御伽婢子」には頽馬のことが詳しく述べられている。それによれば、急につむじ風が起き、馬の前方で砂煙が車輪のように回り、砂煙が馬の首に近づくとたてがみが一本一本逆立ち、そのたてがみの中に赤い光が差し込み、悲鳴と共に馬が倒れ、馬が死ぬと共に風が消えてゆくとある』。『尾張国(現・愛知県)や美濃国(現・岐阜県)などではギバ(馬魔)といい、小さな女性のような姿の妖怪で、緋色の着物と金の頭飾りを身につけており、玉虫色の小馬に乗り、空から馬を襲うという。馬は危険を感じてひどく嘶くが、脚を絡み付けて馬が抵抗できないようにする。そしてギバがにっこりと微笑むと姿を消し、標的の馬は右に数回回り、命を落とすという。頽馬を擬人化したものがギバとの説もある。また常陸国(現・茨城県)の民話によれば、馬の皮はぎをしていた家の娘が、自分たちが周囲から差別されることを悲しんで(不景気による生活苦を悲嘆して、との説もある)自殺し、ギバに生まれ変わり、その怨念から馬を襲うようになったのだという。滋賀県大津市にも同様の伝説があり、ギバとなった娘は馬を殺すことで、馬の皮はぎをする父の商いを助けているという』。『頽馬の発生時期は四月から七月にかけてで、特に五月から六月、晴れたり曇ったりと天候の変化の激しい日に多い。また美濃では白馬のみが被害に遭い、遠州(現・静岡県)では栗毛や鹿毛の馬が被害に遭いやすいといい、老婆や牝の馬は被害に遭わないともいう』。『頽馬の被害を防ぐには、馬の首を布で覆う、虻よけの腹当てをする、馬の首に鈴をつけるなどの方法が良いという。また被害に遭ってしまった際には、馬の耳を切って少量の血を出したり、馬の尾骨の中央に針を打ち込んで馬を刺激すれば、馬は正気に戻って助かるという。前述の「御伽婢子」によれば、馬の前方を刀で斬り払って光明真言を唱えれば怪異を逃れられる、とある』。『明治時代の物理学者・吉田寅彦は著書「怪異考」で頽馬のことを取り上げており、頽馬の発生場所、時期、被害の状況などから、一種の空中放電現象による感電死ではないかと考察している』(当該箇所を最後の注で掲げる)。『大津市三井寺町の長等神社には、かつて馬の病気が大流行した際、その病害を鎮めるために建てられた馬神神社がある。馬方が街道を旅していた時代には、ギバ除け(頽馬除け)として「大津東町馬神」「大津東町上下仕合」と記した馬神神社の腹掛けが用いられた。荷物運搬の手段が馬から自動車となった現在でも、馬を愛する人たちから馬の守護神として信仰されており、馬用のギバ除けの札も配られている。競馬や乗馬の関係者の訪問も多い』。当初は馬が摂餌すると、麻酔されたようになって動けなくなってしまう有毒植物、ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属亜属アセビ亜種アセビ(馬酔木)Pieris japonica subsp. japonica によるものを想起したのだが、たちどころに死んでしまうとすると、どうもアセビではなさそうだ。引用に出る雷撃による感電死、馬の体内寄生虫が脳などに迷走して起こる致命的な狂騒状態、叢の見えないところでマムシなどに咬まれたケースなども候補となろうかとは思われる。また、後掲する「想山著聞奇集」では頻りに「白虻」と出るのであるが、虻(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera に属する一群の総称)のような吸血性昆虫を原因とする伝聞も記し、確かにそれらが耳・鼻などの奥に侵入して吸血行為を行ったなら狂騒する可能性は高いが、それだけで致命的な死に至ることがあるという点では疑問が残る。但し、そうした中でも、馬伝染性貧血は注目しておく必要があるであろう。これは馬伝染性貧血ウイルス(レトロウイルス科レンチウイルス亜科レンチウイルス属(EIA: Equine infectious anemia virus)に分類されるRNAウイルス)による感染症で、ウイルスを含む血液が虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans)などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類(奇蹄目ウマ形亜目ウマ上科ウマ科 Equidae)にのみ感染するもので、参照したウィキの「馬伝染性貧血」によれば、『本疾病は重度の貧血を伴う高熱が特徴で高熱が持続して衰弱死亡する急性型、発熱の繰り返しによりやがては衰弱~死亡に至る亜急性型、発熱を繰り返すもののやがて徐々に軽度となり健康馬と見分けができなくなる慢性型に大別される』あるので、この馬伝染性貧血の急性劇症型による死亡ケースは本現象をよく説明するとも思われるとからである。特定の地区で限定して発生している点からは、当該ウイルスを持った媒介生物がそこに限定して棲息していた(いる)可能性も疑い得る。しかし、「想山著聞奇集」では瀉血染みた治療を行ってもおり、これだったなら、逆効果であるようにも思われる

