「想山著聞奇集 卷の壹」 「白蛇靈異を顯したる事」
白蛇靈異を顯したる事
市谷自證院常編阿闍梨の比叡山西谷(にしだに)佛乘院に住職の時、文化八年【辛午(かのとうま)[やぶちゃん注:干支は誤りで「辛未」。後注を参照。]】五月廿八日、無動寺谷(むどうじだに)の十妙院へ行(ゆか)れしに、けふは追付(おつつき)、此谷の辨才天へ白蛇(はくじや)を持來(もちきた)る筈(はず)也、今暫く咄し居て、かの蛇(じや)を見て行(ゆき)給へとの事ゆゑ、しばし咄し居る内に、やがて持來りたり。その蛇、長さ四尺ばかり有(あり)て、太さも夫(それ)に准じ、色は白色に少しばかり靑みを含み、鼠色をおびたる樣にてうるはしく、光澤(つや)有て眼は紅なり。惣(すべ)て蛇の類(たぐひ)は、一目見れば誰もぞつとする心持有(あり)て、何となく憎らしく怖ろしげなる物なるに、白蛇に限りて、顏色優敷(やさしく)にくげなく愛らしきものと聞(きき)しが、此白蛇も同樣にて、如何にも優敷(やさしく)幽艷(しほらしく)、憎からぬものにて有しとなり。扨、此白蛇に付(つき)ては、甚だ奇異成(なる)由來あり。元、此蛇は、京の山師ども、四條河原の夕涼みに見世物にするとて、紀州熊野浦にて金十兩にて調へ來りし蛇なり。然るに此蛇、不思議成(なる)事は、夜に成(なる)と、晝の三つがけ程の太さになれり。是さへ心得ぬ事と不審なせしうち、四月廿二日【己(つちのと)の巳(み)の日なり】に、彼(かの)白蛇を入れ置(おき)たる箱の鐡網は、僅(わづか)に小指も通り兼(かぬ)るほどなるに、拔出(ぬけいで)て逃失(にげうせ)たり。山師ども驚き騷ぎて、其近邊は殘るくまなく尋ねもとむれども出ず。此うへは尋(たづぬ)べき方便もなし。さりとてやむべきにあらねばとて、卜者(ぼくしや)四人まで語らひ占(うらな)はせけるに、そのうちに勝(すぐれ)たる術者(じゆつしや)の判斷に、是は逃(にげ)たるにてはなく、何(いづく)へか參詣にてもなせしものなるべし。方角は艮(うしとら[やぶちゃん注:東北。言わずもがな、鬼門で延暦寺は京の鬼門封じとしての配置である。])の方に當れば、叡山の無動寺谷の辨才天などへ參りたるならんか。【此辨才天は小社なれども、靈廟新たにして隨(したがひ)て衆人歸依する社なりと。】何所(どこ)にもせよ、今に急度(きつと)歸るに相違なしといひしが、果して其言葉の如く、同廿八日【乙亥(きのえゐ)[やぶちゃん注:「辛亥」(かのとゐ)の誤り。非常に痛い二度目の誤り。後注参照。]】に至りて、いつのまにか元の箱へ入居(いりゐ)て歸り居たりしと也。夏に於て、彼山師ども、靈妙の量り難き事を恐れ、又、前の卜者に占はせけるに、卜者の言(いふ)、此もの、元より神靈自在を得たるものながら、今の世に當りて、大切至極の金(くがね)にて求められたる事ゆゑ、中々無下に逃去(にげさ)る事は致さぬなり。去(さり)ながら、家業なればとて、斯(かく)のごとき靈物を心なく見世ものに曝すは恐るべきことにて、假令(たとへ)今、目前に十金の損は有(ある)とも、又、夫程(そのほど)は餘事にて利德を授け、守り助(たすく)るに相違なきまゝ、とにかく、此蛇は、何處(いづこ)へ成(なり)とも放ちやる方(ほう)よろしからんと申せしゆゑ、衆議、夫(それ)に一決して、辨天へ納め度(たし)とのこと、無動寺まで申込置(まうしこみおき)て、此廿八日は巳の日なればとて、兼てつれ來る筈と成居(なりをり)たるのと也[やぶちゃん注:ママ。「の」が衍字であるか、或いは「たるとの事也」あたりが疑われる。]。是、一靈異ならずやと、阿闍梨の具(つぶさ)に語られしなり。
[やぶちゃん注:「白蛇」弁才天の使いとして富をもたらすものとして知られ、その関連もあってか、水神ともされる。諏訪神社の神使など、多くの神社仏閣で祀られてあるが、多くは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ
Elaphe climacophora の白化個体(アルビノ)で、眼は赤い。アオダイショウは一般に性質がおとなしく、ここでの叙述とも一致する。
「自證院」既出の現在の新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺のことであろう。
「比叡山西谷佛乘院」比叡山延暦寺西谷(比叡山東塔エリア。ここ(グーグル・マップ・データ))にはかつて護心院なる寺があり、そこは旧仏乗院とするも、既に廃絶している。なお、現在の滋賀県大津市坂本四丁目に同名の里坊があるが、これはその後身か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「文化八年」は一八一一年であるが、同年は干支が「辛未」で違う。前年が「庚午」であるから、非常に痛い。この手の叙述で干支を誤ると、その資料的価値は著しく下落するからである。但し、後の叙述で、この年の四月二十二日を「己巳」とするところから、文化八年で間違いないことが判明したので(前年の同日は「乙巳(きのとみ)」)、そこはまあいいが、重ねて悪いことに白蛇が帰還した日の干支をも誤っており、これで本話の信憑性はなくなってしまった言わざるを得ない。どうしました? 想山先生!?!
