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2017/03/31

山村暮鳥詩集「土の精神」始動 / 縞鯛の唄(序詩)・永遠の子どもに就て

 

詩集「土の精神」

 

[やぶちゃん注:山村暮鳥の死後五年後の昭和四(一九二九)年二月二十日素人社書屋(東京)刊の初版を早稲田大学蔵のこちらで視認して電子化注する。

 但し、時間を節約するために菊池眞一氏の「J-TEXT」のこちらのテクストを加工データ(但し、漢字新字体。底本は私が活字本として所持する彌生書房版全詩集の第六版)として使用させて戴いた。ここに謝意を表する。

 なお、本日(2017年3月31日)より電子化注を開始し、既に十一篇を数えているのであるが、今回は、実際に刊行された詩集の本文と、彌生書房版全詩集の本文との間に有意な異同が存在し、それが看過出来ないほど著しいものであることが判ってきた。遺憾乍ら、後者は底本や校訂凡例などが全く明記されていないとんでもない全詩集であるため、推理するしかないのであるが、どうも、この暮鳥没後に刊行された詩集「土の精神」パートに限っては、刊本に編者による手が有意に加えられていることが、残存する原稿などから知れたために、それらに依拠して新たに活字化されているものと考えざるを得ない。されば、本詩集に関しては、注で、彌生書房版の当該詩を詩集本文と照応させて漢字の正字化を行ったものを、洩れなく(全く違いがないものでも)附すこととした。それによって、孰れが暮鳥のまことの吟詠にちかいものかは判らぬながらも、読む者は、よりまことの原型に近い彼の詩篇をここで見ることが出来ると信ずるからである。なお、白神氏の「山村暮鳥年譜」を見ると、本詩集は山村暮鳥と親しい交流のあった詩人花岡謙二(明治二〇(一八八七)年~昭和四三(一九六八)年:最初、暮鳥のように短歌を作り、前田夕暮に師事、『詩歌』社友となる。また詩をも書き、『新詩人』」に参加、詩集「母子像」(大一〇(一九二一)年)・歌集「歪められた顔」(昭三(一九二八)年)などがある)の編集になるもので、生前の暮鳥の校閲を経たものではないらしく、テクスト的な信頼度が必ずしも高くないことが窺われる。]

 

 

 

  縞鯛の唄

 

折角釣つてはみたものの

あまりにも

あまりにも

小さいので

そつとまた海に歸した

一ぴきのかはいい縞鯛

海にまたかへす

そのとき

としよりはかぶりをふつて

(くひものには

これではならぬ)

 

[やぶちゃん注:以上は本詩集全体の「序詩」である(以下に続く「目次」(ここでは省略した)では、はっきりと『縞鯛の唄 (序詩)』とある)。

「縞鯛」「しまだい」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ(石鯛) Oplegnathus fasciatus の幼魚の別称。ウィキの「イシダイ」によれば、一般に成魚でも『体色は白地に』七本の『太い横縞が入るが、成長段階や個体によっては白色部が金色や灰色を帯びたり、横縞が隣と繋がったりもする。幼魚や若魚ではこの横縞が明瞭で、この時期は特にシマダイ(縞鯛)とも呼ばれる』。但し、『成長につれて白・黒が互いに灰色に近くなり、縞が不鮮明になる。特に老成したオスは全身が鈍い銀色光沢を残した灰黒色となり、尾部周辺にぼんやりと縞が残る程度になる。同時に口の周辺が黒くなることから、これを特に「クチグロ」(口黒)、または「ギンワサ」「ギンカゲ」などと呼ぶ。一方、メスは老成しても横縞が残る』。縞の様子の明瞭なところからから、独特の三番叟烏帽子を被って舞われる予祝狂言のそれに擬えて「サンバソウ」(三番叟)の名も幼魚(時に縞の明瞭な個体)には与えられている。

 

 彌生書房版全詩集参考底本詩篇を以下に示す(漢字は上記詩集版を参考に正字化した。この注は以下では略す)。

   *

 

  縞鯛の唄

 