「ギバ」前注を参照。そこでは「馬魔」と漢字を当てているが、これではとてもそうは読めない。幾つかのケースを見ると、「頽馬」で「ぎば」とも読んでいるようである。「頽」の字は呉音が「ダイ/デ」、漢音が「タイ」であるから「デバ」はやや近く、カタカナ表記だと「デ」を「ギ」と読み誤ることはありそうには思われる。但し、一般に妖魔の類いは通常の読みとは異なる字音を当てて読まれることがままあるから、これもそうした異界対象への確信犯の読みかとも想像はされる。柴田は後段でこの呼称変異を「さのみ問題とするに足らぬ」と一蹴しているが。

「猩々緋」(しやうじやうひ(しょうじょうひ)とは緋色の中でも特に強い黄みがかった朱色を指す色名。室町後期からの南蛮貿易により舶来した毛織物の中でも、特に羅紗(らしゃ)に多く見られた。「猩々」自体は中国の伝説上の生物で人の顔をし、子供のような声を出し、鮮やかな赤い体毛を持つ、全体の形態は犬や猿に似るものとされる。その血は異様に赤いとされたことから、本色名が生まれたとされる。

「瓔珞」(やうらく(ようらく))は珠玉や貴金属に糸を通して作った華麗な装身具。本来は古代インドの上流階級の人々が使用したものであったが、仏教に取り入れられて仏像を飾ったり、寺院内で内陣の装飾として用いられるようになった。

「切紙鳶」これで「たこ」(凧)と読んでいるか「想山著聞奇集」の原典は『紙鳶』で、これは、しばしば「いか」「いかのぼり」と読んで所謂、遊戯に使う「凧(たこ)」を指すものであるからである。紙を切って鳶(とび)のような形にした「凧」である。しかし或いは、「ひらひらと落ちて來る」と続くところからは、糸の切れた凧で「きれだこ」と読んでいるのかも知れぬ

「鬣」「たてがみ」。]

 吉松はギバに二度出遭つたと云つて居る。ギバなる妖怪は一つのものか、幾つもゐるものか、それはよくわからない。嘗て近村の野の入口に馬に灸をすゑるところがあり、馬が五六十疋も集まつてゐたが、二三十間ほど向うに繫がれてゐる馬が、頻りにいなないてきりきりと𢌞り出したかと思ふと、屛風のやうに倒れて死んだ。馬醫者が駈け付けて、これはギバのかけたのだ、と云ひも果てぬうちに、また他の馬が同じやうに𢌞り出して斃れた。皆々顏色を變へて、灸は取り止め、そこそこに自分の馬を牽いて歸つたなどといふ話もある。ギバにかけられるのは、馬を牽いてゐる者だけに見えるので、前後に竝んで馬を牽いて行つても、他の馬士にはわからぬさうである。

[やぶちゃん注:「二三十間」三十七~五十四メートル半。]

 想山は吉松の外の下男からもギバの話を聞いてゐるが、遠州濱松の男の云ふところでは、濱松邊ではギバとは云はず、ダイバと云ふ、ダイバにやられる場所は大體きまつてゐて、それ以外の場所ではやられるものでない、といふことであつた。想山はよほどこの事に興味を持つたらしく、馬醫者をはじめ、馬術に老功の人々にも尋ねて見たが、その説はまちまちで更に要領を得なかつた。この怪物の由來に就いても、諸説紛々として更に決著せぬやうである。倂しダイバといふ言葉は、想山も引用した「伽婢子(とぎばふこ)」の記載によるものであらう。尾張、美濃、駿河、遠江、三河の間に提馬風(だいばふう)といふものがある。馬に乘るとか、馬を牽いて行くとかいふ場合、突然旋風が起つて砂を卷き込め、丸くなつて馬の前に立ちめぐる樣、車輪の轉ずるが如くである。その旋風が次第に大きくなつて馬の上にめぐると、馬の鬣はすくすくと立ち、その鬣の中に細い鶴のやうな赤い光りがさし込み、馬が頻りに棹立ちして、いななくうちに斃れてしまふ。その時はもう風は跡形もとゞめぬので、如何なる者の業とも知れがたい。旋風が馬の上に覆ひかかる時、刀を拔いて拂ひ、光明眞言を呪すれば、風は散り失せて馬にも障りがない、とある。「伽娘子」は寛文六年版だから大分古いが、それから「想山著聞奇集」までの間に、この怪異に就いて書いたものがあるかどうか。少くとも想山は「伽婢子」によつてこの記事を書いたものでなく、ギバ乃至ダイバの話を聞いたところから、遡つて「伽婢子」に到達したものの如く眺められる。

[やぶちゃん注:「寛文六年」一六六六年。「想山著聞奇集」の板行は嘉永三(一八五〇)年であるから、百八十四年ものスパンがある。]

「伽婢子」に支那の話の飜案が多いことは、改めて説くまでもあるまい。圓朝で有名になつた「牡丹燈籠」なども、早く天文年間の京都の話として、この書に載つてゐるのである。提馬風の話も「諾皐記」から取り入れたらしい。旋風が常に馬前に起ること、鬣が植ゑたやうに立つこと、長い鬣の中に細い絲の如きものが見えること、馬が立つていななくこと、これらの材料はすべて「諾皐記」の通りである。「諾皐記」の軍將は馬を下りてその樣を見てゐたので、遂に怒つて佩刀を取り、切り拂つた爲に風は散滅し、馬もまた死ぬ。馬腹を剖いて見ても、何の異狀も認められなかった、といふことになつてゐる。光明眞言を呪するの一事は、提馬風の稱と共に「伽婢子」の著者が加へたものであらう。提馬風からダイバとなり、更にギバと轉訛する言葉の變遷の如きは、この場合さのみ問題とするに足らぬやうである。

