農夫 山村暮鳥
農夫
なんとなく空は險惡で
そしてくらく
ぽつぽつ雨さへおちはじめた
もう一日も終りであつた
自分はおもひだす
氷山のやうなあの山山を
鋼鐵(はがね)のやうな冬のあの日を
そこではげしく
たつたひとり
たつたひとり
大きな熊手鍬(まんのう)をふりあげふりあげて
せつせと働らいてゐた
あの獸のやうな農夫を
疾驅してゐる汽車の窓から
自分はちらとそれをみかけた
みぶるひがさつとはしつた
そのときから自分のこぶしは石となり
自分の頭上にはだれにもみえない角が生えた
そのころの自分のくるしみ
そのどんぞこから
それでも自分は帽子を脱つた
農夫はなんにもしらないのだ
けれど自分をしみじみと考へさせた
わきめもふらず
天も仰がず
荒れはてた田圃の中で
刈株の土をおこしてゐた
たつたひとりの
あの農夫
ひとりであつたあの嚴肅さ
ぽつぽつ雨さへおちてゐる記憶の上につゝ立つた
自分は強い農夫をみる
自分は強いそして獸のやうな人間を
いまもかく
[やぶちゃん注:私はこの詩を読むと、私の偏愛する國木田獨步の「忘れえぬ人々」を思い出すのを常としている(リンク先は私の単行本「武藏野」版の私独自の校訂版電子テクスト。私には別校訂になる二種のテクストもこちらとこちら(筑摩書房「現代日本文學大系」底本版)にある)。
「熊手鍬(まんのう)」「万能」。「馬鍬(まぐは(まぐわ)」とも書き、通常は牛馬に牽かせて田畑の土を細かく砕いて搔き均(なら)す農具で、横木に櫛の歯のように刃を付けたものを指すが、ここは振り上げているから、人の使う大型のそれである。
「脱つた」「とつた」。]