折角釣つてはみたものの

あまりにも

あまりにも

小さいので

そつとまた海に歸した

一ぴきのかはいい縞鯛

海にまたかへす

そのとき

としよりはかぶりをふつて

(くひものには

これではならぬ)

 

   *]

 

 

 

詩集 土の精神

 

[やぶちゃん注:扉。その裏(右)に『裝幀挿畫・小川芋錢』とある。私は芋銭(うせん)好きで、この詩集も底本画像で見ると、実に掬すべきものであることが判る。]

 

 

 

  永遠の子どもに就て

 

おお お前は

お前はどこにねむつてゐたのか

なんといふ深い睡りにおちいてゐたのだ

ほんとにお前は蘇(うまれか)はつてでもきたやうにみえる

お前はいつみてもみづみづしく

お前はいつもいのちに充ち溢れてゐる

お前はちからだ

お前はのぞみだ

お前があるので醜い世界もうつくしく

そして人間銘々は生きてゐるのだ

永遠の子どもよ

永遠の子どもよ

お前をみうしなつてからの自分が

どんなにひどくくるしんだか

くるしみくるしんできたことか

お前は知るまい

だがそれでいい

それでいい

何もきいてくれるな

前額(ひたひ)にふかい此の皺々

ふしくれだつた此の手

さては冬枯れの野面のようなこころ

それらについて

自分はなんにもいひたくない

自分からいつとはなしにきえうせた永遠の子どもよ

それでも自分をわすれずに

よくまあかへつてきてくれた

おお お前は

お前はも一どかへつてきてくれた

草や木のみどりのやうにかへつてきた

蒼空のとんぼと一しよにかへつてきた

そしていまもいまとて

もろこし畑のどこやらで

鳴くギツチヨンをきいてゐる

自分のうちにめざめてお前は

 

それはさうとお前の瞳には

どうしたものか

あけぼのの寂しさがある

 

[やぶちゃん注:「さては冬枯れの野面のようなこころ」の「ような」はママ。

「ほんとにお前は蘇(うまれか)はつてでもきたやうにみえる」彌生書房版全詩集では「蘇(うまれか)はつてでも」が「蘇生(うまれか)はつてでも」でもとなっている。

「それはさうとお前の瞳には」彌生書房版全詩集では「瞳」には「め」とルビが振られてあるが、初版は大きく拡大してみても、ルビが振られた形跡はない。

 

 以下、彌生書房版全詩集版(先の「ような」は正しく「やうな」となっているが、同詩集はこれ以前の詩集群でも歴史的仮名遣の誤りは編者によって概ね(総てではない)訂されてある。以降、この注記は略す)。

   *

 

  永遠の子どもに就て

 

おお お前は

お前はどこにねむつてゐたのか

なんといふ深い睡りにおちいてゐたのだ

ほんとにお前は蘇生(うまれか)はつてでもきたやうにみえる

お前はいつみてもみづみづしく

お前はいつもいのちに充ち溢れてゐる

お前はちからだ

お前はのぞみだ

お前があるので醜い世界もうつくしく

そして人間銘々は生きてゐるのだ

永遠の子どもよ

永遠の子どもよ

お前をみうしなつてからの自分が

どんなにひどくくるしんだか

くるしみくるしんできたことか

お前は知るまい

だがそれでいい

それでいい

何もきいてくれるな

前額(ひたひ)にふかい此の皺々

ふしくれだつた此の手

さては冬枯れの野面のようなこころ

それらについて

自分はなんにもいひたくない

自分からいつとはなしにきえうせた永遠の子どもよ

それでも自分をわすれずに

よくまあかへつてきてくれた

おお お前は

お前はも一どかへつてきてくれた

草や木のみどりのやうにかへつてきた

蒼空のとんぼと一しよにかへつてきた

そしていまもいまとて

もろこし畑のどこやらで

鳴くギッチョンをきいてゐる

自分のうちにめざめてお前は

 

それはさうとお前の瞳(め)には

どうしたものか

あけぼのの寂しさがある

 

   *

「ギッチョン」の拗音表記はそのまま彌生書房版全詩集の表記を採用した。]

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