[やぶちゃん注:「天文」一五三二年~一五五五年。

「諾皐記」(だくこうき)は唐の段成式(八〇三年?~八六三年)の撰になる怪奇説話集。一巻。早稲田大学図書館古典総合データベスのここ(画像。同書末尾)で辛くも見出した。]

 ギバに就いては往年寺田寅彦博士が「怪異考」といふ文章に取り上げられたことがあつた。博士は自然現象の側からこの事を考へて、旋風及び空中放電を擧げ、種々の考察を試みてゐる。「伽婢子」は今の東海道線の沿線に當る諸國の現象とし、「想山著聞奇集」の記述もこの範圍を出ぬやうであるが、果して他國に見られぬ現象であらうか。支那の河北省に於ける原語と同じ自然現象が、特に右の諸國に起り易いとすると、その點からも考へる餘地がありさうである。玉蟲色の馬とか、猩々緋の衣服に金の瓔珞とかいふ幻想は、「伽婢子」以後に發生したもので、怪異譚である以上、やはり無いよりはあつた方が面白い。

[やぶちゃん注:「寺田寅彦博士」「怪異考」は昭和二(一九二七)年十一月発行の『思想』初出。「青空文庫」のこちらで全文(新字新仮名・入力/(株)モモ・校正/かとうかおり氏)が読めるが、当該箇所は第二章で、非常に興味深いので、リンク先からその全文を掲げておく。原テクストの注記を除去し、記号を一部変更した。

   *

 

       二

 

 次に問題にしたいと思う怪異は「頽馬(たいば)」「提馬風(たいばふう)」また濃尾(のうび)地方で「ギバ」と称するもので、これは馬を襲ってそれを斃死(へいし)させる魔物だそうである。これに関する自分の知識はただ、磯清(いそきよし)氏著「民俗怪異篇(みんぞくかいいへん)」によって得ただけであって、特に自分で調べたわけではないが、近ごろ偶然この書物の記事を読んだ時に、考えついた一つの仮説がある。それは、この怪異はセントエルモの火、あるいはこれに類似の空中放電現象と連関したものではないかという事である。

 右の磯氏の記述によるとこのギバの現象には二説ある。その一つによると旋風のようなものが襲来して、その際に「馬のたてがみが一筋一筋に立って、そのたてがみの中に細い糸のようなあかい光がさし込む」と馬はまもなく死ぬ、そのとき、もし「すぐと刀を抜いて馬の行く手を切り払う」と、その風がそれて行って馬を襲わないというのである。もう一つの説によると、「玉虫色の小さな馬に乗って、猩々緋(しょうじょうひ)のようなものの着物を着て、金の瓔珞(ようらく)をいただいた」女が空中から襲って来て「妖女(ようじょ)はその馬の前足をあげて被害の馬の口に当ててあと足を耳からたてがみにかけて踏みつける、つまり馬面にひしと組みつくのである」。この現象は短時間で消え馬はたおれるというのである。この二説は磯氏も注意されたように相互に類似している。これを科学的な目で見ると要するに馬の頭部の近辺に或(あ)る異常な光の現象が起こるというふうに解釈される。

 次に注意すべきは、この怪異の起こる時の時間的分布である。すなわち「濃州(のうしゅう)では四月から七月までで、別して五六月が多いという。七月になりかかると、秋風が立ち初める、とギバの難は影を隠してしまう。武州(ぶしゅう)常州(じょうしゅう)あたりでもやはり四月から七月と言っている」。また晴天には現われず「晴れては曇り曇っては晴れる、村雲などが出たりはいったりする日に限って」現われるとある。また一日じゅうの時刻については「朝五つ時前(午前八時)、夕七つ時過ぎ(午後四時)にはかけられない、多くは日盛りであるという」とある。

 またこの出現するのにおのずから場所が定まっている傾向があり、たとえば一里塚(いちりづか)のような所の例があげられている。

 もう一つ参考になるのは、馬をギバの難から救う方法として、これが襲いかかった時に、半纏(はんてん)でも風呂敷(ふろしき)でも莚(むしろ)でも、そういうものを馬の首からかぶせるといいということがある。もちろん、その上に、尾の上の背骨に針を打ち込んだりするそうであるが、このようにものをかぶせる事が「針よりも大切なまじない」だと考えられている。またこれと共通な点のあるのは、平生のギバよけのまじないとして、馬に腹当てをさせるとよい、ただしそれは「大津東町上下仕合」と白く染めぬいたものを用いる。「このアブヨケをした馬がギバにかけられてたおれたのを見た事がないと、言われている」。

