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2017/03/12

「想山著聞奇集 卷の壹」 「頽馬の事」

 

 頽馬(だいば)の事

 

Giba1

 馬に頽馬(だいば)と云ふ病(やまひ)有(あり)て卒死(そつし)するが、尾張・美濃邊にては是をギバと云ひ、斃(たふ)るゝをかけると云ふ。土俗は此(この)ギバと云(いふ)は、一種の魔物(まぶつ)有(あり)て、馬の鼻より入(いり)て、尻に出(いづ)れば、馬忽ち斃(たふる)と云傳(いひつたふ)る事也。予、少年より魔物有(ある)に違ひなしと思ひて、馬術鍛練の人々に尋(たづぬ)るに、多くは馬の病なりとて、魔有(ある)事をしる人少(すくな)し。然るに今、慥成(たしかなる)事を聞(きく)まゝに書付置(かきつけおき)ぬ。

[やぶちゃん注:本条は既に私の『柴田宵曲 妖異博物館 「提馬風」』で電子化注をしているが、今回、本文を改めて再校正し、読みや注もオリジナルに増加させてある。

「頽馬(だいば)」「だいば」と濁っているが、ウィキの「頽馬」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、それは「たいば」と清音で、音としてはその方がしっくりくる(但し、「ギバ」同様、超自然的存在への差別化した命名の確信犯の異例音とも採れる。後の「ギバ」の私の注を参照)。『本州や四国各地に伝わる怪異。馬を殺すといわれる魔性の風で、馬を飼う地方では非常に恐れられていた』と始まり、『頽馬は路上を歩いている馬を突然にして死に至らしめてしまうという。倒れた馬は、口から肛門にかけて太い棒を差し込んだかのように肛門が開いているといい、馬の鼻から魔物が入り込んで尻から抜け出すために起こる怪異といわれた』。『浅井了意の著書「御伽婢子」には頽馬のことが詳しく述べられている。それによれば、急につむじ風が起き、馬の前方で砂煙が車輪のように回り、砂煙が馬の首に近づくとたてがみが一本一本逆立ち、そのたてがみの中に赤い光が差し込み、悲鳴と共に馬が倒れ、馬が死ぬと共に風が消えてゆくとある』(「御伽婢子」の原文は『柴田宵曲 妖異博物館 「提馬風」』の私の注で示してあるので参照されたい)。『尾張国(現・愛知県)や美濃国(現・岐阜県)などではギバ(馬魔)といい、小さな女性のような姿の妖怪で、緋色の着物と金の頭飾りを身につけており、玉虫色の小馬に乗り、空から馬を襲うという。馬は危険を感じてひどく嘶くが、脚を絡み付けて馬が抵抗できないようにする。そしてギバがにっこりと微笑むと姿を消し、標的の馬は右に数回回り、命を落とすという。頽馬を擬人化したものがギバとの説もある。また常陸国(現・茨城県)の民話によれば、馬の皮はぎをしていた家の娘が、自分たちが周囲から差別されることを悲しんで(不景気による生活苦を悲嘆して、との説もある)自殺し、ギバに生まれ変わり、その怨念から馬を襲うようになったのだという。滋賀県大津市にも同様の伝説があり、ギバとなった娘は馬を殺すことで、馬の皮はぎをする父の商いを助けているという』。『頽馬の発生時期は四月から七月にかけてで、特に五月から六月、晴れたり曇ったりと天候の変化の激しい日に多い。また美濃では白馬のみが被害に遭い、遠州(現・静岡県)では栗毛や鹿毛の馬が被害に遭いやすいといい、老婆や牝の馬は被害に遭わないともいう』。『頽馬の被害を防ぐには、馬の首を布で覆う、虻よけの腹当てをする、馬の首に鈴をつけるなどの方法が良いという。また被害に遭ってしまった際には、馬の耳を切って少量の血を出したり、馬の尾骨の中央に針を打ち込んで馬を刺激すれば、馬は正気に戻って助かるという。前述の「御伽婢子」によれば、馬の前方を刀で斬り払って光明真言を唱えれば怪異を逃れられる、とある』。『明治時代の物理学者・吉田寅彦は著書「怪異考」で頽馬のことを取り上げており、頽馬の発生場所、時期、被害の状況などから、一種の空中放電現象による感電死ではないかと考察している』(当該箇所を最後の注で掲げる)。『大津市三井寺町の長等神社には、かつて馬の病気が大流行した際、その病害を鎮めるために建てられた馬神神社がある。馬方が街道を旅していた時代には、ギバ除け(頽馬除け)として「大津東町馬神」「大津東町上下仕合」と記した馬神神社の腹掛けが用いられた。荷物運搬の手段が馬から自動車となった現在でも、馬を愛する人たちから馬の守護神として信仰されており、馬用のギバ除けの札も配られている。競馬や乗馬の関係者の訪問も多い』。この現象について当初、私は、馬が摂餌すると、麻酔されたようになって動けなくなってしまう有毒植物、ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属亜属アセビ亜種アセビ(馬酔木)Pieris japonica subsp. japonica によるものを想起したのだが、たちどころに死んでしまうとすると、どうもアセビではなさそうだ。引用に出る雷撃による感電死、馬の体内寄生虫が脳などに迷走して起こる致命的な狂騒状態、叢の見えないところでマムシなどに咬まれたケースなども候補となろうかとは思われる。また、後文では「白虻」とも出るのであるが、虻(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera に属する一群の総称)のような吸血性昆虫を原因とする伝聞も記し、確かにそれらが耳・鼻などの奥に侵入して吸血行為を行ったなら狂騒する可能性は高いが、それだけで致命的な死に至ることがあるという点では疑問が残る。但し、そうした中でも、馬伝染性貧血は注目しておく必要があるであろう。これは馬伝染性貧血ウイルス(レトロウイルス科レンチウイルス亜科レンチウイルス属(EIA: Equine infectious anemia virus)に分類されるRNAウイルス)による感染症で、ウイルスを含む血液が虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans)などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類(奇蹄目ウマ形亜目ウマ上科ウマ科 Equidae)にのみ感染するもので、参照したウィキの「馬伝染性貧血」によれば、『本疾病は重度の貧血を伴う高熱が特徴で高熱が持続して衰弱死亡する急性型、発熱の繰り返しによりやがては衰弱~死亡に至る亜急性型、発熱を繰り返すもののやがて徐々に軽度となり健康馬と見分けができなくなる慢性型に大別される』あるので、この馬伝染性貧血の急性劇症型による死亡ケースは本現象をよく説明するとも思われるとからである。特定の地区で限定して発生している点からは、当該ウイルスを持った媒介生物がそこに限定して棲息していた(いる)可能性も疑い得るしかし、「想山著聞奇集」では瀉血染みた治療を行ってもおり、これだったなら、貧血症状に対しては逆効果であるように思われる

