柴田宵曲 妖異博物館 「夜著の聲」
夜著の聲
牛込邊の貧しい町家の母親が、夏質に入れた夜着を、冬になつて請け出し、早速それをかけて睡つたところ、おばあさんおばあさん、暖いかといふ聲がする。びつくりして質屋に行き、右の次第を話し、子細があるか尋ねたが、質屋の方では、あの夜著は、お預かりしたまゝ藏に入れて置いたので、誰にも貸したことはございません、お宅の方をおしらべ下さい、といふ返事である。歸つて家の者に話して見ても、誰も心當りがない。そのうちに老母がふつと思ひ出したのは、あの夜着を請け出した頃、表へ山伏が來て手の内を乞うた。用事が取り込んでゐたし、山伏の態度も橫柄であつたから、手が塞がつてゐる、と云つて顧みなかつた。この話をして、別に恨みを受けるほどの事でもあるまいと云ふと、或老人の話に、それに違ひない、あの山伏は每日この邊を徘徊してゐるやうだから、また來るだらう、その時少し手の内を施し、茶などを出して、愛想よく挨拶して歸すがいゝ、といふことであつた。果して翌日山伏が通つたのを、老母が呼び込んで、この前の失禮を謝し、お茶でもお上りなさい、と云つて手の内を施した。山伏も、人は一度逢つただけでは心の知れぬものぢや、と云ひ、世間話などをして立去つたが、夜著の怪はそれきりなくなつた(耳囊)。
[やぶちゃん注:以上は私の「耳囊 卷之五 修驗(しゆげん)忿恚(ふんい)執着の事」でお読みあれ。]
「半日閑話」に書いてあるのは極めて簡單で、中野邊の者が夜著を求めて寢たら、夜半に夜著が聲を出して、暑いか寒いかといふ。その人恐れて急ぎ舊主に返すといふに過ぎぬ。恐らくこの夜著は古著屋物で、前の持主に關する出來事が、この怪をなしたのであらう。
[やぶちゃん注:これは「半日閑話」の「卷二十四」の「中野の訛言(かげん)」で寛政八(一七九六)年の出来事とする。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。
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三月、此頃中野の先關といふ處の地に、うなる聲有とて人皆云傳ふ。此頃の訛言に中野の邊の者、夜着を求めてかつぎて臥したるに、夜半に夜着聲を出して、暑乎(アツイカ)寒乎(サムイカ)と問ふ。其人おそれていそぎ舊主に返すといふ。石の言しは春秋傳に見へたれど、夜着のものいふ例しを聞ず。桃園の桃にものいはぬも愧よかし。
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最後の「愧よ」は「はぢよ」だが、この一文、何か意味があるらしいが、不学の私にはよく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]
小泉八雲は濱村といふところの宿屋で、「鳥取の蒲團」といふ話を聞かされた。鳥取で開業した宿屋が、手許がゆたかでないため、調度品は多く古手屋から求めざるを得なかつた。問題の蒲團もその一つであつたが、或晩の客がそれに睡ると、「兄さん寒からう」「お前寒からう」といふ子供の聲を聞いた。この聲は一囘だけではない。客は起きて調べた末、それが掛蒲團から發することを慥かめ、他の宿へ移つてしまつた。亭主は腹を立てて、酒を飮んだための錯覺だと云つたが、その翌晩の客も同じ事をいふ。殊にこの客は少しも酒を飮んでゐないので、遂に亭主自身試すことになつたが、彼も「兄さん寒からう」「お前寒からう」の聲に惱まされて、夜明けまで睡れなかつた。夜が明けるや否や、彼は先づ古手屋を訪ひ、それからそれと持主を尋ねて、この聲の出る所以を明かにし得た。蒲團は兩親を喪つた兄弟が掛けてゐたもので、冷酷な家主は最後にその一枚の蒲團を取り上げ、家の外へ追ひ出したのである。雪の中に追ひ出された兄弟は、抱き合つて永遠の眠りに就いた。掛蒲團から聞えた二人の聲は、この時のものであるとわかつたので、亭主はその蒲團を寺に寄附し、小さい魂のために讀經して貰つた。蒲團はそれから何も云はなくなつた。――八雲はこの話を「知られぬ日本の面影」の中の「日本海に沿うて」といふ一章に書いてゐる。
[やぶちゃん注:私の偏愛する哀しい話である。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」第二十一章 日本海に沿うて(九)』で英語原文も読める。この話は専ら小泉八雲がここで記したお蔭で残った哀話であることは、あまり知られているとは思われないので、特に記しおくこととする。]
「耳囊」の話は、山伏の所爲とすればそれまでである。中野邊の話にも、かういふ悲劇が附き纏つてゐるのかと思ふが、一切不明だから困る。一たびかういふ夜著の聲を聽いた以上、瞼が合はなくなるのは當然でなければならぬ。