 別の説として美濃(みの)では「ギバは白虻(しろあぶ)のような、目にも見えない虫だという説がある、また常陸(ひたち)ではその虫を大津虫と呼んでいる。虫は玉虫色をしていて足長蜂(あしながばち)に似ている」という記事もある。

 以上の現象の記述には、なんらか事実に基づいたものがあるという前提を置いて、さて何かこれに類似した自然現象はないかと考えてみると、まず第一に旋風が考えられる。もし旋風のためとすればそれは馬が急激な気圧降下のために窒息でもするか内臓の障害でも起こすのであろうかと推測される。しかしそれだけであってこのギバの他の属性に関する記述とはなんら著しい照応を見ない。もっとも旋風は多くの場合に雷雨現象と連関して起こるから、その点で後に述べる時間分布の関係から言って多少この説に有利な点はある。しかしいわゆる光の現象やまた前述のまじないの意味は全くこれでは説明されない。

 これに反して、ギバがなんらかの空中放電によるものと考えると、たてがみが立ち上がったり、光の線条が見えたり、玉虫色の光が馬の首を包んだりする事が、全部生きた科学的記述としての意味をもって来る。また衣服その他で頭をおおい、また腹部を保護するという事は、つまり電気の半導体で馬の身体の一部を被覆して、放電による電流が直接にその局部の肉体に流れるのを防ぐという意味に解釈されて来るのである。

 またこういう放電現象が夏期に多い事、および日中に多い事は周知の事実であるので、前述の時間分布は、これときわめてよく符合する事になる。

 場所のおのずから定まる傾向については、自分は何事も具体的のことをいうだけの材料を持ち合わせないが、これも調べてみたら、おそらく放電現象の多い場所と符合するようなことがありはしないかと想像される。

 しかしこの仮説にとって重大な試金石となるものは、馬のこの種の放電に対する反応いかんである。すなわち人間にはなんらの害を及ぼさない程度の放電によって馬が斃死(へいし)しうるかどうかという事である。これについてはおそらくすでに文献もある事と思われるが、自分はまだよく承知していない。ただ馬が特に感電に対して弱いものであるという事だけは馬に関する専門家に聞いて確かめる事ができた。なおこれについては高圧電源を用いていくらも実験する事が可能であり、またすでにいくらかは実験された事かもしれない。しかし実験室で、ある指定された条件のもとにおいて行なわれた実験が必ずしも直接に野外の現象に適用されるかどうかは疑わしい。結局は実際の野外における現象の正確な観察を待つ必要がある。

 ギバの現象が現時においてもどこかの地方で存在を認められているか。もしいるとすればこれに遭遇したという人の記述をできるだけ多く収集したいものである。読者の中でもしなんらかの資料を供給されるならば大幸である。

(この「怪異考」は機会があらば、あとを続けたいという希望をもっている。昭和二年十月四日)

   *

 次に「想山著聞奇集」の「卷の壹」の「頽馬(だいば)の事」を、所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年三一書房刊)から引く。附図二枚も添える。《2017年3月12日追記:こちらで本格的に電子化注したので、容量を食う画像は除去した。リンク先で見られたい。》【 】は原典の二行割注。

   *

 

 頽馬の事

 

 馬に頽馬(だいば)と云ふ病有て卒死するが、尾張・美濃邊にては是をギバと云ひ、斃るゝをかけると云ふ。土俗は此ギバと云は、一種の魔物有て、馬の鼻より入て、尻に出れば、馬忽ち斃と云傳る事也。予、少年より魔物有に違ひなしと思ひて、馬術鍛練の人々に尋るに、多くは馬の病なりとて、魔有事をしる人少し。然るに今、慥成事を聞まゝに書付置ぬ。

 天保三【壬辰】年予が許に抱置し下男吉松は、濃州武儀郡志津野村の百姓なり。

 此吉松、八九歳より馬を好み、今年二十五歳まで、馬方を渡世となして、馬の事は至て功者也。此者云。ギバと云は、虛(うそ)か實(まこと)かは存奉らず候えども、近江の國大津の東町の穢多の娘死してギバと成、馬を斃せし由、土俗の申傳に御座候と云り。扨て、其形ちを見て知り居しやと問に、存居候と答ふ。それは如何成形ちのものにやと問に、玉蟲の如き、こがね色の小き馬に乘たる女にて、猩々緋の衣服を着て、金の瓔珞を冠り、紙鳶のきれたるやうに、天よりひらひらと降來ると、馬は忽、喉綱(のどづな)【股綱ともいふ こゞめ綱とも云】を切、首を上げ、只事ならぬ聲して嘶き申候。其時、ギバの乘たる妖馬の前足を我馬の口の方へあて、跡足を我馬の耳より鬣(たてかみ)の方へ踏(ふみつけ)て、馬の面にひしと懷抱(いだきつき)申候。此時、彼ギバの怪女、必につこりと笑ふと等しく、姿は消失申候。さすれば、馬は右の方へ三度𢌞りて、斃れて夫成に卽死する物に御座候。不案内の馬士は、多くはかけられて仕舞申候。此故に、常に馬土半纏と申を着て居申候。此馬士半纏と申候は、羽織にてもあれ、纏絆にてもあれ、或は風呂鋪又は薄團薦菰(こも)[やぶちゃん注:底本には「薄」の右に『(蒲)』と底本編者の補正注がある。ルビ「こも」は「菰」のみに打たれているが、私は「薦菰」の二字で「こも」と読む。]やうのもの、何にても衣服の上に、帶なしに羽織居候を申候。是はギバの防ぎの爲にて御座候。扨、ギバ、空より來りて馬の頸に取付く時、左の手にて口を取居て、彼馬士半纏の右の袖斗りをぬぎ、左の袖は口綱へ通せしまゝ、彼魔物とともに馬の首にかぶせて、馬は右へ𢌞らんとするを、馬の首を強て左りへ向て、直に尾の上の脊筋に穴御座候【百會の事なり[やぶちゃん注:「ひゃくゑ」で経絡(ツボ)の名。]】是へ針を打候へば、夫切にて助り申候。是を留針と唱申候。かの魔物、馬の鼻より入て尻の穴へ出ると申す事故、左りへ𢌞せば勝手違ひて又もとの鼻へ出て行と申傳へ候へども、其時は、馬を殺しては成申さずと周章(あはて)居る故、鼻より出て行所を見たる者は承り申さずと答て、はなはだ慥成事なり。