「ギバ」前注を参照。そこでは「馬魔」と漢字を当てているが、これではとてもそうは読めない。幾つかのケースを見ると、「頽馬」で「ぎば」とも読んでいるようである。「頽」の字は呉音が「ダイ/デ」、漢音が「タイ」であるから「デバ」はやや近く、カタカナ表記だと「デ」を「ギ」と読み誤ることはありそうには思われる。但し、一般に妖魔の類いは通常の読みとは異なる字音を当てて読まれることがままあるから、これもそうした異界対象への確信犯の読みかとも想像はされる。]

 

 天保三【壬辰(みづのえたつ)】年予が許(もと)に抱置(かかへおき)し下男吉松は、濃州武儀(むぎ)郡志津野(しづの)村の百姓なり。

[やぶちゃん注:「天保三【壬辰】年」一八三二年。

「志津野村」既出既注。現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 此吉松、八、九歲より馬を好み、今年二十五歲まで、馬方を渡世となして、馬の事は至(いたつて)て功者(こうしや)也。此者云(いはく)、

「ギバと云(いふ)は、虛(うそ)か實(まこと)かは存(ぞんじ)奉らず候えども、近江の國大津の東町の穢多(ゑた)の娘、死してギバと成(なり)、馬を斃(たふ)せし由、土俗の申傳(まうしつたへ)に御座候。」

