祈禱 山村暮鳥 / 初稿本「三人の処女」詩篇~了
祈禱
憐恤(あはれみ)ふかき眼をもつて、我が、嫉妬につかれしアルテミスよ!
われはさ迷ふ翅(はね)の黃色な蝶となり、汝が肉の歡樂の園を離れ、暴風(あらし)と雨と情(つれ)なきFACTに惱みをとらへ、一日の安きも無し。
然れども女神よ、愛の天華(てんげ)よ。否、毒性の我が靑白き暗き夜の、幻惑(げんわく)よ!
吸ふべき蜜の微睡(びすゐ)と罪惡(つみ)とに、すべての夢の滴りの集りかがやくが如く、我は汝の、その美しき悲哀に充てる唇をしきりに慕ふ。
ああ、女神!
暗き夜の、心の宮殿に點火(とも)さしめたまへ、
冷えゆく額上(ひたひ)に接吻(くちつけ)を……
我は懺悔(ざんげ)に歸りきたれり。
願はくは、今より汝の、見ずして殘せるあえかの幻(うつつ)をくり返して、汝のために、野の、水のほとりの小鳥の如く、滅びゆくものの限りなき生命(いのち)のうめきを歌はせたまへ。
靈魂(たましひ)に、赤き夕日(ゆふひ)の射す頃を……
[やぶちゃん注:「アルテミス」(Artemis)はギリシア神話に登場する狩猟・貞潔の女神。後に月の女神ともなった。参照したウィキの「アルテミス」によれば、『セレーネーやヘカテーなどの女神とは同一視されることがある。アテーナー、ヘスティアーと並んでギリシア神話の三大処女神として著名である』。『アルテミスはゼウスとデーメーテールあるいはペルセポネーの娘とも、あるいはディオニューソスとイーシスとの間に生まれた娘とも言われているが、ギリシア人に普及した伝承によればゼウスとレートーの娘で、アポローンの双生児とされている』。『オリュムポス十二神の一柱とされるが、本来のヘレーネス(古代ギリシア人)固有の神ではな』く、『その名は古典ギリシア語を語源としていないと考えるのが妥当である。アルテミスは、ギリシアの先住民族の信仰を古代ギリシア人が取り入れたものと、現在の研究では考えられている』とある。『古くは山野の女神で、野獣(特に熊)と関わりの深い神であったようである。アテーナイには、アルテミスのために、少女たちが黄色の衣を着て、熊を真似て踊る祭があった。また女神に従っていた少女カリストーは、男性(実はアルテミスの父ゼウス)との交わりによって処女性を失ったことでアルテミスの怒りを買い、そのため牝熊に変えられた』(暮鳥の言う「嫉妬」とはこれを指すか)。『また、多産をもたらす出産の守護神の面も持ち、妊婦達の守護神としてエイレイテュイアと同一視された。地母神であったと考えられ、子供の守護神ともされた』。『女神は、森の神として、弟神(兄神とも)アポローンとともに「遠矢射る」の称号をもち、疫病と死をもたらす恐ろしい神の側面も持っていた。また産褥の女に苦痛を免れる死を恵む神でもある。また神話の中ではオレステースがイーピゲネイアと共にもたらしたアルテミスの神像は人身御供を要求する神であった。アルテミスに対する人身御供の痕跡はギリシアの各地に残されていた』。『古典時代の神話では、狩猟と貞潔を司る神とされる。アルテミスの祭祀は女性を中心とするものであった。神話ではニュムペーを従えてアルカディアの山野を駆け、鹿を射るが、ときには人にもその矢が向けられる』ともある。『小アジアの古代の商業都市エペソスは、アルテミス女神崇拝の一大中心地で、この地にあったアルテミス神殿はその壮麗さで古代においては著名であった。また、この神殿は現在遺跡が残るのみであるが、近くの市庁舎に祀られていた女神の神像は今日も伝存している。この像は胸部に多数の卵形の装飾を付けた外衣をまとっており、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見える(この像は一般に「多数の乳房を持つ豊穣の女神」として知られ紹介されるが、異説として女神への生け贄とされた牡牛の睾丸をつけられているともされる』)(これは睾丸が事実である)。『小アジアにおけるキュベレーなどの大地母神信仰と混交して、独特なアルテミス崇拝が存在していたと想定されている。それは植物の豊穣や多産を管掌する地母神としてのアルテミス崇拝であった。この信仰は、古代ギリシアの森や山野の処女女神アルテミスのイメージ・原像とは異なっている。また、出産の女神でもあったアルテミスの原像ともかなり異なっている』とある。ここで暮鳥の言っているアルテミス的世界は、この最後の、肉感的・豊饒的・情念的要素の横溢したもののように読める。アルテミス信仰はキリスト教で批判されてその基盤を失うが、それが同時にマリア崇拝へと通底する要素を持っているようにも思われ、或いは、ここで暮鳥は、アルテミスに本地垂迹的なマリア像をどこかで仮託している可能性もあるように私には思われてならない。
本篇を以って底本の『初稿本「三人の処女」から』は終わっている。]