 扨又、彼ギバに幾度逢たるやと問に、二度逢申候と答ふ。其魔物と云は、唯一つのものか、又幾つも有物か、量り難し。始に逢たる顏色と、後に逢たる顏色と、同じ樣なりしや、覺えはなきかと尋試るに、夫迄には覺も御座なく候。去ながら、最早、慥に覺置申候まゝ、今一度、逢候へは、二魔か一魔か、見損じは仕らず候と聢(しか)と答て、元來、此よし松は甚だ精神慥成者也。左候はゝ、其方のみならず、他の者もギバに逢たる者有しやと問に、皆、誰々も逢申候。誰が見たるも同じものにて、玉蟲色の鹿程の大さの馬に乘て、猩々緋の如き色をなしたる衣服にて御座候。緋縮緬の色とは違ひ申候。何れも女雛の如き瓔珞を冠り居申候。白色の馬に限りてかけ申候。栗毛・鹿毛の類を懸しは一たびも承り申さず候。馬を牽候程の者は、互に馬の咄斗り仕候故、凡十里四方ほどの馬の變は、其日の内に直に噂承り申候。私のかけられ懸り申候馬も白月毛と珊目(さめ)馬[やぶちゃん注:「さめうま」とは眼の白い馬を指す。]に御座候といへり。

 又、他の馬をかけし所を見たるかと問に、近村の入口の野に、馬の灸をすゑる所御座候。馬の五六十も寄て灸治して居申候とき、二三十間斗り向に繫ぎ有し馬、頻りに嘶(いなゝ)き、きりきりと𢌞り申候。あれあれあの馬があのやうなる事をすると申間(ま)もなく、屛風をたふす如く斃れ死申候。馬士ども駈附たれ共、仕方なく、伯樂も【馬醫の事也】駈付て、ギバのかけし也と云もはてぬに、又、傍のうま、同じ有樣に𢌞出して斃(をち)申候まゝ、其日は灸も央(なかば)にて、皆々顏色靑くなり、馬を牽歸り申候。此時の馬も白月毛と月毛とにて御座候。是は今より七年以前の事に御座候といへり。【文政九年に當れり。】 

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

此時斃(をち)し二疋の馬の爲に、惣馬士中、奉加して、人の丈ほどなる石の地藏尊二體を造り、野中に安置なしたり。然るに誰始るともなく、この尊體に馬の病の願を懸るに、靈驗いちじるく、今は百度參りなどするものも多く有て、皆、利益を蒙る事とぞ。尋常(よのつね)の石工の彫たる新像なれども、靈驗は直に其躰へ宿り給ふ事と見えたり。

 又、人の牽ゆく馬に、ギバの懸る所を見しやと問に、それも一度見申候へ共、此ギバ、魔物故、馬をひき居候者の目にならでは見え申さず。跡先に並びて馬を牽行候ても、他の馬士には見えぬと申事に御座候。或時、關と岐阜との間、あくたび[やぶちゃん注:現在の岐阜県岐阜市芥見(あくたみ)のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ところを、十五疋つれ立牽行候に、七疋目の馬、白馬にてギバ懸け申候。此馬士は不案内にて、我等が馬があんな事をして啼て、天より變なる者が馬の頭の所へ來りしはと云を、前後の馬士共の功者なるが聞て、夫はギバじや、早く馬の首を左りへむりに牽𢌞せなど、口々に詈り、かけよりて馬の顏へ半纏を覆ふも有。或は口を左りへ取者も有。其中にも、格別事馴たる馬士駈來りて、直にかの百會に針を打、まづよしまづよし留針を打たり、死ぬことにてはなしと申。夫にて馬は助り申候。是は馬士が不案内故、前後の馬士ども駈寄てやうやう介添なし、餘程、手間のかゝりし故、時刻も移り候へども、何事もなく、危難をのがれ申候。元來は珍敷事故、其外には逢たる事も御座なく候といへり。