と云(いへ)り。

「扨(さ)て、其形ちを見て知り居(をり)しや。」

と問(とふ)に、

「存居(ぞんじをり)候。」

と答ふ。

「それは如何成(いかなる)形ちのものにや。」

と問に、

「玉蟲の如き、こがね色の小き馬に乘(のり)たる女にて、猩々緋(しやうじやうひ)の衣服を着て、金の瓔珞(らうらく)を冠(かぶ)り、紙鳶(たこ)のきれたるやうに、天より、ひらひらと降來(ふりきた)ると、馬は忽(たちまち)、喉綱(のどづな)【股綱ともいふ こゞめ綱とも云。】を切(きり)、首を上げ、只事(ただごと)ならぬ聲して嘶(いなな)き申(まうし)候。其時、ギバの乘たる妖馬の前足を我(わが)馬の口の方へあて、跡足(あとあし)を、我馬の耳より鬣(たてかみ[やぶちゃん注:清音はママ。]の方へ踏(ふみつけ)て、馬の面(おもて)に、ひしと、懷抱(いだきつき)申候。此時、彼(かの)ギバの怪女、必(かならず)、につこりと笑ふと等しく、姿は消失(きえうせ)申候。さすれば、馬は右の方へ三度𢌞(まは)りて、斃れて夫成(それなり)に卽死する物に御座候。不案内の馬士(まご)は、多くは、かけられて仕舞(しまひ)申候。此故に、常に馬土半纏(まごはんてん)と申(まうす)を着て居(をり)申候。此馬士、半纏と申候は、羽織にてもあれ、纏絆(はんてん)にてもあれ、或は風呂鋪(ふろしき)、又は、薄團(ふとん)・薦菰(こも)やうのもの、何にても衣服の上に、帶(おび)なしに羽織居(はおりをり)候を申(まうし)候。是はギバの防ぎの爲にて御座候。扨、ギバ、空より來りて、馬の頸に取付く時、左の手にて口を取居(とりゐ)て、彼(かの)馬士半纏の右の袖斗(ばか)りをぬぎ、左の袖は口綱(くちづな)へ通せしまゝ、彼(かの)魔物とともに馬の首にかぶせて、馬は右へ𢌞(まは)らんとするを、馬の首を强(しい)て左りへ向(むけ)て、直(ぢき)に尾の上の脊筋に穴(あな)御座候【百會(ひやくゑ)の事なり。】。是へ針を打(うち)候へば、夫切(それぎり)にて助(たすか)り申候。是を『留針(とめばり)』と唱(となへ)申候。かの魔物、馬の鼻より入(いり)て、尻の穴へ出(いづ)ると申す事故、左りへ𢌞せば、勝手違ひて、又、もとの鼻へ出て行(ゆく)と申傳へ候へども、其時は、馬を殺しては成(なり)申さずと周章(あはて)居る故、鼻より出(いで)て行(ゆく)所を見たる者は承り申さず。」

と答(こたへ)て、はなはだ慥成(たしかなる)事なり。

[やぶちゃん注:「近江の國大津の東町」同定し得る場所はあるが、差別を助長する恐れがあるので、比定しない。従って読みも示さない。

「穢多」平凡社「世界大百科事典」の横井清氏の解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にし、記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが、これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ、「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては、鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また、ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが、末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は、鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では、鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』。

「薄團薦菰(こも)」底本には「薄」の右に『(蒲)』と底本編者の補正注がある。ルビ「こも」は「菰」のみに打たれているが、私は「薦菰」の二字で「こも」と読む

「百會(ひやくゑ)」経絡(ツボ)の名であるが、人間の場合は頭頂部(両方の耳に親指を入れ、両方の掌全体で頭を摑むようにした際、中指の先が触れ合うその下にあるというから、馬の「百会」とは違う。馬の経絡を表示したものを見ると、確かに馬の腰の尖った頂点(鞍を置いた際の後ろの尖った箇所)にそれは確かにあった。のどか氏のブログ「ワロン針灸のブログ」のここをご覧あれ。]

 扨又、

「彼(かの)ギバに幾度(いくたび)逢(あひ)たるや。」

と問に、

「二度、逢申候。」

と答ふ。

「其魔物と云(いふ)は、唯一つのものか、又幾つも有(ある)物か、量り難し。始に逢たる顏色と、後に逢たる顏色と、同じ樣なりしや、覺えはなきか。」

と尋試(たづねこころみ)るに、

「夫迄には覺(おぼえ)も御座なく候。去(さり)ながら、最早、慥に覺置申候まゝ、今一度、逢(あひ)候へは、二魔(にま)か、一魔か、見損じは仕らず候。」

と、聢(しか)と答て、元來(もとより)、此よし松は、甚だ、精神慥成(たしかなる)者也。

「左(さ)候はゝ[やぶちゃん注:清音はママ。]、其方のみならず、他の者もギバに逢たる者、有しや。」

と問に、

「皆、誰々も逢申候。誰が見たるも同じものにて、玉蟲色の鹿(しか)程の大さの馬に乘(のり)て、猩々緋の如き色をなしたる衣服にて御座候。緋縮緬(ひぢりめん)の色とは違ひ申候。何れも女雛(をんなびな)の如き瓔珞を冠り居(をり)申候。白色の馬に限りて、かけ申候。栗毛・鹿毛の類(たぐひ)を懸しは、一たびも承り申さず候。馬を牽(ひき)候程の者は、互に馬の咄(はなし)斗り仕候故、凡(およそ)十里四方ほどの馬の變は、其日の内に直(ぢき)に噂承り申候。私のかけられ懸(かか)り申候馬も白月毛(しろつきげ)と珊目(さめ)馬(うま)に御座候。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「珊目馬」「さめうま」とは眼の白い馬を指す。]

