柴田宵曲 妖異博物館 「行廚喪失」
行廚喪失
[やぶちゃん注:「行廚」は「かうちゆう(こうちゅう)」で「行厨」とも書く。本文を読めば分かるが、携帯用の食物、弁当のことである。]
長州萩の水井折兼といふ人が十二三の頃、山へ小鳥を捕りに行つた。友達と話し興じながら、だんだん奧深く登つて行くうちに、非常に空腹になつた。携帶した袋はあるが、肝腎の中に入れたものがない。どこで落したか、搜して見てもわからず、途中で落したとすれば、疾くに獸に食はれてしまつたらう。山中の事で人家もなし、食物がないとなると俄かに腹が減つて來て、岩に腰掛けたまゝ顏を見合す外はなかつた。そこへ突然一人の山伏が現れて、お前達がむやみにこの山へやつて來て、吾々の遊びを妨げるのが不都合だから、懲らしめのためにしたのだ、早く山を下れ、腹が減つて步けぬのなら、これでも食つて行け、と云つて出してくれたのは、自分達の見失つた辨當であつた。子供は皆ふるへ出し、顏色も靑くなつて、一目散に逃げ出した。「猿著聞集」の著者はこの話のあとに「そもいかなるものにかありけん、いと怪しかりき」と附け加へてゐるが、普通の人間の惡戲とすれば大人氣なさ過ぎる。山伏姿といひ、知らぬ間に囊中の物を拔き去る手際といひ、天狗の仕業と見なければをさまりさうもない。
[やぶちゃん注:「猿著聞集」は現代仮名遣で「さるちょもんじゅう」と読み、浮世絵師で戯作者であった岳亭春信(がくていはるのぶ 生没年不詳)が「八島定岡」(八島は本姓で「定岡」は号。「じょうこう」と読むか)名義で出した、当時の狂歌師らの逸聞を纏めた文政一一(一八二八)年板行の随筆。以上は「卷之一」の「折兼、山に獵して天狗にあひし事」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。
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ながとのくに㶚城(はぎ)の水井をり兼、いときなきときより獵することをこのみ、つねに野山にあそびけり。とし十二三のころ、はぎよりは小道十七里ばかりもへだちて三位山といふたかき山あり。かれいひたづさへて此山にのばり行に、山がら、めじろの小鳥をうることおもしろければ、なはおくふかくいりなましなど、かたらひつれてのぼりける。やうやくときうつるほどに、はらいみじくすきたり。こゝにてたづさへもたりしふくろを見るに、中にはものなし。こはいづちにかおとしけんたづね見よとて、かしここゝうち見れどもあるべくもおぼえず。道のほどにておとしたらば、今はけものにぞはまれたらまし。たづねうべきことかはとて、ひとびとかしらかいなでをり、山いとふかくいりたれば、家さへとほく、今はひたすらうゑにせまり、めくらむばかりなれば、あゆみもやらで岩にしりうちかけて、かたみにかほをぞ見あはせたる。とばかりありて、ひとりの山ぶしの僧いできて、なんぢがともがら、みだりにこの山にきたりて、吾たうの遊戲をさまたぐ。此ゆゑにこそかゝるからきめ見せつるなれ。とく山をくだるべし。さながらうゑてあゆみがたくば、これたうべてゆけとていだしたるをみれば、さきにうせつるかれいひなりければ、ひとびとおのゝきおそれ、こはこはいかにといろさへ眞靑になりもてゆきつ。今ははらすきたることもわすれて、いちあしいだしてにげくだりぬ。そもいかなるものにかありけん。いとあやしかりき。
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文中の「吾たう」は「わが黨」であろう。]
