「想山著聞奇集 卷の壹」 「菖蒲の根、魚と化する事」
菖蒲(あやめ)の根、魚と化する事
[やぶちゃん注:標題の「菖蒲」を「しやうぶ(しょうぶ)」と読まずに「あやめ」と読んだのは第一段の記述に拠る。以下、本章内の「菖蒲」は総て「あやめ」と読むこととする。]
板屋桂意廣長(いたやけいいひろなが)は土佐家の御繪師なり。其男(そのなん)桂舟、未(いまだ)少年のうち、文政七年【甲申(きのえさる)】五月の事なり。何やらん鉢植(はちうゑ)にする物ありて鉢を尋(たづぬ)るに、椽(えん)の下に古き鉢あり。取出(とりいだ)して見れば、梅・菖蒲(あやめ)・雪の下など植(うゑ)てあるが、皆枯はてゝ土も乾きてありしかば、ともに打明(うちあね)けたるに、其土の中より魚の形ちしたる物飛出(とびいで)たり。能(よく)見れば菖蒲(あやめ)の根の蠢(うご)めくなり。桂舟大(おほい)に驚きて父を呼びぬ。此時、桂意は朝飯を喰(くひ)て居(ゐ)たれど、いそぎ行(ゆき)て見るに、あやめの根、魚の形ちと成(なり)て動く故、水の中へ入(いれ)させて見るに、まづ口より出來(でき)そめて、其内に尾鰭もつきて、一時ばかりの間に全く魚と成(なり)て、水中を游(およ)ぐさま、鯉子(こひご)の通りにて少し金色をもおび居(ゐ)たり。此事、忽(たちまち)人口に膾炙して、見に來(きた)る人も有(あり)。屋代弘賢(やしろこうけん)翁の考へに、龍は能(よく)變化して蟄(ちつ)し居(を)るもの也。もし彼(かの)魚、龍種にて、時日を待ち、風雨を起し昇天なさんもはかるべからず。さはらぬ神に祟なしの諺も有(あれ)ば、廣き水中へ放ちやるこそ宜(よろ)しからめと噂有(あり)しかば、やがて辨慶堀(べんけいぼり)へ放ちしと也。此(この)咄は追々(おひおひ)慥(たしか)に聞置(ききおき)たる上、又、此(この)化する所の有樣を、桂意が圖して言葉をも書置(かきおき)たるを、或(ある)貴家よりかり得(う)るまゝ、書畫とも違(たが)はぬ樣に騰寫なし置(おき)ぬ。世には珍敷(めづらしき)事も有(ある)ものなり。
[やぶちゃん注:以下は底本では章途中の挿画の後にポイント落ち二字下げで挟まれて、図のキャプションを活字化したものを素材とした。但し、底本活字本文ではルビを一切附さずに、ベタに続いているが、ここでは判読の対照をし易くするために、キャプション通りに改行した読みを挿絵から起して総て入れた。有意に下方に書かれたものの一部は上の方まで上げ、活字化されていない画中の独立キャプションは《 》で示した。歴史的仮名遣の誤りはご覧の通り、ママである(「はき」は「わき」の誤り)。活字本文のㇾ点と句読点は生かした。底本活字「辨」は明らかに「弁」と書いているのでそちらで表記した。]
【一図目】
酉年五月十九日朝(あさ)四時過(すき)比(ころ)、
鉢植(はちうえ)に梅(むめ)の枯木(こほく)有之(これあり)、はきに
あやめ多(おほ)く候。ゆきのしたも有、
其(その)土(つち)をあけし處(ところ)、
如ㇾ此(かくのごとく)土(つち)の
かた
まり
わきへ
飛出(とびいづ)る。
【二図目】
水に入候
へば、
《是(これ)はあやめの根(ね)也》
口如ㇾ此(かくのごとく)出來(でき)、夫(それ)より
目(め)出來(でき)、追々(おいおい)にかたち
あらはれ、
一時程(ほど)の
うちに
【三図目】
《長さ三寸程》
此通(このとを)りの魚に
相成候。
六月十日夕七時前
弁慶堀(べんけいほり)へはなし申候。
桂意筆〔(落款)廣長〕
[やぶちゃん注:残念乍ら、肺魚じゃあるまいし、鯉(しかも九・一センチメートルほどの稚魚)では乾燥しきった菖蒲(あやめ)の根に長期に渡って休眠し続けて蘇生することはあり得ない。というよりも、この叙述は題名通り、所謂、植物の乾き切った根っこが見る見るうちに、生きた動物の鯉の子になって泳ぎ去ったという、驚天動地の「化生(けしょう)」(仏教の生物学で母胎・卵・湿気などに拠らずに自分の力によって忽然と生まれ出づる現象を指す)であるからこそ奇談なのである。
「板屋桂意廣井長」姓の漢字表記は誤りと思われる。板谷広長(宝暦一〇(一七六〇)年~文化一一(一八一四)年)は江戸中・後期の大和絵住吉派の幕府御用絵師。同じ御用絵師板谷慶舟の次男であったが住吉派板谷家第二代を継いだ。
「其男桂舟」広長の子板谷広隆(天明六(一七八六)年~天保二(一八三一)年)の号。大和絵住吉派の板谷家三代。絵を父広長に学び、同じく幕府御用絵師を勤め、法眼(ほうげん)に昇った。
「土佐家」平安時代以来の大和絵の伝統を受け継いだ画派土佐派の家筋を指す。室町前期の宮廷の絵所預(えどころあずかり)であった藤原行光が祖とされ、行広が「土佐」を名乗って成立した。室町後期の土佐光信によって隆盛を見、自派の絵を「大和絵」と標榜するようになって、漢画の狩野派と並ぶ画派として江戸末期まで続いた。
「文政七年【甲申】五月」と本文はするが、しかし桂意自筆のキャプションは「酉年五月十九日」で始まっているから、後者を正しいと採る。すると、これは翌文政八年乙酉(きのととり)の五月十九日で、これはグレゴリオ暦一八二五年七月四日のこととなる。
「鯉子(こひご)」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio の稚魚。
「屋代弘賢」(ひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年:想山は「翁」の敬称を附しているので、本文は敬意を表す音読みで採った)江戸後期の幕府御家人で右筆・国学者。大田南畝・谷文晁ら多くの著名文人らと交流があった。恐らくは板谷桂舟の父が同時代人であるから、その一人であったのであろう。
「蟄し居る」土龍となって地中に潜むこと。時節を待って昇龍とならんと凝とその期(機)を待っているのである。
「辨慶堀」江戸城外堀の一部で、赤坂見附の北側、ホテル・ニュー・オータニの南側に現在も一部が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]