 又、

「他の馬をかけし所を見たるか。」

と問に、

「近村の入口の野に、馬の灸(きう)をすゑる所御座候。馬の、五、六十も寄(より)て、灸治して居(をり)申候とき、二、三十間斗り向(むかふ)に繫ぎ有(あり)し馬、頻りに嘶(いなゝ)き、きりきりと𢌞り申候。『あれあれ、あの馬が、あのやうなる事をする。』と申間(ま)もなく、屛風をたふす如く斃れ死(しに)申候。馬士ども、駈附(かけつけ)たれ共、仕方なく、伯樂(はくらく)も【馬醫の事也。】駈付(けつけ)て、『ギバのかけし也(なり)』と云(いひ)もはてぬに、又、傍(かたはら)のうま、同じ有樣に𢌞出(まはりいだ)して斃(をち)申候まゝ、其日は灸も央(なかば)にて、皆々、顏色、靑くなり、馬を牽歸(ひきかへ)り申候。此時の馬も白月毛と月毛とにて御座候。是は今より七年以前の事に御座候。」

と、いへり。【文政九年に當れり。】

[やぶちゃん注:「二三十間」三十四~五十四メートル半。図の遠近法は機能していない。

「文政九年」一八二六年。吉松は「是は今より七年以前の事」と述べているから、ここの部分事例については文政二(一八一九)年頃の出来事と読める。]

 

Giba2

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

 此時、斃(をち)し二疋の馬の爲に、惣馬士(さうまご)中(ぢう)、奉加(ほうが[やぶちゃん注:寄付。])して、人の丈(たけ)ほどなる石の地藏尊二體を造り、野中(のなか)に安置なしたり。然るに誰(たれ)始(はじむ)るともなく、この尊體(そんたい)に馬の病(やまひ)の願(ぐわん)を懸(かく)るに、靈驗いちじるく、今は百度參りなどするものも多く有(あり)て、皆、利益(りやく)を蒙る事とぞ。尋常(よのつね)の石工の彫(ほり)たる新像なれども、靈驗は直(ただち)に其(その)躰(からだ)へ宿り給ふ事と見えたり。

 又、

「人の牽(ひき)ゆく馬に、ギバの懸る所を見しや。」

と問に、

「それも一度見申候へ共、此ギバ、魔物故、馬をひき居(をり)候者の目にならでは見え申さず。跡先(あとさき)に並びて馬を牽行(ひきゆき)候ても、他の馬士には見えぬと申(まうす)事に御座候。或時、關(せき)と岐阜との間、あくたびと云ところを、十五疋、つれ立(だち)牽行(ひきゆき)候に、七疋目の馬、白馬にてギバ懸け申候。此馬士は不案内にて、

『我等が馬が、あんな事をして啼(なき)て、天より、變なる者が、馬の頭の所へ來りしは。』

と云(いふ)を、前後の馬士共の功者なるが聞(きき)て、

『夫(それ)はギバじや、早く馬の首を左りへむりに牽𢌞(ひきまは)せ。』

など、口々に詈(ののし)り、かけよりて馬の顏へ半纏を覆ふも有(あり)、或は、口を左りへ取(とる)者も有。其中にも、格別事馴(ことなれ)たる馬士駈來(かけきた)りて、直(ただち)に、かの百會(ひやくゑ)に針を打(うち)、

『まづよし、まづよし。留針(とめばり)を打(うち)たり。死ぬことにては、なし。』

と申(まうす)。夫(それ)にて馬は助り申候。是は馬士が不案内故、前後の馬士ども駈寄て、やうやう介添(かひぞへ)なし、餘程、手間のかゝりし故、時刻も移り候へども、何事もなく、危難をのがれ申候。元來は珍敷(めづらしき)事故、其外には逢たる事も御座なく候。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「關」現在の岐阜県関(せき)市附近。岐阜市の東北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「あくたび」現在の岐阜県岐阜市芥見(あくたみ)のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 又、

「俗に申候は、此ギバと申は、いつの事なりしか、大津の東町と申(まうす)所は穢多町にて御座候ひしが、此所に、老父を持たる一人の娘御座候て、斃(をち)馬少(すくな)ければ職業難儀故(ゆゑ)、彼(かの)娘、ギバと成(なり)、馬を殺し步行(あるく)由、申事に御座候。夫故、腹當(はらあて)【小日受[やぶちゃん注:読み不詳。「おびうけ」(帯受け)か?]とも云。】に大津東町上下仕合[やぶちゃん注:読み不詳。「かみしもしあはせ」?]と云(いふ)を染込置(そめこみおき)候へば、我(わが)所の馬と心得、掛(かけ)申さぬ由、申傳へ候て、今もみな、腹當には染(そむ)る事に御座候。」

と申せし。

「然らば、その腹當を當居(あてをり)たる馬に、ギバの掛(かかり)しは、なきか。」

と問ふに、

「夫はいかゞ候やらん。私(わたくし)牽(ひき)たる馬には、此腹當は仕居(しをり)申さず。」

と答(こたへ)たり。

[やぶちゃん注:「小日受」読み不詳。「おびうけ」(帯受け)か?