寛延年間に新保屋何某が二三の友を誘ひ、大日山に遊んだことがある。この山は白山の尾根つづきで、泰澄が白山を開くに先立ち、この山に宿ると傳へられ、絶頂にある大きな窟は泰澄の籠つたところだらうと云はれてゐる。倂しこの時遊んだ連中は、靈山參拜の志があつたわけではない。一僕に荷はせた辨當を岩の上におろし、靑い毛氈を敷き、こゝらで茸狩をしようと、木の間岩陰をあさつて歸ると、今辨當を置いたのがどこだかわからなくなつた。八方搜索しても皆目わからぬので、山行の興は全く盡き、がつかりして何丁か下つて來た。辨當を荷つた僕は腹を立て、もし獵人や木樵の仕業ならば生かして置かぬと、人々の止めるのも聞かずに引返して行つたが、やがて何かを見付けたらしく、天を仰いで人々を招き返す。立ち戾つて僕の指さす方を見れば、水を隔てた山の側に二丈ばかりの松の木があり、その蓋のやうな枝の上に靑く閃くものがある。あれは毛氈に相違ない。木の上だから猿の惡戲だらう、たゝき殺せ、と一同勇氣を起して松の下まで辿り著いた。毛氈はしづかに松の上に載つて居り、あたりは寂然として、人はおろか他の生類も見えぬ。僕は松に攀ぢ登り、先づ繩を付けて辨當おろした上、毛氈を抱へて飛び下りた。もとの場所まで引返して見るのに、風呂敷の包みやうも結び目も、全く變つてゐない。手に手に開いて腹を滿したが、さて氣が付いて見ると、辨當の中の腥物は悉く影を消してゐる。蟹などは殊に澤山用意してあつたので、もし何者かが食つたにしても、殼が殘らなければならぬのに何もない。毛氈は手で掬つて載せたやうに松の枝に在つたし、風呂敷の包みやうまで變らないで、魚類だけが喪失してゐるのは、この大日山が魚類を忌むためであらうといふことに決着し、一同慄然として家に歸つた。「三州奇談」のこの條には、山伏は姿を見せて居らぬから、直ちに天狗に結び付けにくいが、松の梢に持ち去るなど、嫌疑をかけて然るべき餘地は十分ある。姿を現して子供達に告げた「猿著聞集」の話よりも、この方が遙かに恐ろしい。新保屋某はその後再び山に至らず、たまたま行くといふ人があれば異見したとあるのは尤もな成行きであつた。
[やぶちゃん注:「寛延」一七四八年から一七五一年。
「大日山」(だいにちさん)は福井県勝山市及び石川県加賀市と小松市に跨る標高千三百六十八メートルの山。かつては二十四キロ東方の白山と並ぶ修験道の山であったらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。
以上は「三州奇談」の「卷之一」の二条目「大日山怪」である。以下に例の仕儀で示す。柴田が殺ぎ落としてしまった風雅の趣きが格別によい。今回は脱字・歴史的仮名遣の誤りなども原典のままに出した。一つ、読解に挑戦されよ。たいした難文ではない。
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爰に云、越のしらねは知らぬ國しなき名所、云つゞけんはことふりながら、彼古今集にも見えて、
消はつる時しなければ越路なる しら山の名は雪にそ有ける
となむ。千古の眺望を盡して、今猶旅人の笠の端たゆきばかりにあふぐなるを、一年加州の大主松雲相公の、此山の正面と云ふべきを畫にうつすべしと、畫工梅田某にものせられしに、加越の間、普く經めぐりて、終に加州小松のほとり須天(スアマ)と云里のはづれを正面にきはめて圖し呈しけるを、公、殊に御意に叶ひ、常の間の壁上に懸て一愛翫なし給ふと聞ぬ。其地は白根のみか、此山の尾左の方に當て大日山と云も見ゆ。是は富士に足高山の在如く、此山の左にはひて彌白根の雄威をます。抑大日山と云は、越の大德泰澄大師の白山を開かんとして先此山にやどると。其あたりの土人の舌頭に殘り、大日山の頂には大きなるいはや有り。是泰澄の籠り給ふあとにや。また半腹に池有。夏天に雨乞をする時は、此他に鯖といふ魚を切て投入るゝ時は、忽雨ふると云。地靈に水いさぎよく、麓はことに景するどからず、花草岩間に生じて人の目をなぐさむれば、人里遠しといへども、大聖寺、小松等の遊人、春花を追ひ、又は秋禽(キン)を尋ねて、折には行通ふ所也。
