記憶について 山村暮鳥
記憶について
ぽんぽんとつめでひき
さてゆみをとつたが
いつしか調子はくるつてゐる
ほこりだらけのヴアヰオリン
それでもちよいと
草の葉つぱのどこかのかげで啼いてゐる
あの蟋蟀(きりぎりす)の聲をまねてみた
[やぶちゃん注:太字「ゆみ」は原典では傍点「ヽ」。
「蟋蟀(きりぎりす)」漢語としては「蟋蟀」はコオロギ(一般には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属する種の総称)で、上科レベルで異なる全く違う種群であるキリギリス(剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属する種の総称)には「螽斯」「螽螹」という別漢字表記が現在はあるが、和語としての「こおろぎ」は秋に鳴く虫を広く指す語として古くから存在し、しかも面倒なことに平安時代には現在の「コオロギ」を「きりぎりす」と呼んでいた(現在の「キリギリス」は「はたおり」(機織)という別称で呼ばれた)。こうした経緯から、近代以降でも「蟋蟀」には「こおろぎ」と「きりぎりす」の二様の読みが残り続けてしまい、近代小説でも、それが果たして現在の「コオロギ」と「キリギリス」のどちらの種を指すかは思ったほど明確に識別は出来ないのが現状である。最も知られたものでは芥川龍之介の「羅生門」の冒頭に出る、「蟋蟀(きりぎりす)」であろう。かつての教科書の注にはわざわざコオロギの古名という注まであったものだ。脱線になるが、但し、芥川龍之介の「羅生門」の「蟋蟀(きりぎりす)」は現行のコオロギではないと私はずっと考えてきたし、そう授業し続けた。何故なら、冒頭に出るそれは『或日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。』『廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。』(底本は岩波旧全集。但し、「きりぎりす」の「ぎり」は底本では踊り字「〱」である)と描写されており、大きな丸柱に、有意に柱の下部から離れた視認出来る位置にとまっているのは現在の、ちんまい地味な黒っぽいか茶褐色の「コオロギ」よりも、現在の比較的大きな緑色を呈した「キリギリス」の方が、遙かに自然であり、色彩の点じ方にも配慮がなされてあると読めるからである。閑話休題。では、山村暮鳥のこれはどちらか? そもそもが前に「ヴアヰオリン」が出て「きりぎりす」とくれば、「アリとキリギリス」だろう。いやいや、実は以前の詩篇で暮鳥は頻繁に「蟋蟀」を出すほどに「コオロギ」の声が好きなのである。しかも、その先行する詩篇の一部の「蟋蟀」には、はっきり「こおろぎ」とルビを振っているのである。従って、少なくとも私はここまでの「蟋蟀」は真正の現在の「コオロギ」であり、ここに関しては真正の「キリギリス」であると考える。それはヴァイオリンで鳴き真似をし易いのがどちらかを考えて見ても判る。ちょっと頑張れば断然、キリギリスの方が鳴き真似出来そうだ、コオロギは難しい、と私は大真面目に思うからである。]