「上下仕合」読みも意味も不詳。「うへした」「かみしも」? 「しあはせ」「しあひ」? 穢多階級への差別と関わるのかも知れぬ。

 以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

 今、關東にては此腹當を懸たる馬を見ず。名古屋邊は十に八九は此腹當也。西國・北國筋はいかゞにや。惣じて關東にては、彼(かの)馬士半纏を着たるをも一向に見ず。美濃・尾張邊の馬士は、必ず上に帶なしのものを羽織居るなり。

 右、吉松の申(まうす)所は實(げ)に正敷(ただしき)事也。予、是を考(かんがふ)るに、國により所により一樣ならざる歟。猶、諸國の老伯樂に聞訂置度(ききただしおきたき)事なり。

 又一年、濃州多藝郡明德(めいとく)村【養老より半道程東北の方、高須・竹が鼻などの近邊なり、前にいふ志津(しつ)の村とは十里餘、坤(ひつじさる)の方なり。】捨松といふ者をも下男に抱置(かかへおき)たり。この者も又、馬士をもなせし者ときゝしかば、ギバの事を委敷(くはしく)尋るに、此捨松は、中々よし松程の功者にはあらねども、其答(こたへ)、又明らかなり。

「『ギバと云は、白虻(しろあぶ)の如き蟲と申事也、』と、伯樂は申せども、誰(たれ)も慥に見たりと申ものは、承はらず候。『鼻より入(いり)て、尻へぬける。』と申ことにて、此邊は夏のうち、四月より七月迄の事にて、五、六月は別(べつし)て多くかけ申候。七月にても、秋風立(たつ)と、かけ申さず。四、五歲の馬を多くかけ、八歳迄はかけ申候。夫より老馬は一切掛申さず。女馬(めうま)もかけ申さず侯。良馬程、多くかけ申候。伯樂の中には、朝五ツ時[やぶちゃん注:午前八時頃。]前、夕七つ時[やぶちゃん注:午後四時頃。]過(すぎ)に掛たるはなき事にて、毛色は蘆毛多く黑鹿毛抔(など)をもかけしと申候。」

と云へり【前(さき)に云(いふ)、「志津野村邊にてかけしは白毛・毛(ときげ)・粕毛(かすげ)・𩥭(さめうま)・連錢驄(れんぜんあしげ)の類(たぐひ)にて必(かならず)白色の事也。」と。僅十餘里の隔(へだて)にて、かくまで事の違ふは量りがたき事どもなり。】惣じて餘國にてかけしは栗毛・鹿毛の類もよく聞(きき)及べば、全く所によりて違ふ事と覺(おぼえ)たり。此(この)明德村邊にては、堤土手などを牽行(ひきゆけ)ば、多くかける也。田畑にてかけしは少なく、厩(うまや)にて掛(かけ)たる事はなき、と也。捨松が見し所にてかけられたるは、明德野(めいとくの)にて、牡丹蘆毛の馬、卽死せり。「ギバのかけたるなり。」と伯樂のいひしが、是は𢌞らずに斃(をち)たり、と、いへり。扨、「其ギバを遮(さへぎ)る法はなしや。」と問に、「大垣より出(いだ)す守(まも)りの木札有(あり)。是を馬に懸れば、ギバを除(よける)とて、近來(ちかごろ)は多く掛申候。此外には如何とも、のがるべきやうは承らず。」と語りたり。

[やぶちゃん注:「明德(めいとく)村」現在の岐阜県養老郡養老町明徳(みょうとく)。ここ(グーグル・マップ・データ)。前に出た志津野(しつの)村から、ここは南西に同距離にある

毛(ときげ)」「」は「鴇」の異体字。言わずもがな、鳥綱ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia Nippon のこと。トキは全身が白っぽいが、春から夏にかけての翼の下面は朱色がかった濃いピンク色を呈し、これを特に「朱鷺(とき)色」と称する。やはり白色系の馬である。

「粕毛(かすげ)」原毛色に白色毛が混毛して体が灰色っぽく見える馬のこと。

𩥭(さめうま)」前に出た白眼の馬のこと。

「連錢驄(れんぜんあしげ)」「連銭葦毛」。葦毛に灰色の丸い銭模様の斑点の交っているものを指し、「虎葦毛」「星葦毛」等とも呼ぶ。

「白虻」これは恐らく、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目アブ上科アブ科アブ亜科シロフアブ(白斑虻)Tabanus mandarinus であろう。本邦固有種と思われ、畜類・ヒトなどの哺乳類から吸血する。かなり痛む。