「無動寺谷の十妙院」廃絶。同じく比叡山延暦寺東塔のエリアにあったようである(やはり同名の里坊はあるらしい)。現在も同谷には無動寺弁天堂がある。こちらの同地区の解説中の「弁天堂」の画像のキャプションによれば、『相応の回峯修行の際に外護した白蛇弁財天が顕れたという。正月、初巳』、九月に『巳成金(みなるかね)の法要が行われる』とある。
「山師」ここでは所謂、一獲千金を狙う興行師の謂い。
以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]
己(つちのと)の巳(み)の日を巳待(みまち)とて、辨才天の緣日と云(いふ)事は、女童(めわらは)も知(しる)事にて、また亥の日も緣日也。別(べつし)て四月の巳の日、十月の亥の日は、因緣深き日と思ふべし。四月は巳の月、十月は亥の月故なり。仙家(せんけ[やぶちゃん注:道家思想系のそれを信ずる人々。])にては、巳と亥は天眞根元正對化靈(てんしんこんげんせいたいかれい)の日とて、同一致の日也。俗に是を七つ目と云。江の島の辨才天は、欽明天皇の御宇六年乙丑(きのとのうし)四月上(かみ)の巳の日に初(はじめ)て出現なし給ひて、社を島に建(たて)て後、今に至るまで、四月上(かみ)の巳の日、十月上(かみ)の亥の日に祭事行はるゝ也。緣日の妙合は尤以(もつとももつて)、捨(すて)まじき事は勿論なる歟(か)。【淨巖(じやうごん)律師の大辨才天祕訣には巳の日亥の日を以て緣日とする人有(あり)、是(これ)僞經に出(いで)たり。必(かならず)信用すべからずと云々。此淨巖律師は博識多才にして近世の英哲、眞言律の本寺湯島靈雲寺の開基、各別の大德(だいとこ)なり、然共(しかれども)、此辨才天祕訣には辨才天女と吉祥天女と同一躰の趣に解釋有(あれ)ども、左にはあらぬ也、其譯は二の卷辨才天契りを叶給ふ條に聊(いささか)論じ置(おき)たり、又辨才天女の方位は辰巳に配當して、巳は天女の本形(ほんぎやう)にして則(すなはち)緣日也、亥も正對化靈の日にして緣有(ある)日也、是は元神仙家の祕密壺公の傳を弘法大師解書先生(韓方明の事)傳へ來り給ふ祕有(ある)事也、律師の信用すべからずと云(いひ)給ふは受(うけ)がたし。】
[やぶちゃん注:「天眞根元正對化靈」「正對化靈天眞坤元靈(せいたいかれいてんしんこんげんれい)」が正しいか。道家思想系の守護霊験を意味するものかと思われる。
「江の島の辨才天」現在の藤沢の江島神社は、社伝では、欽明天皇一三(五五二)年(壬申(みずのえさる)に神宣に基づき、欽明天皇の勅命によって江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられる。水神である弁財天なら「壬(みずのえ)」は相応しい(但し、五行の「水」は単なる記号であって物性としての「水」とは本来的には関係がない)。
「欽明天皇の御宇六年」五四五年。江ノ島の最も古い本格地誌に属するものと考えてよい「新編鎌倉志」の「卷之六」の「江島」の記載でも、この「六年」の記載は出ない。不審。リンク先は私の電子テクスト注。
「淨巖律師」(寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)は江戸中期の真言宗の僧。彼はその「大辨才天祕訣」の中で偽経であることを理由に、五部ある「弁財天経」や、それに基づいて捏造された「宇賀神弁財天女」も根拠のないものとして一蹴しているようである(こちらのKami Masarky(マサアキ☆)氏の「弁財天五部経と大弁財功徳天秘法」という記事を参照されたい)。
「二の卷辨才天契りを叶給ふ條」「卷の貮」の「辨才天契りを叶へ給ふ事」。ここはそこでまた私の考証を記すこととはする。]
又曰、讚州高松の城下吉祥園院【仁和寺の院家(ゐんけ)にて大寺なり】の庭前(にはさき)へ、文政の初(はじめ)つかた出(いで)たる白蛇は、白眼にて有(あり)たりと。色合(いろあひ)はやはり雪白(せつぱく)にてはなく、少し薄鼠(うすねず)色をおびたり。如何にも愛ら敷(しき)物にて、近くへより、能く見ても一向驚かず。すなほなるものにて、舌は少しも出(いだ)さゞりしとなり。江戸本所柳島妙見の松の樹に放したる大白蛇は、衆人見てしり居(をり)たれども、高き梢にのみ居(ゐ)る故、白眼赤眼も見わからず。舌の樣子も分らざりし。此蛇、天保の中比(なかごろ)よりこのかたは、更に形を顯はさずといへり、如何(いかが)なしけるにや。其後、弘化年中に、又、餘程大成(なる)白蛇を此(この)松に放したりと聞(きけ)ども、いまだ見ず。