 又、俗に申候は、此ギバと申は、いつの事なりしか、大津の東町と申所は穢多町にて御座候ひしが、此所に、老父を持たる一人の娘御座候て、斃(をち)馬少ければ職業難儀故、彼娘、ギバと成、馬を殺し步行(あるく)由、申事に御座候。夫故、腹當【小日受とも云】に大津東町上下仕合と云を染込置候へば、我所の馬と心得、掛申さぬ由、申傳へ候て、今もみな、腹當には染る事に御座候と申せし。然らば、その腹當を當居たる馬に、ギバの掛しはなきかと問ふに、夫はいかゞ候やらん。私牽たる馬には、此腹當は仕居申さずと答たり。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

今、關東にては此腹當を懸たる馬を見ず。名古屋邊は十に八九は此腹當也。西國・北國筋はいかゞにや。惣じて關東にては、彼馬士半纏を着たるをも一向に見ず。美濃・尾張邊の馬士は、必ず上に帶なしのものを羽織居るなり。

 右、吉松の申所は實に正敷事也。予、是を考るに、國により所により一樣ならざる歟。猶、諸國の老伯樂に聞訂置度事なり[やぶちゃん注:「ききただしおきたきことなり」と読む。]。

 又一年、濃州多藝郡明德(めいとく)村【養老より半道程東北の方、高須・竹が鼻などの近邊なり、前にいふ志津の村とは十里餘、坤の方なり。[やぶちゃん注:現在の岐阜県養老郡養老町明徳(みょうとく)。ここ(グーグル・マップ・データ)。前に出た志津野(しつの)村から、ここは南西に同距離にある】捨松といふ者をも下男に抱置たり。この者も又、馬士をもなせし者ときゝしかば、ギバの事を委敷尋るに、此捨松は、中々よし松程の功者にはあらねども、其答、又明らかなり。ギバと云は、白虻の如き蟲と申事也と、伯樂は申せども、誰も慥に見たりと申ものは、承はらず候。鼻より入て尻へぬけると申ことにて、此邊は夏のうち、四月より七月迄の事にて、五六月は別て多くかけ申候。七月にても、秋風立とかけ申さず。四五歳の馬を多くかけ、八歳迄はかけ申候。夫より老馬は一切掛申さず。女馬もかけ申さず侯。良馬程、多くかけ申候。伯樂の中には、朝五ツ時前、夕七つ時過に掛たるはなき事にて、毛色は蘆毛多く黑鹿毛抔をもかけしと申候と云へり。【前に云、志津野村邊にてかけしは白毛・毛[やぶちゃん注:「ときげ」と読むか。「」は「鴇」の異体字。言わずもがな、鳥綱ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia Nippon のこと。トキは全身が白っぽいが、春から夏にかけての翼の下面は朱色がかった濃いピンク色を呈し、これを特に「朱鷺(とき)色」と称する。]・粕毛・𩥭[やぶちゃん注:「さめうま」。前に出た白眼の馬のこと。]・連錢驄[やぶちゃん注:「れんぜんあしげ」と読む。「連銭葦毛」は葦毛に灰色の丸い銭模様の斑点の交っているものを指し、「虎葦毛」「星葦毛」等とも呼ぶ。]の類にて必白色の事也と。僅十餘里の隔にて、かくまで事の違ふは量りがたき事どもなり。】惣じて餘國にてかけしは栗毛・鹿毛の類もよく聞及べば、全く所によりて違ふ事と覺たり。此明德村邊にては、堤土手などを牽行ば、多くかける也。田畑にてかけしは少なく、厩にて掛たる事はなきと也。捨松が見し所にてかけられたるは、明德野にて、牡丹蘆毛の馬、卽死せり。ギバのかけたるなりと伯樂のいひしが、是は𢌞らずに斃(をち)たりといへり。扨、其ギバを遮る法はなしやと問に、大垣より出す守りの木札有。是を馬に懸れば、ギバを除(よける)とて、近來は多く掛申候。此外には如何とも、のがるべきやうは承らずと語りたり。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

予聞に、野州・總州邊にては、ギバの就たるには、必馬の耳を切て助る事と云。【馬の耳は急所にて、至ていたがるよし。夫故、馬の氣を取直す事か。】又、馬の平首を切て助る地(ところ)も有と云り。武州多摩郡新座郡(にひざごほり)邊より江戸へ出る功者成馬士共に尋るに、彼邊にても、頽馬としる時は、馬の耳を切り、刄物なき時は喰切ても助る事にて、切事遲き時は助からずといへり。是も四月頃より七八月頃迄の内の事にて、快晴の日には決てなく、時々、村雲抔出る日にはありと云。又、馬を南向に繫ぎ置ば、彼急症發(おこ)るとの申傳へにて、心有馬士は一切、南向には繫ぎ置ざる事とぞ。かの怪物の目にさへぎることはなけれ共、馬は嘶(いなゝき)て、棒の如く立と云り。大同小異、國々種々成事としられたり。