 以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

 予、聞(きく)に、野州・總州邊にては、ギバの就(つき)たるには、必(かならず)馬の耳を切(きり)て助(たすく)る事と云(いふ)。【馬の耳は急所にて、至(いたつ)ていたがるよし。夫(それ)故、馬の氣を取直(とりなほ)す事か。[やぶちゃん注:一種の意識集中のずらしという謂いであろうが、所謂、悪血を絞り出すという古式の瀉血の意味もあるのかも知れぬ。]】又、馬の平首(ひらくび[やぶちゃん注:馬の首の、両側の平らな所。])を切(きり)て助(たすく)る地(ところ)も有(あり)と云(いへ)り。武州多摩郡(たまごほり)新座郡(にひざごほり[やぶちゃん注:現在の埼玉県にあった。新座郡(にいくらぐん)とも呼ぶ。前の「多摩郡」とは並列なので注意。]邊より江戸へ出る功者成(なる)馬士共に尋(たづぬ)るに、「彼邊(かのあたり)にても、頽馬としる時は、馬の耳を切り、刄物(はもの)なき時は喰切(くひきり)ても助(たすく)る事にて、切(きる)事遲き時は、助からず。」といへり。是も四月頃より七八月頃迄の内の事にて、快晴の日には決(けつし)てなく、時々、村雲(むらくも)抔(など)出(いづ)る日にはありと云。又、馬を南向(みなみむき)に繫ぎ置(おか)ば、彼(かの)急症發(おこ)るとの申傳(まうしつた)へにて、心有(こころある)馬士は一切、南向には繫ぎ置(おか)ざる事とぞ。かの怪物の目にさへぎることはなけれ共、馬は嘶(いなゝき)て、棒の如く立(たつ)と云り。大同小異、國々種々成(いろいろなる)事としられたり。

[やぶちゃん注:ここで切開して血を吹き出させるという荒療治は、一種の意識集中のずらしという意味がその主な目的であろうが、所謂、溜まった悪血を絞り出すという古式で近代まであった瀉血の意味も含まれているのかも知れぬ。

「平首」馬の首の、両側の平らな所。

「武州多摩郡新座郡」「新座郡」は現在の埼玉県にあった。「にいくらぐん」とも読む。言わずもがなであるが、前の「多摩郡」とは別な地区名で並列なので注意されたい。]

 予、或高士(かうし)に「眞言祕密の法也。」とて授(さづか)りたるは、鞭(むち)にて梵書(ぼんしよ)を書き、馬の鼻のあたりを打拂(うちはらひ)て魔を除く法、有(あり)【ギバは馬の鼻より入ればなり。】。竹策(たけむち)の三十六禽(きん)」に表して、三十六節有(ある)策(さく[やぶちゃん注:節のある竹の鞭。])ならでは功驗なし、との傳(つたへ)にて、理(り)を極(きはめ)たる事、勿論なれども、何策(なにむち)にても主(ぬし)の巧拙に寄べき歟(か)。か樣(やう)の事は席上の功者ばかりにては間に合(あは)ぬもの也。幾度も事に逢(あひ)て修(しふ)し得るにあらざれば、眞の功者とは謂(いひ)がたき歟(か)。又、「伽婢子(とぎばうこ)」續篇【寬文年間の印本。】に曰く、『尾濃駿遠參州(びなうすんゑんさんしふ)の間(あひだ)に提馬風(だいばふう)とて、これ有(あり)。里人、或はうまに乘(のり)、或は馬を牽(ひき)て行(ゆく)に、旋風おこりて砂を卷籠(まきこめ)て、丸(まろ)く成(まり)て馬の前にたちめぐり、車の輪の轉ずるが如し。漸(やうや)くに其(その)旋風、大に成(なり)、馬の上にめぐれは、馬の鬣(たてがみ)ずくずくと立(たち)て、其鬣の中に、細き糸の如く、色赤き光り、差込(さしこみ)、馬、頻りに棹立(さほだち)、いばひ嘶(いなな)きしうちに斃れ死す。風、其時、散失(ちりうせ)て跡なし。如何成(いかなる)ものゝ業(わざ)とも知(しる)人なし。若(もし)、旋風、馬の上に覆ふ時に、刀をぬきて馬のうへを拂ひ、光明眞言を呪(じゆ)すれば、其風、散失て馬も恙なし。提馬風と號すと云(いひ)て、これ謂ゆるギバの事。』と見えたり。是を以て見る時は、尾濃駿遠參の國々に、かぎる事か。然共、前に云(いふ)美濃にて掛る變怪のものは、旋風にはかぎらぬ事と聞ゆれば、種類の多きものにや。其後又、遠州濱松のものを下男に置(おき)たり。その者に此怪のことを尋(たづぬ)るに、