[やぶちゃん注:「吉祥園院【仁和寺の院家にて大寺なり】」不詳。識者の御教授を乞う。
「文政の初」文政は一八一八年から一八三〇年。
「本所柳島妙見の松」現在の東京都墨田区業平にある日蓮宗柳嶋妙見山法性寺の松であろう(リンク先は同寺の公式サイトのアクセス・ページ)。
「天保の中比」天保は一八三〇年から一八四四年で十五年間。
「弘化年中」天保の次で、一八四四年から一八四七年。
次の一条は底本では前後を一行空け、挿絵の上にあり、二字下げのポイント落ちである。]
右浮間(うきま)村にて捕(とらへ)たる蛇は斯(かく)のごとく尾に玉ありたり。形躰(けいたい)全く常の蛇に異ならず、此圖の如きものれども、かくのごとくぶきみなるものに非らず、如何にも溫柔にして愛ら敷(しき)ものなり、目は薄赤かりしと覺えたり。
[やぶちゃん注:「浮間村」恐らくは現在の東京都北区浮間と思われる。荒川の右岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
天保年中、武州豐嶋(としま)郡戸田川の側なる浮間(うきま)村にて捕へたりといふ白蛇を、高田の辨天を祭りたる庵室(あんじつ)に飼置(かひおき)て諸人に見せたり。この蛇、二尺五寸餘りも有(あり)つらん。白色に少し斗(ばかり)、薄茶鼠の曇色(くもりいろ)を帶(おび)て、舌は出(いだ)さず、溫順にして愛ら敷(しき)ものなり。此蛇の尾の尖(さき)に、大いなる小豆粒(あづきつぶ)程の全く舍利玉(しゃりだま)の通り成(なる)もの、自(おのづか)ら出來(しゆつらいし)居(をり)たり。奇なる事なり。此蛇、天保十年【己亥(つちのとゐ)】斃(たふれ)て後(のち)、また小き白蛇を飼置(かひおき)ぬと聞(きき)およべり。此度(このたび)のは餘程葛布(くづぬの)色を帶(おび)たりと云(いへ)り。白蛇も隨分多く居(を)るものと見えたり。
[やぶちゃん注:「戸田川」現在の荒川の旧称。
「高田の辨天」不詳。識者の御教授を乞う。
「二尺五寸」七十五・七五センチメートル。
「天保十年」一八三九年。干支は正しい。]
又云(いふ)、當嘉永二年【己酉(つちのととり)】四月、淺草富坂町東(あづま)屋鐡五郎と云もの、夢の告(つげ)を以(もつて)、武州足立郡奧期(おくご)が原にて得來りしといふ、【此蛇、元下總の國千葉郡橫戸辨才天につかへ居たりしに印場沼堀割の時、人足共の生捕來りて祟られし故、此原に放ちし由聞(きき)たり、いかにや。】白蛇を見たり。太き所は四文錢程の𢌞(めぐ)りにして、長さは四尺餘りにて、色白くして奇麗なり。雪白と云(いふ)色にてはなく、少し黃ばみて至(いたつ)て艷(つや)有(あり)て、最上の柄鮫の如くにして、尾先に小豆粒程の玉あり。鱗は中より上は瓜(うり)の實の如く
此の如きものにして、中より下は四角にて
此のごとく荇蓎(あんぺら)の如きもの也。目は黑眼にして、舌も邂逅(たまさか)は出(いだ)せども、不氣味成(なる)ものにてはなく、前に記し置(おき)たる浮間村にて捕(とらへ)たる蛇と同じ樣なるものなれども、夫(それ)よりは又、一入(ひとしほ)奇麗なり。
[やぶちゃん注:「當嘉永二年」一八四九年。干支は正しい。本書の刊行は三好想山が没した翌嘉永三年であるから、「當」はしっくりくる。
「淺草富坂町」現在の文京区蔵前及び桂町附近か。
「武州足立郡奧期が原」旧足立郡は判るが、「奧期が原」は不詳。識者の御教授を乞う。
「四文錢」寛永通宝で直径は二十四ミリメートルであるから、その円周は七十五ミリメートル強となる。
「荇蓎(あんぺら)」筵(むしろ)。読みはポルトガル語或いはマレー語由来とされる。]
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