寛延某のとし、新保屋何がし二三人の友を催し、頃しも葉月の半過ぎ、風は未寒からず、日も又強からねば、「いざや此大日山に遊ばゞや」と、破籠[やぶちゃん注:「わりご」と読む。「破子」とも書き、檜の白木の薄板で作った食物の容器。内部に仕切りがあって被せ蓋(ぶた)をする。今の弁当箱に当たる。]やうの物に折節海邊の佳魚したゝめ入て、一僕に風呂敷の沈むまで荷はせて、「若暮れなば月かけて串の里の靑樓に宿らん」と、朝風の吹井と云ふ名酒など汲かはしつゝ立出ぬ。行々女郎花にたち、野草に座し、清水を掬し、晴蛤をた1きなど、ざれもて行くほどに、秋の日の末の剋にもぬらん、彼山もとに着きぬ。とある岩頭に瓣當を下し、靑氈わづかに延て、「けふの得をのは羆に非ず、熊に非ず、松たけ初たけこそ久しき望なれ」と戲れながら、皆々木の根さがさんと岩陰、樹の間に分け入て、暫して立歸見るに、彼辨當を置たる所、更にいづこと知れがたし。人々呼傳へて是をかたる。皆々あきれて、「是こそ一大事のものを、あまねくさがせや」と、數町の間あちこちと尋ね求けれども、終に行方なし。彼の御室法師の兒をさそへる興になさんとするにもあらで、「倦に此松、岩がね」と水の手寄も目角あるに、ひたぶる其あとをなし。人々あきれ果、邯鄲に步を失ふ人々のごとく、顏靑ふ見合て暫く詞もなし。「猶未日西山に高ければ、是をちからに山を出よや」と、興も盡き力もぬけて、足弱車の下り坂に望む。五六丁斗もくだりけるに、一僕あまりに打腹立て、「我が置ける物なれば、只我のみの責のやうに覺へて、今一度さがし見てん。獵人、木樵などの態ならんには、やはか生けては置かじ」など云て、人々の留るをも聞かず、二三丁走り歸りけるが、あやしく空を見上げて暫く立、人々を招けるに、「何事ぞ」と云て皆々歸り來る。僕が指さす方をみれば、遙に水一すじを隔たる向ふの山の岨、二丈斗成る古き松の枝の蓋のごとく成る上に、靑くひらめく物有。よくよくみるに彼毛氈也。辨當も吹まどはれて見えければ、「扨は苔猿どもの所爲に社、にくき事也。もし猿などの居ば、たゝき殺せよや」と、人々脇刺、棒など打振つて彼松のもとへ侠氣にまかせて茨を飛び、水を捗りてかけ行、近く成るまゝに是を見れば、彼辨當にまがふべくもあらねども、只手にすくひて松が枝紅のせたるこそ、人のわざとは見えず。又寂として他の生類も見へず。其中に彼の僕は松によぢ登りて、繩を付て辨當をおろし、毛せんをばかゝへて枝を飛下る。皆々悦び、彼道をこへてもとの地に戾り、さて開き見るに、風呂敷の包樣、むすび目も何のかわり事なし。人々拾ひたる心地して、何の分別もなく食をくらひ酒を呑、少し腹ちからも付き、飢もやみけるまゝに、人々云合てみるに、飯・煮しめやうのものは有しかども、蟹・かふいかの類を初め、都て魚類の物一種もなし。蟹など殊に多くしたゝめ入れ來れば、食ふともからの狼籍たるきに影もなし。おもひ𢌞らすはど、理の濟べき物ならず。「木のうへに有し時も、只風抔の吹きすゑしやうに居すはり、風呂敷も重も包樣かわらずして、只魚物は消るごとくになかりしは、大日山と云へるにより、魚類を忌給ふ地にこそ」なんど云て歸る。興もつき、氣力もぬけて、道のよるべき遊興も心なしと、一さんに家々に歸る。其後も此一事のみ云出ては不審はれず。
或る醫師の人に尋けるに、「山𤢖蟹をおしむといふ事、書にも候得ば、扨は山丈、野女のたぐひ、魑魅魍魎の仕業にこそ」と聞へけるに、いよいよ心付て、「おもひめぐらせば、彼侠氣にまかせて谷をわたり、松を攀たりし事ども、今思ひ出しては身振はれ、毛孔みなたつ。再たび彼山にいたらず。我のみか、人にも異見する事にぞなりぬ」と聞えける。
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これは、とても、いい。]