「夫(それ)はギバとは申さず、ダイバと申候て、『掛る』と唱(となへ)申候。彼(かの)邊にては所定(さだま)り居(をり)申候。まづ、濱松より登り方、八丁繩手と云(いふ)松原を過ぎ、念佛堂といふ建場(たてば)の取付(とりつき)に一里塚御座候。此所にては一年に、二、三度もかけ申候。又、濱松宿より下り方、僅(わづか)三町[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]程の松原を過(すぎ)、天神町と云(いふ)建場の取付(とりつき)にも、一里塚御座候。【前の念佛堂より一里目なり。】此所にても、一年には、一、二度は必(かならず)かけ申候。又、濱松より氣賀(きが)海道半道[やぶちゃん注:一里の半分。]程にある『なぐり町』と云(いふ)を行過(ゆきす)ぎ、山の麓(ふもと)小松原の所にてもかけ申候。此(この)三(みつ)が所にかぎりて掛申候。田畑、又は、作道(さくだう)などにて掛たるを聞(きき)申さず。同じ海道にても右場所の外にては掛申さず。ダイバかけ候時は、馬、𢌞りて斃る、と承り候。私(わたくし)存居(ぞんじをり)候馬は、栗毛・鹿毛など、かけられ申候。濱松邊に白毛の馬は一疋も居(をり)申さず。」

と語りたり。國所(くにどころ)によりて、少しつつ振合(ふるまひ[やぶちゃん注:「馬魔」のそれ。])違ひたり。

[やぶちゃん注:「梵書」梵字。サンスクリット語の文字。所謂、呪文としての真言である。

「三十六禽」「禽」は動物のこと。旧一昼夜十二時のそれぞれに十二支とはやや異なる動物を配し、さらにそのそれぞれに二種ずつ付き従う動物を配したもの。五行では占いに用いるが、仏教では逆に修行者を悩ませる魔性の物とする。

「策」節のある竹の鞭。

「席上の功者」実動しない耳学問の似非知識人の謂い。

「伽婢子(とぎばうこ)續篇」先に申し上げた通り、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「提馬風」』の注に引用してあるので、それを参照されたい。

「寛文」一六六一年から一六七二年。「御伽婢子」は寛文六(一六六六)年の板行。

「いばひ嘶(いなな)き」「いばふ」も「いななく」に同じい。

「まづ濱松より登り方……」この辺り、地区を同定し得ていない。悪しからず。識者の御教授を乞うものである。

「建場」街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した場所。

「氣賀(きが)海道」「姬街道」とも称し、浜松方面から西に下る際、浜名湖北岸の気賀を経て三河に出る道を言う。実は古くはこちらが東海道本道であった。

「なぐり町」不詳。識者の御教授を乞う。

「作道」基本的には農耕作のために作った道を指すものと思う。

 以下の二段落分は底本では全体が最後まで二字下げ。]

 予、此頽馬の事、委しく知り明(あき)らめんと思ひて、馬醫は更なり、馬術の師家、老功の馬乘(うまのり)、其他馬に携る人々に、累年懇(ねんごろ)に尋(たづぬ)れども、其說、區(まちまち)にして、正しき家傳も聞出(ききいだ)さず。慥成(たしかなる)書物も、なし。多くは當意卽智(たういそくち)を以て各自の了簡まかせの答(こたへ)ばかりにて、感伏する程の事も、なし。其内、同友(どうゆう)新澤等(にいざはひとし)【實名忠雄、馬術は隨心流にして、門弟も多く、馬の事には甚(はなはだ)心を配り、能(よく)學びたる英哲なり。】の說には、頽馬(だいば)とは馬の卒死するを云(いふ)也。馬かたふくと云(いふ)心(こころ)也。「頽」の字、「かたふく」とも「崩るゝ」とも「おつる」とも訓(よ)むなり。抑(そもそも)ダイバの說、區々(まちまち)也。一說、大魔に記す。此神、雲中に顯るゝ時は、馬(うま)、眼を塞(ふさぎ)、進む足、よどむ。早むれば、鞍下、落着(おちつか)ず、倒るゝ馬の如くにして轡(くつわ)を承(うけ)ず。惣身直(さうしんだち)、立(たち)所に精神亂れて死するなり、と云(いふ)。昔、天文五年[やぶちゃん注:一五三六年。]夏五月廿四日、將軍家【足利十二代將軍義晴公の代なり。】畠山修理太夫義忠を以て愛宕山へ代參の使(つかひ)を遣はさる。下向の折から、下り松の邊にて、一女、忽然と來り、畠山が乘馬の轡を執りて笑ふとひとしく、馬、忽(たちまち)に倒れ、死(しし)てげり、と云(いへ)り。此ダイバと云(いふ)は、神か魔障か、未だ辨(わきま)へ難しと、齋藤定易(さだやす)の記に見えたり。其餘、頽馬の說、數多(あまた)有(あり)。あげて計(かぞ)へ難しと云々。此畠山義忠が遭ひたりし一女と、吉松が見たる所の怪女とは、よく似たり。是等の事は、諸國遊歷して尋明(たづねあき)らめ置(おき)て、人々にも心得置(おか)せ度(たき)事也。文通(ぶんつう)人傳(ひとづて)にては聞訂(ききただ)し難き業(わざ)也。尤(もつとも)、國によりては此(この)怪に遭ふ所も多きに、我國名古屋にては甚(はなはだ)希なる事と見えたり【名古屋杉(すぎ)の町(まち)の東、高岳院へ行(ゆく)所に纔成(わづかなる)坂有(あり)、此所へ川澄(かはずみ)何某、馬に乘來(のりきた)るに、馬進み兼(かぬ)るゆゑ、乘𢌞(のりまは)して暫(しばし)立歸(たちかへ)り、又、乘戾(のりもど)せども、其所(そこ)へ來(く)ると、又々、馬、進まざる故、「强(しひ)て馬の氣を破(やぶ)るは、あしゝ。」と乘返(のりかへ)して餘(よそ)の道を乘通(のりとほ)りたりと。然るに、其跡にて、間もなく、又其所へ小荷駄馬(こにだうま)を牽來(ひきた)りてギバがかけて馬卒死せし由。是は文化年中[やぶちゃん注:一八〇四年から一八一八年。]の事也。川澄何某は武道の藝には秀(ひいで)たる人にて馬を至(いたつ)て好(このみ)にて巧者成(なる)人なり、依(よつ)て馬の氣に背(そむ)かずして此怪を避けたるも、藝の德(とく)故と覺ゆるまゝにしるし添(そへ)おきぬ。】。