 予、或高士に眞言祕密の法也とて授りたるは、鞭にて梵書を書き、馬の鼻のあたりを打拂て魔を除く法有。【ギバは馬の鼻より入ればなり。】竹策(たけむち)の三十六禽[やぶちゃん注:「禽」は「きん」と読み、動物のこと。旧一昼夜十二時のそれぞれに十二支とはやや異なる動物を配し、さらにそのそれぞれに二種ずつ付き従う動物を配したもの。五行では占いに用いるが、仏教では逆に修行者を悩ませる魔性の物とする。]に表して、三十六節有策ならでは功驗なしとの傳にて、理を極たる事勿論なれども、何策(なにむち)にても主(ぬし)の巧拙に寄べき歟。か樣の事は席上の功者ばかりにては間に合ぬもの也。幾度も事に逢て修し得るにあらざれば、眞の功者とは謂がたき歟。又、伽婢子續篇【寛文年間の印本】に曰く、尾濃駿遠參州の間に提馬風とてこれ有。里人、或はうまに乘、或は馬を牽て行に、旋風おこりて砂を卷籠て、丸く成て馬の前にたちめぐり、車の輪の轉ずるが如し。漸くに其旋風大に成、馬の上にめぐれは、馬の鬣ずくずくと立て、其鬣の中に細き糸の如く色赤き光り差込、馬頻りに棹立、いばひ嘶きし[やぶちゃん注:「いばふ」も「いななく」に同じい。]うちに斃れ死す。風、其時散失て跡なし。如何成ものゝ業とも知人なし。若、旋風、馬の上に覆ふ時に、刀をぬきて馬のうへを拂ひ、光明眞言を呪すれば、其風、散失て馬も恙なし。提馬風と號すと云て、これ謂ゆるギバの事と見えたり。是を以て見る時は、尾濃駿遠參の國々にかぎる事か。然共、前に云美濃にて掛る變怪のものは、旋風にはかぎらぬ事と聞ゆれば、種類の多きものにや。其後又、遠州濱松のものを下男に置たり。その者に此怪のことを尋るに、夫はギバとは申さず、ダイバと申候て、掛ると唱申候。彼邊にては所定り居申候。まづ濱松より登り方、八丁繩手と云松原を過ぎ、念佛堂といふ建場の取付に一里塚御座候。此所にては一年に二三度もかけ申候。又、濱松宿より下り方、僅三町程の松原を過、天神町と云建場の取付にも、一里塚御座候。【前の念佛堂より一里目なり。】此所にても、一年には一二度は必かけ申候。又、濱松より氣賀(きが)海道[やぶちゃん注:「姫街道」とも称し、浜松方面から西に下る際、浜名湖北岸の気賀を経て三河に出る道を言う。実は古くはこちらが東海道本道であった。]半道程にあるなぐり町[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。]と云を行過ぎ、山の麓小松原の所にてもかけ申候。此三が所にかぎりて掛申候。田畑又は作道などにて掛たるを聞申さず。同じ海道にても右場所の外にては掛申さず。ダイバかけ候時は、馬𢌞りて斃ると承り候。私存居候馬は、栗毛・鹿毛などかけられ申候。濱松邊に白毛の馬は一疋も居申さずと語りたり。國所によりて、少しつつ振合違ひたり。

[やぶちゃん注:以下の二段落分は底本では全体が最後まで二字下げ。]

予、此頽馬の事、委しく知り明らめんと思ひて、馬醫は更なり。馬術の師家、老功の馬乘、其他馬に携る人々に、累年懇に尋れども、其説區(まちまち)にして正しき家傳も聞出さず。慥成書物もなし。多くは當意卽智を以て各自の了簡まかせの答ばかりにて、感伏する程の事もなし。其内、同友新澤等(にいざはひとし)【實名忠雄、馬術は隨心流にして、門弟も多く、馬の事には甚心を配り、能學びたる英哲なり。】の説には、頽馬(だいば)とは馬の卒死するを云也。馬かたふくと云心也。頽の字、かたふくとも崩るゝともおつるとも訓むなり。抑ダイバの説、區々(まちまち)也。一説、大魔に記す。此神、雲中に顯るゝ時は、馬眼を塞、進む足よどむ。早むれば鞍下落着ず、倒るゝ馬の如くにして轡を承ず。惣身直、立所に精神亂れて死するなりと云。昔、天文五年夏五月廿四日將軍家【足利十二代將軍義晴公の代なり。】畠山修理太夫義忠を以て愛宕山へ代參の使を遣はさる。下向の折から、下り松の邊にて、一女忽然と來り、畠山が乘馬の轡を執りて笑ふとひとしく、馬忽に倒れ死てげりと云り。此ダイバと云は、神か魔障か、未だ辨へ難しと、齋藤定易(さだやす[やぶちゃん注:江戸前・中期の馬術家。明暦三(一六五七)年江戸生まれ。大坪流八代斎藤辰光に学び、その流儀に工夫を加えて一派「大坪本流」を興した。延享元(一七四四)年没。著作に「大坪本流武馬必用」などがある。])の記に見えたり。其餘、頽馬の説數多有。あげて計へ難しと云々。此畠山義忠が遭ひたりし一女と、吉松が見たる所の怪女とはよく似たり。是等の事は、諸國遊歷して尋明らめ置て、人々にも心得置せ度事也。文通人傳(ひとづて)にては聞訂し難き業也。尤、國によりては此怪に遭ふ所も多きに、我國名古屋にては甚希なる事と見えたり。【名古屋杉の町の東、高岳院へ行所に纔成坂有、此所へ川澄何某、馬に乘來るに、馬進み兼るゆゑ乘𢌞して暫立歸り、又乘戾せども其所へ來ると又々馬進まざる故、強て馬の氣を破るはあしゝと乘返して餘の道を乘通りたりと。然るに其跡にて間もなく又其所へ小荷駄馬を牽來りてギバがかけて馬卒死せし由。是は文化年中の事也。川澄何某は武道の藝には秀たる人にて馬を至て好にて巧者成人なり、依て馬の氣に背かずして此怪を避けたるも藝の德故と覺ゆるまゝにしるし添おきぬ。】