[やぶちゃん注:「齋藤定易(さだやす」江戸前・中期の馬術家。明暦三(一六五七)年江戸生まれ。大坪流八代斎藤辰光に学び、その流儀に工夫を加えて一派「大坪本流」を興した。延享元(一七四四)年没。著作に「大坪本流武馬必用」などがある。

「名古屋杉の町」現在の愛知県名古屋市中区丸の内にある杉ノ町通(すぎのまちどおり)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。この西に次の高岳院がある。

「高岳院」愛知県名古屋市東区泉にある浄土宗持名山菩提心寺高岳院。(グーグル・マップ・データ。中央付近に前の「杉ノ町通」がある)。]

 其外、諸國の者に尋(たづぬ)るに、更に此怪を知らざる國も有(あり)と見えたり。漢土にても冬は馬步(ばぶ)を祭ると云(いふ)事有(あり)。馬步とは馬の災害をなす神也。俗に云(いふ)、頽馬などの類(たぐひ)かと、「馬事舊儀」[やぶちゃん注:不詳。]にも見えたり。又、予が、今、按(あんずる)に、頽馬と云(いふ)は馬の卽死する病(やまひ)也。【「馬經大全」[やぶちゃん注:「新刻針醫參補馬經大全」全四巻で明代に書かれた馬医書らしい。]に、馬の卒死は「心肝絕」(しんかんぜつ)と有(あり)、「腑返り」(ふがへり)とも云(いひ)、大腸の腑(ふ)へ外邪(ぐわいじや)を受(うけ)て急死する也など、諸書に有(あり)て、馬の傷寒(しやうかん)なり。】右は病(やまひ)に相違なし。然るに彼(かの)魔物に懸倒(かけたふ)されて卽死すると、頽馬病(だいばびやう)にて卽死すると混(こん)じて、魔物にも頽馬の名を負はせしなるへし[やぶちゃん注:清音はママ。]。そはいかにもあれ、病(やまひ)は避難(さけがた)けれども、療治はあるべき歟(か)。魔物には療治は有(ある)まじけれども避方(さけかた)は有べし。【左へ𢌞す法、また、大垣の木札(きふだ[やぶちゃん注:お守り札。])などなり。】馬を畜(かひ)、又、牽(ひく)程の者は、兼て心得置(こころえおく)べき事也。凡(およそ)、此魔物に掛(かけ)られて卽死なしたる馬は、尻の穴、内より外の方へ、大(おほ)き棒を以て突出(つきいだ)したるごとく開腹する事也。彼(かの)魔物、尻より拔出(ぬけいで)ると云(いふ)俗諺(ぞくげん)も虛(そらごと)にあらぬ事なり。是を遠州の方言に、「頽馬風(だいばふう)」と云(いふ)は、甚だ當りたる事と覺ゆ。此魔害のなき國にて卽死する馬の肛門は、破脫(はだつ)するかせざるか聞(きか)まほしけれ共、思の外、心を用ひて知りたる人なき故、分り兼たり。恐らくは、彼(かの)河童が人を取(とり)て肛門を拔(ぬく)と同日の論にて、同じ水死にても河童の所爲(しよゐ)ならざる分(ぶん)は、肛門の開腹せざるがごとくならんと思へり。如何(いかが)にや。吉松の見たる灸治場にて死たる馬の肛門は如何(いか)なりしや。聞置(ききおか)ざりしは殘(なご)り多かりし。

[やぶちゃん注:「馬經大全」「新刻針醫參補馬經大全」。全四巻。明代に書かれた馬医書らしい。

「傷寒」漢方で広義には体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の腸チフスの類を指すとされる。]

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