其外、諸國の者に尋るに、更に此怪を知らざる國も有と見えたり。漢土にても冬は馬步(ばぶ)を祭ると云事有。馬步とは馬の災害をなす神也。俗に云、頽馬などの類かと、馬事舊儀にも見えたり。又、予が今按に、頽馬と云は馬の卽死する病也。【馬經大全に、馬の卒死は心肝絶と有、腑返りとも云、大腸の腑へ外邪を受て急死する也など諸書に有て、馬の傷寒なり[やぶちゃん注:「傷寒」は漢方で広義には体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指すとされる。]。】右は病に相違なし。然るに彼魔物に懸倒されて卽死すると、頽馬病にて卽死すると混じて、魔物にも頽馬の名を負はせしなるへし。そはいかにもあれ、病は避難けれども療治はあるべき歟。魔物には療治は有まじけれども避方は有べし。【左へ𢌞す法、また大垣の木札などなり。】馬を畜(かひ)、又、牽程の者は兼て心得置べき事也。凡、此魔物に掛られて卽死なしたる馬は、尻の穴、内より外の方へ、大き棒を以て突出したるごとく開腹する事也。彼魔物、尻より拔出ると云俗諺も虛(そらごと)にあらぬ事なり。是を遠州の方言に、頽馬風と云は、甚だ當りたる事と覺ゆ。此魔害のなき國にて卽死する馬の肛門は、破脱するかせざるか聞まほしけれ共、思の外、心を用ひて知りたる人なき故、分り兼たり。恐らくは、彼河童が人を取て肛門を拔と同日の論にて、同じ水死にても河童の所爲ならざる分は、肛門の開腹せざるがごとくならんと思へり。如何にや。吉松の見たる灸治場にて死たる馬の肛門は如何なりしや。聞置ざりしは殘り多かりし。

   *

この肛門が激しく裂けているというのが事実であるならば、雷撃の場合、その出口としての部位が激しく損傷するケースがあり、また、落雷説も浮上して来るか。しかし、そのレベルの落雷だと、馬子や乗馬者も感電死する可能性が高い。

 次に「伽婢子」の「五 鎌鼬(かまいたち) 付(つけたり) 提馬風(だいばかぜ)」を岩波新古典文学大系本を元に、恣意的に正字化して示す。読みは一部に限った。

   *

 關八州のあひだに鎌いたちとて、あやしき事侍べり。旋風吹おこりて道行人(みちゆきびと)の身にものあらくあたれば、股(もゝ)のあたり竪(たて)さまにさけて剃刀(かみそり)にて切たるごとく口ひらけ、しかもいたみはなはだしくもなし。又血はすこしも出ず、女草(ぢよすいさう)をもみてつけぬれば、一夜のうちにいゆるといふ[やぶちゃん注:「」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」で(その最終画を右に伸ばし)、その上((くさかんむり)の右下上部)に「生」を配した字。但し、底本脚注そのものに「女草(ぢよすいさう)」そのものを不詳とする。]。なにものゝ所爲(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風(つじかぜ)のあらく吹てあたるとおぼえて、此うれへあり。それも名字正しき侍にはあたらず。たゞ俗姓(ぞくしやう)いやしきものは、たとひ富貴(ふうき)なるもこれにあてらるといへり。

 尾濃駿遠三州(びでうすんえんさんしう)のあひだに、提馬(だいば)風とてこれあり。里人あるひは馬にのり、あるひは馬を引てゆくに、旋風おこりて、すなをまきこめまろくなりて、馬の前にたちめぐり、くるまのわの轉ずるがどとし。漸(ぜんぜん)にその旋風おほきになり、馬の上にめぐれば、馬のたてがみすくすくとたつて、そのたてがみの中にほそき糸のごとく、いろあかきひかりさしこみ、馬しきりにさほだち、いばひ鳴(いなゝき)てうちたをれ死す。風そのときちりうせてあとなし。いかなるものゝわざとも知人なし。もしつぢかぜ馬の上におほふときに刀をぬきて、馬の上をはらひ光明眞言(くはうみやうしんごん)を誦(じゆ)すれば其風ちりうせて馬もつゝがなし。提馬風と號すといへり。

   *]

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